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Explorer Baby  作者: maria
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十一章

 曲順を間違えることもなく、曲と曲との繋ぎにも試行錯誤を加え、私のアレンジももちろん原曲かと思われる程に馴染んできた。そうして初ライブの日がやってきた。

 私は朝日も待たずして、通信販売で届いたばかりのCHTHONICのTシャツに、迷彩柄のパンツを穿いた。ローラアシュレイの鏡に映った私は随分屈強そうに見える。私は腰に両腕を当てて、右を向き、左を向き、鼻から息を吐いた。そんなことをしていてもまだ集合時間までは時間があまりすぎる程あまっていたので、私は朝練と称してネックの端から端までを使って何度もペンタトニックで往復し、同じ動きで疲れ過ぎる前に、目の前に拳を出して、握ったり開いたりも繰り返した。やがて紫色の雲の合間から朝陽が昇ると、私はやけに神妙な気持ちになり、両手を胸の前で合わせ深々と礼をした。今日から私の本当の意味でのギタリスト人生が始まるのだ、と思った。昔ならば早朝は発作が納まる頃合いだった。いつも点滴をし呼吸器を付けながら疲弊し切って見た、紫雲を靡かせた旭日の姿に、今日ばかりは今まで生かしてくれて、ありがとうございますと感謝したかった。

 朝食に以前からママに頼んでおいた、かつ丼を食べる。「今日のまりあちゃんは、男の子のようねえ。」なんて言って驚いているけれど、そんなレベルの話ではないのだ。戦い、客とやり合い、屈服させなくてはいけないのだから。しかもこのギター一本、この身一つで。私はわざと大口開けて、米と肉を突っ込み、むしゃむしゃ食べた。苦しくてかなわなくなるまで、食べた。高宮だってここまでは食べていまいと思うと、ちょっと得意だった。

 革ジャンを羽織って「行ってきます。」と言って、今日はママとおしゃべりに興じて登校する気分では無かったので、自分でバスに乗って行った。日曜日の朝なので、客は誰も乗っていない。道行く車もまばらだ。私はますます清新な気持ちに浸りながら、学校へと向かった。

 サークル棟前に着くと、既に高宮と源藤が機材をいた。足下にはギター、アンプ、ドラムセットがそれぞれ置かれている。

 「おおおー。」と賛嘆の声を上げてくれたのは、もちろん源藤だ。「及第だな。性別と体格以外は、及第。」

 高宮はまるで関心がなさそうではあったが、私の革ジャンの下に仕込まれたCHTHONICのTシャツに気づくと、「それいいな。」とだけ呟いた。

 暫くすると、小野瀬がベージュ色のどことなくお洒落なバンを運転しながらやってきた。横にはlittle river breadと書いてある。何故パン屋なのだろうと思いつつも、緊張感の方が勝っていたので、それについては触れず機材を積み込み、私たちは都内のライブハウスへと出発した。

 小野瀬が当たり前のように運転席に座り、後部座席にお邪魔しますとばかり身を寄せた私にたくさんのパンの入った紙袋を放った。「ほら、食えよ。」包みはまだ温かく、小野瀬が素晴らしく親切な人に思えた。かつ丼なんて、食べるんじゃなかったと思いながらも、幸福な香りを漂わせる温かいパンの誘惑には抗えず、あれこれ検分する。高宮がそれを覗き込みながら、「俺、ピーナッツバターパン。ある?」と言う。

