十三章
レコーディングの場として連れて行かれたのは、大学から高速道路で一時間も行った所にある、海を臨める場所にあるスタジオだった。小野瀬の運転する例のバンに乗せられて、私達は遠足に出かけた。そう、それはまるで遠足だった。高速を降りて、海沿いを走るとすぐに山の中へと入り、緑の眩い樹々に囲まれたロッジ風のお洒落な建物があった。それで私は、うっかり後部座席にぎゅうぎゅう詰めに載せた楽器のことも忘れ、知らず歓声を上げたのだ。「まあ、素敵!」すると即座に小野瀬から「遊びに来たんじゃねえぞ」と釘を刺された。私は焦燥して「勿論よ。」と答えたが、興奮はなかなか冷めやらなかった。小鳥たちの囀り、見たことのない樹々と小川。そんな風景に囲まれた建物は二階建てで、一回はどうやらバンド練習用のスタジオ、二階がレコーディングスタジオになっているようだった。開け放された玄関からは、部室とはまるで違った、真新しい機材がたくさん鎮座するスタジオの部屋を見通すことができた。
私たちが車を降りると、間もなく優し気な顔した、とてもデスメタルの曲をアレンジしてくれるとは思えない、山中のお洒落なカフェでも経営していそうな壮年のエンジニアさんがやって来て、「いやあ、ようこそ。」と言い、高宮と握手を交わした。
「また君らと関われて嬉しいよ。」
言うに言われぬ笑顔を浮かべて、エンジニアさんは言った。
「……もしかして、君が、新しいギタリスト?」
こういう、いかにも信じ難いといった視線は既にあちこちのライブハウスで経験済みだったので、「はい、今成まりあです。」と、精いっぱい愛想よく答え深々とお辞儀をした。
エンジニアさんは戸惑いを隠せぬ様相で高宮と、源藤と、小野瀬の顔を順繰りに見た。そして観念したように言った。「珍しいね、その、女性でデスメタルバンドで、ギターを弾くというのは。正直、マネージャーか何かと思った。」やたら瞬きを繰り返しながらエンジニアさんは言った。
確かに今日のファッションは例のメタル・ユニフォームではなく、Cecil McBeeの、黄色のギンガムチェックで、裾に三段のフリルのついたキャミソールワンピースを着、頭には同じ柄のシュシュを付けて、一つに束ね、少しだけ毛先を巻いていたのだ。足元にはひまわりのコサージュが付いたサンダルを履いて。デスメタルバンドのマネージャーがCecil好きかというとわからないけれど、どうもギタリストよりはマネージャー寄りのファッションであるようだった。
「遠慮は要りません。いつもの感じでやって下さって結構です、というかそれを期待していますんで。」高宮は淡々と述べた。
「この中で、一番死に直面してきたのは私だと思うんです。だから、デスメタルを一番リアルに弾けるのは私だと思います。」
エンジニアさんは驚いたように私を凝視した。
「でもレコーディングは初めてなので、一生懸命頑張ります。今日の日のために、一生懸命練習してきました。」
うん、うん、とエンジニアさんは何度か頷くと、二階のスタジオへ私たちを招き入れ、準備に入らせると最初に全体で合わせることを指示した。私たちは手早くセッティングを済ませると、ひと通り機械的に曲を合わせた。
「じゃあ、これをベースに、源藤君から行こうか。」
エンジニアさんがそう言うと、源藤は「おっしゃー」と叫び、とスティックをぶんぶん振り回しながら、ガラス越しの部屋へと入った。
ヘッドフォンを装着し、イントロからガンガンとドラムを叩きまくる。大得意の土砂崩れもクラッシュの響きもとても素晴らしい。この美しい風景と空気とがこのような音楽を生み出すのか、喚いている歌詞の内容は絶望的だけれど、と思った。
一通り終わると、細かな指示が次々に飛んだ。エンジニアさんは音のずれ、大きさ、一つ一つリテイクを注文する。源藤はかつて見たことのないような峻峭な顔付きで、それらに応えていった。私はパイプ椅子に座ったまま、隣の高宮と小野瀬を見る。彼らは顔色一つ変えることなく、源藤を見つめていた。少し、厳しくないかしら。今の、何が悪かったのかしら、全ての言葉は飲み込まされた。
