六話 魔女と約束
彼は一晩、難解な森の中を進んでいた。獣道一つない深い森。
(あの子はどこにいるんだろう……。)
どこにでもいるような淡い金色の髪なのに、それとは対照的な深い緑の瞳がとても印象的な女の子だった。
あの子はもしかしたら、あの方を助けることができるかもしれない。やっと見つけた希望の欠片なのだ、こんなところで失うわけにはいかない。
その執念で、この森を一晩歩き続ける。それにしても、この森は普通じゃない。進むうちに、どんどん森の雰囲気が変わっていくのだ。正直、今引き返しても無事に町へ戻れる気はしていない。ここまで深い森だとは思いもしなかったが、セフィを助けることができないのなら、町へ戻れたとしても意味はないのだから別に構いはしない。
そして、「彼女」は唐突に現れた。
森の先に、少し開けた場所が見えたときだった。自分の目の前に、人間ではありえない青い髪の少女が現れる。髪の色以外、姿かたちはそっくり自分と同じ人間なのに、一目で少女は人間ではないと分かる。
少女は髪よりも深い青い目を細めて、口を開く。
「なぜこの森に立ち入ったのかしら?早々に立ち去りなさい。」
まるでこの国の王族のように、威圧的な態度で告げる。口答えをするのも恐ろしい畏怖を感じるのは、少女が人外のものだからだろうか。けれどレオンは、意を決して尋ねる。
「分かりました。ですが、私は女の子を探してこの森に入りました。彼女が見つかったらすぐに立ち去ります。」
少女は、不敵に笑っていた。
「ならないわ、今すぐ立ち去りなさい。これが最後の忠告よ――――立ち去れ。」
レオンはたったの一言で、体が恐怖に支配された。声を出すこともできなかったが、ここで引くわけにもいかない。首を横に振るので精一杯だった。
少女――ディアナはその仕草を確認すると、仕方ないわね、とつぶやく。
「ならば、ここで死になさい。」
ひどく冷たい声だった。
ディアナは右手を前へ出すと、どこから現れたのか、水がレオンの顔めがけて飛び出てくる。レオンはとっさに腕で庇うが、すぐに意味のない行動だと気付く。
ディアナの放った水は、重力など関係ないかのように、球状になってレオンの顔を覆う。口も鼻も覆われて、息ができない。慌てて身体を捩って逃れようとするが、振り切れる気配もない。手で水を払おうとしても、すり抜けるだけ。しばらく暴れたが、ただ無駄に酸素を消費するだけだった。
そしてレオンは、とうとう膝から崩れ落ちる。呼吸ができず、全身から力が抜けていく。それでも苦しくてもがいていたが、目の前の青い少女の姿さえ霞んできた。
死にたくない、死ぬわけにはいかないんだ。俺は、シャーロッテ様を…………!
死の淵に立たされたからだろうか、不意に頭をよぎる。
人ならざる者、人に持ち得ぬ、その力を持つ者は。
(この女、まさか、魔女……?)
しかし、すでにその真偽を確かめる術はレオンにない。意識を保つので精一杯で、もう指先一つ動かせやしない。
その向かいで、ディアナは地に這いつくばる人間の男を見下ろしてていた。
これで、良かったのだと。セフィは、守ることができる。
「――――やめてええええええ!!」
森をつんざく絶叫が響いたのは、レオンが絶命する直前だった。
ディアナが驚き振り返ると、そこには言いつけ通り町娘の格好をして、肩で息をするセフィがいた。
「セフィ、どうして……!?」
突然現れたセフィに、ディアナは驚き戸惑う。その間に木の根がレオンの顔を覆う水へと伸び、あっという間に吸い尽くしてしまう。
「う、はっ、はぁ……。」
すでに視界がブラックアウトしていたレオンには、何が起きたのか分からない。しかし、突然取り込むことができるようになった空気を、胸いっぱい吸い込む。そして呼吸が落ち着いてくると、目の前に探していた女の子の姿を見つける。
「けほっ、けほ。……ああ、セフィ、無事だったんですね。よかった。」
レオンは咳き込みながら笑うと、身体を起こす。少しふらつくものの、土埃を払って立ち上がった。
ディアナは戸惑う。言いつけを破って、セフィは人間の前に姿を現してしまった。先ほどの攻撃でほとんど使ってしまい、手持ちの水は少ない。この森はセフィの領域だ。同じように目の前の人間を殺そうとしても、間違いなくセフィに防がれる。
私はともかく、セフィまで魔女と知られるわけにはいかない。
ディアナは、一つ決意をする。
「人間、お前は何のためにセフィを追った。」
「彼女の作る薬が、私の大切な人を助けることができるかもしれないのです。セフィには断られてしまいましたが、何かヒントでも得られないかと森まで追ったのです。」
突然深い霧に包まれて、姿を見失ってしまいましたが。