 「ある。あと源藤は焼きそばパンな。」小野瀬が答えると同時に、アクセルを踏み込んだ。

 「お前の趣味はわからねえから、女子供に人気のベーグルサンドを入れておいた。好きだろ。」

 「好き!」私は殆ど感極まって、運転席に身を寄せた。「小野瀬ってとっても紳士だったのね。私、今までただの女好きかと思ってわ。」

 「ここまで食い物に釣られる奴って、見たことねえ。」高宮が呟いた。

 「紳士じゃねえと、女からそうそう好かれねえからだろ。そりゃあ別モンじゃねえよ。」助手席の源藤がもっともらしく答える。

 「でも、パン以外にも、ほら。当たり前のように運転している。」

 小野瀬が舌打ちをした。「俺は基本紳士だが、こればっかりは親切心でやってんじゃねえ。高宮は速い曲が流れれば、車のスピードもそれに比例しちまうんだ。AT THE GATESなんぞ流した日にや、箱に辿り着く前にあの世行きになる。だからといって、毎度毎度クソのろいドゥームメタルばかり流し続ける訳にはいかねえしな。俺が我慢ならねえ。源藤は源藤で曲に合わせてアクセルをバスドラ代わりにしちまう悪癖があるから、これも駄目だ。お前が早く免許を取れ。そして俺をちっとは楽にしてくれ。」小野瀬は苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちをかました。そのついでにオーディオをいじり、DISMEMBERの曲を掛けた。クールでメロディアスなリフ。溜息が出るほどに、かっこいい。

 「いいか、今日の練習だ。先ず、こう来たら、こう。」源藤が、後部座席に向き直りながら、自分の拳を自分の顔面に当てる真似をして、その直前ですっと体を右に反らす。「こっちから、来たら、こうだ。」続いて右前から来た拳を、間一髪で身を屈め、避ける。「自分の身は自分で守る、が基本だ。」

私は神妙に一つ一つ肯いた。

 「ちなみに俺はドラムセットの城を築いてっから即座には飛んでいけねえが、高宮は一番近くにいるし、背もでけえし力もあるから、気付けば何とかしてくれるはずだ。ただし、気付くかどうかは正直微妙だ。こいつ、ステージでは理性飛んでるから。」

 私はちらと隣を一瞥すると、再び源藤に向き直り、肯いた。

 「だから、まずは自分で自分を守ることが重要だ。女みてえに『キャー』なんつったって、ダメだからな。」再び源藤は「こう来たらこう避ける」の指導を続けた。私はその技の一つ一つをしっかりと頭に刻み付けた。 

 そんな話をしながらバンは高速道路をひたすら走り、見慣れぬ都会の風景が次々に過ぎて行った。地元のそれとは違って、都会の建物はいずれも固く、強く、高く、そそり立っていた。今日はここでギターを弾くのだと思うと、自分の卑小さが突きつけられるような気がして、息苦しくなった。敵を見据えるように、風景を凝視している内に、目的地が近づいたらしい。高速道路を降り、やけに車も人も信号も多い道を進むと、今夜の舞台、サンクチュアリ、すなわち「聖地」の名を冠したライブハウスに着いた。その時既に手からは汗が滲み出し、歯の根が合わなくなっていた。入口のボードには、「DEATH SENTENCED」の名がロゴも忠実に描かれている。私はそれを見ると、鼓動の激しさで気分が悪くなった。これでギターが弾けるのかしら、うかつにも口にしたら三人にぶっ潰されそうな思いを胸に秘め、私は生唾を呑み込んだ。

 近くの駐車場にバンを停めると、私たちはそれぞれの機材を持って移動した。ライブハウスは地下、一階が事務所になっているようだった。ガラス越しの事務所から私たちに気づいた大小多数のピアスを耳と口元に施したスキンヘッドの男が、パソコンを閉じると諸手を挙げながら外に出てきた。「いやあ、高宮君、楽しみにしてたよ。」高宮の手を両手で握った。