「前回より技量は上がったけれど、これ以上はいかないね。今の君の限界は、わかった。もしもっと上を目指すつもりならば、ズレ乃至音量に貪欲に正確さを求めて行かなければ。」約二時間後、部屋から出てきた疲労困憊の源藤に対しエンジニアさんはそう淡々と語った。「ライブではごまかせても、音源ではそうはいかない。」
源藤はそう追い打ちを掛けられると力なく肯き、その場に倒れ込んだ。高宮に恨みがましい目を向け、「もう俺はダメだ。ドラマーとしても人間としても生き物としてもダメだ。高宮、俺が死んだら聖地の前に土地買って埋めてくれ。」
「ダメだ、あそこは地価が高い。次、小野瀬。」
殆ど地獄行きの宣告のように高宮は言った。
小野瀬は眼光鋭くDEANのネックを握り締め、ガラス越しの部屋へと入る。いつもより一層色白というよりも蒼褪めて見える小野瀬は、いつものように脚を広げたり、上半身を折り曲げたりすることなく、往年の演歌歌手のように微動だにしないまま、先程の源藤のドラムに合わせて弾き始めた。何の問題もないように思えたが、やはり一曲が終わるとエンジニアさんの厳しい言葉が次々に投げ掛けられた。粒を揃えろ、ドラムを聴け、強弱付けろ、私は凄惨な事故現場に出くわした通行人のように、目を瞑って情報を遮断する、つもりだったが結果はまるで違っていた。妥協を許さない声が、そしてそれに応えられない音が、次々にストレートに耳に入ってくるばかりである。
帰りたい――。という思いを自覚した瞬間、慌てて振り払う。
「これ終わったらよ、旨いステーキ屋連れてってやっから。」高宮が小野瀬を見据えたまま言って、にやりと笑んだ。
「……っつうか、実際、ステーキしか誰も頼まねえ洋食屋だけどな。」部屋の真ん中で仰向けに倒れたままの源藤が天井を茫然と見上げながら言った。「どんくらい旨いかっていうと、この店があるが為に、この市内にどんなレストランチェーン店がやってきても即座に潰れちまうぐれえだ。」
「あなたたち、それで肉肉言っていたのね。」
「そうだ。そのぐれえの獣性を満たす歓びがねえと、乗り越えられるもんじゃねえ。」
源藤よりは少々、小野瀬の番が早く終わった。しかしそれを誇るでもなく、否、それ以前に気付くまでもなく、小野瀬は源藤を蹴飛ばし場所を空けると倒れ込んだ。
「次は、私?」
「たりめえだ。」源藤が部屋の隅に背を凭れながら、そう言った。
私は決意というよりは殆ど憎しみを込めた眼差しでガラス部屋に入ると、パイプ椅子にどっかと座り、エクスプローラーを固定しながらネックだけを見、自分が指だけの存在になったかと錯覚する程に集中した。
ドラムとベースだけの曲が流れる。
これさえ弾ければ死んでもいい。そう祈った。永久にも残る可能性のある高宮の曲の音源に、筋程の傷を付けることがあれば、死をもって償おうと思った。それがここに私が存在していい理由。
一曲目のやや早目のリフを刻む。僅かなズレも許さない。ズレたら指よ、粉みじんにしてやる。もう二度と弦を弾けないようにな。そう、自らに脅しを掛けながらやがてデスメタルで唯一ギターだけに許された慟哭のメロディーに入る。どんな立場であっても到達できない特権を、私だけが支配する。全ての絶望を込め、全ての憤怒を込め、一音一音に無限の魂魄を留める。
一通り曲が終わり、間もなく、私は茫然と顔を上げた。エンジニアさんはハモりの箇所を弾くよう指示して、それで次の曲を指示した。
「え、もう終わり? 私の限界が、見えたんですか?」
「いや、そうではないけれど。」エンジニアさんは飄々と言った。「君の場合、方向性が明確だから、あまり口出しをしない方がオリジナリティーを発揮できる。」
見放されているのか褒められているのか、戸惑ってガラス越しを見ると、そこには私を指さしながらどうやら糾弾している風の源藤と小野瀬の姿があった。高宮は椅子に凭れながら、眠たそうにも見える風情でこちらを眺めていた。その様は、助けを求めてもまともに取り合ってはくれなさそうに見えた。エンジニアさんのアドバイスやそれに準じた罵声や皮肉が出てこないのであれば、いつまでも待っていても仕方がない。私は指示に倣い、次の曲へと入った。そして、実にスムーズに生まれて初めての、レコーディングが終了した。




