九話 優しい魔女の物語
「お父さん、おれ、お父さんとお母さんの名前も書けるようになったんだよ!」
「そうか、よかったじゃないか。セフィとは仲良くしているかい?」
「もちろん! それに、セフィはおれが守るんだからね!」
やわらかな月の光だけが、父子の寝室を照らしていた。
パン屋のニックと、その息子のトニーは毎晩こうしてベッドの中で一日の出来事を語り合うのが日課だ。それは、ニックの妻でありトニーの母が亡くなってから続いている。もう少し幼いころには寝物語を聞かせては寝かしつけていたが、立派に成長したトニーにはもう必要なかった。
けれど今日は、珍しくトニーが物語をねだってきた。
「お父さん、おれ、あのお話が聞きたい」
「珍しいなあ、トニーが物語を聞きたがるなんて。なにかあったのか?」
「ううん。何にもないよ。セフィや町のみんなと一緒に、レオンからいろんなことを教わるのはすごく楽しい。でも、ときどき、セフィを見ているとお父さんが良く話してくれたあのお話を思い出すんだ」
あのお話。
それはこの町にひっそりと語り継がれている物語だ。
「いいけれど、約束は覚えているかな?」
「うん。お話のことはだれにも秘密、でしょ?」
そう、このお話はだれにも秘密。この町の人ならきっと誰もが知っているだろうけれど、誰も口にはしない。そうして親から子へ、ひっそりと、でも確かに語り継がれてきた物語。
「その通りだよ。トニーもきちんと約束を守れるね?」
「うん、おれ約束守る」
トニーがしっかりうなずいたのを確認して、ニックは寝かしつけるように、ぽんぽんとトニーの背をゆっくりたたきながら話し始める。
――――むかしむかし、僕らが生まれるもっとむかしのこと。
この世界には僕ら人間と、人間によく似た魔女が住んでいました。魔女は神秘の力を使うことができましたが、みんな優しく、人間と仲良く暮らしていました。
とある小さな町に近い森には、心優しい魔女がいました。彼女は人間の病によく効く薬を作っては町の人に分け、町の人はお礼に贈り物をし、善き隣人として長い間暮らしていました。
しかし、町の外の人間は違いました。魔女を善き隣人とは思わず、欲望のまま利用しようとしたのです。魔女と違って神秘の力を持たない人間は、代わりに剣と火薬を作りだしました。そして、身に余る力を身に着けた人間は魔女を狩り始めたのです。やがて、この小さな町の隣人である魔女も狙われました。
ある日、魔女を渡さなければこの町を焼き払うと、巨大な軍隊がやってきました。町の人々はとても悩みました。自分たちの町と、心優しき魔女のどちらを守るべきか。町の人は悩み話し合って、森に住む魔女の元を訪れました。
そして、今軍隊に囲まれていること、魔女を渡さなければ町が焼き払われてしまうこと、自分たちを助けて欲しいこと―――――つまり軍隊の元へ行ってくれとお願いしたのです。
優しい魔女は笑顔で頷くと、自らの足で軍隊の元へと行き、自ら囚われました。申し訳ないと思いながらも、これで助かると町のみんなは思いました。しかし、軍隊は約束を破ったのです。容赦なく町に火をかけると、食料や金品を次々に奪っていきました。
――――助けて! 助けて!
町の皆は揺れる炎の中、逃げ惑いながら叫びました。
――――魔女様助けて!
自分勝手とわかっていても、縋れるのは魔女しかいませんでした。
そして、魔女は町の人々の願いを聞き届け、神秘の力を振るいました。魔女の声に呼応するように、魔女が住んでいた森が暴れだしたのです。
強烈な木枯らしは町に放たれた火を消し飛ばし、異常に伸びた木の枝は町に押し入る軍隊を阻み、土の下で張り巡らされた植物の根は容赦なく軍隊の力を奪っていきました。やがて軍隊は撤退を余儀なくされ、魔女をとらえることもできずに撤退していきました。
町の人は大いに喜び、助けてくれた魔女に大変感謝しました。しかし魔女は、その場に苦しそうにうずくまってしまいました。曰く、魔女の力は世界の理。理に逆らって力を振るってしまったがために、魔女は世界へと還される――――つまり死んでしまうというのです。人々は先ほどの喜びもつかの間、嘆き悲しみ次々と謝罪の言葉を口にしました。
自分たちを助けるために申し訳ない。軍隊に渡そうとして本当にごめんなさい。
しかし、魔女は身勝手な人間に憤ることなく微笑むと、ひとつ言葉を残しました。そして魔女はその身を植物の綿毛に変えて、空に旅立つように世界へと還っていったのです。魔女が消えた後、魔女の力によって異常な成長をしていた木々は、ゆっくりとその姿を穏やかな森に変えていきました。けれど、魔女が住んでいたその森は、人が立ち入ると決して出ることは叶わなくなっていたのです。それから、森はいつしか”惑いの森”と呼ばれるようになりました。