 「宜しくお願いします。」風貌に似合わず深々とお辞儀をした髙宮に、こいつは敬語を使えたのかと、今更ながら驚いた。

 「この子が、例の?」

 スキンヘッドは高宮の後ろに控えていた私の前に歩み寄り、笑みを浮かべながら、「珍しいね。デスメタルバンドで女の子がギターを弾くって。」と言った。

 「済みませんねえ、全力で苛立たせる風貌で。」源藤が笑いながら、私の頭を掌でぐいと下げた。

 「宜しくお願いします。今成まりあです。」慌てて下を向いたまま言った。

 「僕はここサンクチュアリのブッキング担当の、実岡です。宜しく。」そう言って実岡さんは、私を瞬時に隈なく眺めた。これが品定めというやつに相違ない。けれど、不思議と厭な気はしなかった。こうやって私はこのバンドに入った以上、あちこちで視られることになるのだという予感がしていた。「……ステージでは、お嬢ちゃんぶっていてはいけないよ。戦場、だからね。」と、最初のアドバイスをくれた。

 「戦場は、好きです。私の故郷ですから。」そう答えると、実岡さんは「良かった。」とさらに微笑んでくれた。

 「この間送ってくれたスタジオ音源は、CDとはだいぶ違っているけれど、イケると思う。後はパフォーマンスだ。何事も最初が肝心だから。せっかく大きくしたファンを逃さないように、気合を入れていけよ。」実岡さんは順繰りに私たちを厳しく見詰めていき、中途、特に私の目を熱く凝視した。一巡すると私たちは「はい」と体育会の部員のように声を揃えて返事した。

 実岡さんに促され、地下への階段を下りる。重厚な扉を開けると、中は薄暗く、空気はひんやりとしていた。暫く経って闇に慣れた目で見ると、そう広くはない。おそらく百人も入れば身動きも難しくなるだろう全容が掴めてきた。しかしこれが私の人生で、最初の、人からお金を取った、プレイの場になるのだった。するとこの場に対する愛しさのようなものが芽生え、しんとした空気を精一杯味わいたく、深々と深呼吸をした。

 「リハーサルは逆順で行う。つまり、うちが最初。セッティングに入ろう。」小野瀬が先頭切って楽屋に促した。

 とは言え、機材はいつもとほとんど変わらない。いつものMARSHALL2000に、エフェクターボードを繋げる。エフェクターを端からぽんぽんと踏んで、ライトを点ける。見慣れた足元の光にほっとした。早速ピックを握り締め、弦に当てる。すると地を揺るがすような音量がし、私は驚きのあまりに叫び声を上げた。ギターの音はますます反響する。慌てて弦を手で抑えた。

 「っざけんな、クソが!」高宮が怒鳴った。唇の片方がだけが歪んで上がり、こめかみには血管が浮き出ていた。私は再び、ひぃっという叫びを漏らした。「てめえの出した音だろ? てめえが作った音だろ? てめえが考えてきたアレンジだろ?」高宮がBC,RICHのネックを固く握ったままぐんぐん目の前まで来るので、最終的にアンプの前まで追い詰められ、これ以上逃げられなくなった私は、遂に両手で顔を覆った。「責任持って最後まで弾けよ、クソが。ここで失敗なんかしてみろ。金払って来ているオーディエンス落胆させてみろ。二度と信用回復できる機会はねえぞ。そうしたらてめえ、ぶっ殺すどころじゃ済まされねえからな。てめえの立ち位置、解ってんのか。ここのギター張ることが、どういうことか、解ってんのか? クソが。」急に饒舌にさえなっている。喉の奥がごつごつ傷み、嗚咽が出そうになった。

 「たかみやあ。」源藤が高宮の背に腕を回し、摩る。「そんな、怒るなって。そもそもスタジオ使わずに、音響最悪のボロ部室で練習するって拘ったのは、お前だろ? ここでちゃんと音を出せるようにならねえと、ライブでは太刀打ちできねえなんつってよお。それにライブやったことねえ奴が耳慣れちまったのは、しょうがねえじゃねえか。」高宮は「ああ?」とか言いながら、今度は源藤に向き合い凄んだ。

 「だから言ったんじゃねえかよ。ハコ借りるのは無理でも、一度まともな音出せるスタジオ入っておこうってさ。」小野瀬も呆れたように言った。

 「大丈夫だよ、前日にコピーしてこいっつって、アレンジまで完璧にやってくる奴だぜ? なあ、今成。そのJamesのエクスプローラーが付いている限り、無敵だろ?」源藤はそう言って歯茎を見せて笑った。

 私は激しく何度も肯いた。

 「耳栓使えよ。」源藤が、くたびれたチノパンのポケットから小さな耳栓を差し出した。

 「うん。」私はそれを左右それぞれにぎゅっと耳の奥まで突っ込んだ。思いの外密閉される。「あーあーあー」と声を出してみた。内側からの響きだけの、妙な声だ。「大丈夫。」自分に言い聞かせるように、言った。

 「客の前で今のクソみてえな態度取るんじゃねえぞ。客から金取ってることを一秒も忘れんじゃねえ。」

 そう言って凄んだ顔は、MEGADETHのライブ映像で観たフロントマンのDave Mustaineに似ていた。理不尽な怒りを数千もの聴衆に向けて発していたフロントマン。しかしそれは、自分にだけ直接向けられるのとは全く違っていた。私は嗚咽が出ないように、必死に何度も生唾を呑み込んだ。

 それから、と私は唇を噛む。幾ら部屋でギターを弾いたって、部室で練習をしたって、とにかく私だけがライブ一つやったことのない、赤ん坊なのだ。堪らなく悔しかった。でもここで泣いたり、引いたりしてはいけない。高宮が更に激昂する。私は大きく息を吸い、目を見開いた。熱い涙が散じた、ような気がした。

 フロントに戻った高宮の姿を見て、音響の担当者が音量と音質のチェックを促した。源藤、小野瀬、私、高宮と一人一人順番に、今日使う音質を確認していく。今度は耳栓のお蔭か、問題なく弾くことができた。最初と最後の曲を頭だけ合わせて、リハーサルは終わった。

 三人は近くの旨いラーメン屋に行くと出かけたが、私はステージに立つということが改めて実感され、胸の奥がずっと激しくツーバスを刻んでいるような状況だったので、楽屋の隅で一人イヤホンを付け、今日演奏する曲をセットリスト順に聴き始めた。CDとは違って大分音質は悪いけれど、部室で録った、私のアレンジの、私のギターで演奏した、曲だ。これが決して最上とは思わないけれど、今の私にとっての限界のテクニックと、曲の解釈が詰め込まれている。たとえ客が怖くても、色々飛んで来ても、泣かずに逃げずに弾こう。高宮の言うとおりだ。私は自分の意志でここに立っているのだし、お客はたとえどんな人だってお金を払ってきているのだし、それに対しては責任を持たなくてはならない。うっかり怪我して死んだって、どうせ元々二十歳で死ぬと言われたのだから、惜しむことは無いじゃないか。病院の外に出て、デスメタルバンドでギターを弾けるようになっただけでも万々歳だ。そう思えば、私の胸中からは恐怖や不安が消え、沸々と興奮と期待感が湧いて来た。


 いつの間にかライブが始まったようだった。今日は都内を中心に活動するデスメタル、ブラックメタルバンドばかりを集めたライブで、最初に始めたのは引き摺るような音に、金切り声を上げるボーカルが印象的なブラックメタルのバンドだった。