――――今まで、私の善き隣人でいてくれて、ありがとう。
魔女の最後の言葉は、小さなその町でいつまでも語り継がれています。
心優しき魔女はいつの時代も、惑いの森より深く柔らかな緑の瞳をしていたそうです。
「そして魔女に守られた町の人々は、魔女への感謝を忘れずいつまでも平和に暮らしていましたとさ。おしまいおしまい……」
物語を締めくくったニックは、すでに夢の中にいるトニーに布団を肩までかけ直した。
トニーは決して察しの悪い子ではない。今日この魔女の物語をねだったのは彼なりに感づいていることがあるからだろう。ニックだって当然とっくに気づいているし、それはこの町の大人は皆そうだと思う。けれど、この町の人間がそれを口に出すことはない。
ニックは初めて深緑の瞳を見たとき、まさかなと思ってつい声をかけてしまった。そして少しずつあの花売りと名乗る少女と仲良くなっていって、もしかしたらと思うようになった。でも今は、ニックもこの町のみんなも、あの心優しい花売りの少女を大好きだから、昔話なんて気にしなくなった。
トニーの「セフィはおれが守る」という言葉を頼もしく感じながら、ニックもまた眠りについた。
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レオンとセフィが交流するようになって一か月と少し。レオンがこの小さな町にやってきてもうすぐ二か月になろうとしている。
二人は今日も町はずれのおばあちゃんのところを訪れていた。
セフィは今日も新しい花を飾り、元気のなくなった花を片付ける。レオンは外で家の周りの雑草を刈ってくれている。
おばあちゃんは日に日に微睡む時間が長引いていった。もう食事もほとんど喉を通っていないし、必然的に不浄を済ませることもない。
「おばあちゃん、少し体をふくね」
「あぁ……、ありがとうねぇ……」
おばあちゃんはか細い声でセフィに答えてくれた。食事量が減って、大樹のようだった手はまるで枯れていくように細くなっていた。それがとても悲しくて、一層丁寧におばあちゃんの体を拭いていく。拭きながら着替えもして、体が冷えないように布団をしっかり身体までかけたら今日やるべきことは終わりだ。
レオンの作業もひと段落したようで、窓越しに視線が合うと、レオンはセフィに笑いかける。セフィも笑い返すと、なんだかくすぐったい気持ちになる。
「また明日来るね、おばあちゃん」
「…………」
おばあちゃんは微睡みの中にいて、今度はセフィに答えてくれなかった。後ろ髪をひかれるような気持ちで、レオンとセフィはおばあちゃんの家を後にする。
おばあちゃんは、きっともうすぐ世界へ還るのだ。遅かれ早かれ魔女もいつか世界へ還る日が来るというのに、どうしておばあちゃんが先に逝ってしまうのはこんなに胸が押しつぶされそうになるのだろう。苦しい気持ちを抱えながら、セフィはレオンの隣を歩きながら、子供たちと待ち合わせている公園へ向かった。
「セフィ―、レオン―! 早く早くー!」
公園で元気よく手を振っているのはトニーだ。トニーに続くように、他の子どもたちもセフィとレオンに手を振って二人に駆け寄ってくる。元気の良い子供たちを見てセフィとレオンは自然と笑みがこぼれ、二人も子供たちの元へ自然と駆け寄っていった。
しかし子供たちが一斉に走り出したなら、つまずいて転ぶ子供が出てくるのは当然かもしれない。
「うえぇぇぇん! いたいよぉ!」
転んだのは小さな女の子だ。
セフィは真っ先に女の子の元へ行くと、打ち付けた膝小僧や、擦り傷ができていないか確認する。
「痛かったね、大丈夫よ。ケガはしていないからね」
セフィがそう声をかけて宥めるが、女の子はまだ泣き続けている。転んだ痛みより、転んだことでびっくりしてしまったのだろう。他の子どもたちも心配そうに女の子を慰めている。
そのとき、レオンが女の子を抱きあげた。
「もう大丈夫、かわいいお姫さま。さあ、あんまり泣いていると愛らしいお目目がこぼれてしまうよ? 僕らに素敵な笑顔を見せてほしいな」
レオンは女の子を片腕にしっかり抱きながら、反対の手であふれる涙をぬぐう。それはまるでおとぎ話の王子様がお姫様にするように芝居がかっていて、女の子は涙を止めて思わず笑顔を見せた。レオンは泣きやんだ女の子に、お姫さまは笑っていたほうがかわいいねと囁くと、ゆっくり腕から下ろした。
その場にいた他の女の子たちは、王子様然としたレオンの仕草に声にならない黄色い声をあげ、男の子たちはどうやったらそんな王子様みたいなことができるのかと羨望の眼差しを向けた。
「さあみんな、今日は算数を勉強するからね」
レオンは気を取り直して伝えると、子供たちはレオンの前にいい子で座った。そして今日も、レオン先生の授業は始まったのだった。