 私は相変わらず楽屋の隅で、目を瞑りながら自分の曲を聴き、運指のイメージを辿らせていた。セットリストを何周目かした辺りで、三人が戻って来た。

 「まーだ、イメトレやってたのか。」源藤が呆れたように言った。「大丈夫だろ、多分。それよりよお、今やってるバンド観てみ?」

 私は楽し気な源藤に促され、楽屋を出ると袖でそっと身を潜めながらステージを眺めた。

 メンバー全員が腰まで届かんとする長髪に、白と黒の恐ろし気なコープスペイントを施している。

 「あのボーカルな、家からあのメイクで来るんだぜ。」源藤がステージを裏から覗きながら、そう耳打ちした。

 「本当に!?」

 「マジだ。一度総武線で一緒になったことがある。乗り合わせた子どもが泣いていた。」

 私は深々と溜息を吐いた。

 「けれど、あいつは、実は、保育士だ。」私は思わず振り向いた。源藤はこれ以上聞いてくれるなと目で制し、再びステージを眺める。

 世を憚る姿を有しながら、完全に世間に阿ることもできないというその葛藤と社会への不満とは確かにステージングにも表れていた。どこからそのエネルギーが湧いてくるのだろうと思う程に、激しくヘッドバンキングを決め、ソロになると用意した高台に昇り、とにかく一時たりとも止まってはいない。そのステージの後方には、常にぐらんぐらんとギロチンが左右に大きく揺れており、その前で曲の合間に、水牛の頭の骨を叩き割るのだ。私は見ているだけでクラクラした。暫く座り込んでいると、客の感極まった歓声で、ライブが終焉を迎えたことが分かった。

 間もなくコープスペイントの集団が楽屋に戻ると、「お疲れー。」なんて普通に言い合っている。何人かは楽屋の隅にある洗面台を使って化粧を落とし始めた。すると瞬く間に普通の、髪の長いだけの青年になった。その後も屈強な男たちのバンド、全員NAPALM DEATHのTシャツで統一したバンドなど、いくつかのバンドがライブを行い、終えて行った。「そろそろだな。」ベースのチューニングを丹念に行っていた小野瀬がそう言って、メンバーの顔を順繰りに見回した。源藤はスティックを両手で持ち、あれこれ捻りながら、ストレッチを行っていたのを止め、高宮は宙の一点を見つめていたのを、私たちに向けた。私は何度聴いても不安ばかりが膨張するので、イヤホンをしまい、しきりに基礎練習を繰り返していた。今演奏しているバンドがスタートした頃からエクスプローラーのネックを握る手は、拭いても拭いても汗が滲み続けていた。そのたびに買ったばかりの軍パンに擦り付けていたが、あまり意味は無かった。一曲、一曲が終わるたびにこれで終わりかと鼓動が激しくなる。そうして本当に最後の曲が終わった。

 「行くぞ。」高宮がどんと私の背を押した。「絶対ぇ、引くなよ。」

 「とりあえず何か来たら避けろ。あと客に何か言われたら、『黙れ、クソが。』でいいからな。」源藤が益々楽し気にそう呟いて、私の肩をばしっと叩いた。続いて小野瀬が鼻歌を歌いながら、「ま、高宮よりは怖くねーよ。」と言った。

 SEが静かに鳴り響く。高宮が持ってきた、どこぞの宮廷音楽家の作ったレクイエムらしい。しかしそれは天国を信じ切っているが故の、どこか投げやりで無根拠な前向きさがあり、今の気持ちによく合っていた。私の頭の中には絶え間なく、次々と今日の曲の運指が過る。私は小野瀬に続いて、未だ昏いステージへと一歩を踏み出した。

 「何だ、てめえ。」客席から、激した男の怒声が即座に響いた。

 「ローディーじゃねえのか。」

 「郡司の女かよ。気取んじゃねえ。郡司出せ。」

 酔っているのだろうか。シールドを繋いでいる傍から酒臭い。私は無視して後ろを向いてセッティングを始めた。背中に缶が当たった。濡れた感覚は無いから空き缶に違いない。さすがに機材を濡らしてしまえば、高額な請求が来るというだけの考えはあるのだろうと思うと、ほっとした。それに源藤の言うとおり、缶が当たったくらい大して痛くは無い。

 「下がれ、マンコ。」罵声は次から次へと木霊する。

 「犯されてえか。」哄笑が上がった。

 「クソアマが。降りろ。」

 シールドが繋ぎ終わり、アンプの電源を入れたので、私は客席に向き直って、足元のエフェクターボードを開き、最初の曲で必要なスイッチをがしがしと勢いよく踏んでいった。するとまた缶が飛んで来て、今度はネックに当たった。私はかっとした。私ならいい。でもギターは許せない。Jamesのギターだ。私に第二の人生を歩ませてくれた、ギターだ。

 「黙れ、クソが!」私は足元の柵を蹴っ飛ばしながら、目の前にいたオーディエンス達にそう怒鳴った。彼らは少なからず怯んだ。言い返されるとは思っていなかったのかもしれない。そしてさっき高宮に言われた言葉が耳朶に蘇ってきたので、それもついでに付け加えてみた。「てめえの立ち位置、解ってんのか。」高宮が肩で小さくくすっと笑う。それから暫く罵声は静まった。「行儀よく聴け。」

 準備の終わった源藤の、バスドラムの音が二つ、三つ響いた。それでさえ客層は一々歓声を上げ、相当に今日このステージを待ちわびていたということが自ずと伝わって来た。

 私のセッティングも終わり、再び「クソが。」「引っ込め。」「郡司出せ。」等の声は上がったが、それ程盛り上がることも無く、準備完了の合図を源藤にアイコンタクトで送った。

 一曲目。

 土砂崩れ。

 客が目を剥いた。

 誰よりも力強く、誰よりも怒りに満ちた、リフを奏でる。私は客を睨んだ。ビビッていやがる。ざまあみろ。どうしようもなくてほくそ笑んだ。途中で入って来る高宮のリフで、それは哄笑に変わった。客は叫び、拳を突き上げ、頭を振り下ろし、暴れている。私はその勢いに押されて後ずさろうとしたが、ふと、高宮の「引くなよ。」という一言が脳裏に浮かび、左足をどっかとヘッドアンプの上に載せ、そのまま自分の音を満身に突き刺すように弾き続けた。その時、私は世界一強い人間になった気がした。病気で息が出来ず、熱に魘され、今夜こそ死ぬかもしれないと恐怖し続ける、そんな日々がすっかり前世の記憶のように思われた。

 一曲目が終わり、二曲目に入る。繋ぎも完璧だ。

 客は叫び続ける。それを切り裂くように私のイントロが入ると、客席にサークルが出来、渦を巻き初め、一層客席は無秩序状態となった。高宮がそこに君臨する王であるとばかりに何度も叫びがなり立てた。私はその王が立つ大地を支えんが如く、リフを激しく刻み続けた。ドラム、ベースもマグマを抱えて大地を震わす。そして訪れるソロ。雷を落とすように。激しい雹を降らすように、私は一人離脱して、より煌びやかでより刺激的な、新たな世界を示した。客は私の音を浴びて待っていたとばかりに、絶望と歓喜との綯交ぜとなった絶叫を聞かせてくれた。

 ライブは幾つもの世界を創り上げ、やがて四曲目、五曲目と進んだ。高宮は郡司さんが辞めて、私が入って云々だとかを含め、話は一切しなかった。ただ獣のように吠え狂い、客を片っ端から咬み殺していくように思えた。だから私はその合間合間で牙を剥くギターを弾き、後はこの猛々しい獣を支え、讃えた。

ライブはあっという間に終わった。迸るライトと内からの熱で体は火照り、全身が脈打っていた。息切れがなかなか止まらず、激しい心臓の鼓動と呼応するように頭痛もし出したけれど、このちっぽけな体を突き抜けようとする、精神が燃え滾っているのを感じた。これを何度も続けたい、単に続けるだけでは、駄目だ。より高みまで、上り詰めたい。そのためにこの役割は誰にも手渡したくない。その為にはどんな努力でもしてみせるから。そう誓った。

 客も何度も吠え狂い、自身を殴っている者もあった。私は全ての曲を終え、暗闇となったステージ上で、震える手でアンプを切り、シールドを抜いて、舞台を降りた。手ばかりではなかった。膝もがくがくと震え、よく立っていれたものだと感嘆するより早く楽屋に入った瞬間すぐに落書きだらけの壁に上半身を凭れさせ、そのままずるずると座り込んだ。目を瞑ると、世界が輪を描いて回り、上下の感覚さえ分からなくなった。

 その時だった。「お疲れ。」と、高宮がハイネケンの缶のタブを開け、頬にくっ付けたのは。驚いて目を開けると、そこには真っ白な泡を垂らしているビールの缶があった。ビールは苦くて好きでは無かったけれど、この時ばかりはとても素敵な飲み物に思えて、白く拭き出した泡にそっと唇を寄せた。

 「上出来だ。」高宮はそこに立ったまま、自分のハイネケンを巧そうに飲みながらそう言った。「よく、引かなかったな。」

 しかし私はすぐには答えることが出来なかった。

 「何か、不満?」

 「不満全開よ。」私はそう言って眩暈を振り払うように、頭を左右に振って立ち上がった。「一曲目から二曲目の移行で、もっと音を全面に出して、スムーズな入りにすればよかった。どうせ二曲目はギターのリフから入るんだし。遠慮は無用ね。それに三曲目のイントロ、タイミングをもっと遅めにすればよかった。客があれだけ盛り上がっているんだから、源藤のドラミングを十分に聞かせて。それに最後も、リフに専念し過ぎた。もっと頭振って、もっと客を意識した動きをすればよかった。」

 高宮は吐き出すように笑った。「そうだな。……次は期待しているよ。」

 「次?」私はすっとんきょうな声を出して高宮に迫った。「次があるの?」

 「……そりゃ、あるよ。」高宮は不審げにハイネケンの瓶を唇から話した。

 「良かったー。」私はずりずりと壁に背を持たれたまま、再び座り込んだ。「これでクビになったら、どうしようかと思ってたの。」

 高宮は「あはは」、と珍しくさも楽し気に笑った。「クビにすんなら、METALLICAの時にもう来んなって言ってるよ。」

 「METALLICAの時にもうバンド入れるって、思ってたの?」

 高宮は少し神妙な面立ちになって、黙った。「俺もダイヤモンド・プレート欲しかったんだよなあ。発売当時、ガキだったから買えなかったけど。でも、やっぱ変形だよなあ。」幾分饒舌になっているのは、ライブが「上出来」だったためか、酔っているためか、よくわからなかったけれど、幾ら質問をしても本当の答えは言葉では聞けないことだけはそろそろわかってきた。

 まあ、よい。一つ一つに私が思う方向に全力で取り組むことだ。それでいつかクビを宣告されたら、それはそれで甘んじるべきなのだ。

 片づけも終わり、客もまばらとなった。私は思いの外疲労困憊していたので、打ち上げには参加せず、先に車に戻って休ませてもらうことにした。余程酷い顔をしていたのかもしれない。メンバーの誰も、私を特に引き留めようとはしなかった。

 ダイヤモンド・プレートが導いてくれたバンド活動は、私の見たことも触れたこともない世界を見せてくれた。そして今後もそれは大きく拡大しようとしている。私はずっと四角ばった真っ白い病室だけが世界だと信じていたけれど、もっと熱い、不可解な、面白い世界があることを教えてくれた。

 バンの後ろ、ギターだのアンプだのの間に身を横たえていた私は、車の振動と遠く流れるHonor Your Senceの音楽で、いつの間にか打ち上げが終わり、帰途に着いていることに気付いた。うっすらと目を開けると窓には、流れゆく夜景と共に、疲れているけれど、ギタリストとしての自覚が芽生えた自身の顔が映し出されていた。ダイヤモンド・プレートも車と共に体を左右に揺らして、今後の幾多もの物語をこの上なく楽しみに待ち望んでいるように思えた。これからは常にこの子と一緒に物語を紡いでいくのだ。積み重ね続ける日々の昏い練習も、そんなことを僅かにも感じさせない煌びやかな舞台も、何もかも。私はケース上から、熱い掌でネックをぎゅっと握った。きっと私は今日のために生まれた。そして明日のために生きるのだ。

CHTHONIC [BROKEN JADE]

https://www.youtube.com/watch?v=heF_NPJbv8Y

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