そうレオンは続ける。一晩探し続けた淡い金髪の彼女は、魔女と思しき少女の後ろにいた。
「あの霧は、貴方が?」
「あら、なぜそう思うのかしら」
「……魔女。貴女は、魔女様ではありませんか……?」
魔女。
それは人ならざる力を持った、人ならざる者。人とは決して交わることはないけれど、人のすぐ近くで生きているという。かつてはとある国の王族を惑わし、国家を一つ滅ぼしたとも言われるが、事実かどうかは分からない。しかし、その力を恐れると同時に利用しようと、大規模な魔女狩りが行われたのは100年ほど前のことらしい。
今では魔女のことなど人々の記憶からはほとんど忘れられ、おとぎ話の中で語り継がれるか、歴史書の片隅に記されるのみだ。
レオンも実際に青い髪の少女を見るまでは、魔女の存在など信じてはいなかった。
けれど、人のようで人でない姿に、何より人では持ちえないその力を見せつけられれば、魔女の存在を信じる他なかった。
ディアナは自分の正体を言い当てられても、もはや動じることなくそこに立っている。
一方、ディアナの後ろに隠れるセフィは、びくりと体を震わせる。
(私のせいだ……。)
私のせいで、ディアナが魔女と知られてしまった。それに、ディアナは人間を殺そうとしていた。――魔女の理に反して。そんなことをしたらどうなるか、ディアナは知っていたはずだ。
「違うの、ディアナは――」
「そう、私は魔女よ」
セフィの声を遮るように、ディアナは告げる。
「霧を作りだしたのも、森を複雑にしたのも、セフィの薬草を作ったのも、私。」
「…………。」
レオンは改めて事実を告げられ、どう答えるべきか思案する。
「セフィは昔、赤子ともいえる幼い時からこの森にいたわ。私が拾って、育ててきた。今は町に出て人間と関わるようになって、いずれは独り立ちをしなければならない。」
突然ディアナから告げられるセフィの身の上話に、レオンは戸惑いを隠せない。しかし、無意味にこのような話をするとは思えない。
「つまり、私にどうしろと。」
これは魔女から持ち掛けられた取引だと、レオンは察する。
「ふふ、察しが良くて助かるわ。この子が、セフィが人の世界で生きていけるように手伝ってほしいの。」
「それは、私に何のメリットがあると。」
「何かを望むなら、対価がいる。お前は薬が欲しいと言ったわね。お前の働きが望むものの価値と同等になったなら、そのとき薬をあげてもいいわ。」
思ってもない魔女の申し出に、レオンは一も二もなく引き受けるところだった。ディアナは、ただし、と言葉を続ける。
「私が魔女であるということ、魔女がこの惑いの森に棲んでいること、セフィが魔女と暮らしていること、全て他言無用よ。……そのときは、今度こそ、必ずその息の根を止めてあげる。」
「たとえ貴女が人間でなくとも、約束を守ってくださるのなら私も決して言いふらしたりしません。」
「ええ、信じているわ。」
ディアナはその少女のような姿とは裏腹に、妖美な笑みを浮かべる。
「まっすぐ町に帰れるようにしてあげるから、今日は戻りなさい。明日、町にセフィを行かせるから。」
レオンはディアナの後ろにいるセフィに目をやると、彼女は何か言いたげな顔で自分を見つめていた。
「わかりました、今日は帰ります。セフィ、明日は町の入り口で待ってる。」
そう言ってセフィを安心させるように微笑むと、レオンは大人しく森の中へ引き返していった。
青年の姿が見えなくなったところで、残された二人の魔女はようやく口を開く。
「セフィ、彼を町に帰してあげてね。」
「う、うん……。」
セフィは森に念じて、レオンの帰り道を作る。これで、迷うことなく町に帰れるだろう。
「あの、ディアナ、どうして……。」
彼を殺そうとしたの? 私のこと怒らないの? 私が人と生きれるようにって?
どうして、の後に聞きたいことがたくさんあって、言葉にならなかった。
ディアナは戸惑うセフィの様子を見て、やさしく微笑む。
「いいのよ。今回は、きっとこれが最善の手のはず。あの人間との間に約束がある限り、彼は私たちを害そうとはしないはずだし、約束通り彼の望みに見合う対価が得られれば、薬を渡しておさらばできるわ。」
それにね、私のほうこそ、止めてくれてありがとう。
言葉にはしなかったが、ディアナはそう思う。
魔女は理に反すること、人間の命を奪うことは許されない。禁忌を犯した魔女には、世界から罰が下るという。それが一体どのようなものかは分からないが、禁忌を犯してはならないと本能に刷り込まれている。だからこそ、魔女たちは愚直に永遠を生きているのだろう。
「私はね、やっぱり魔女と人間が共に生きるのは無理だと思う。でもね、セフィが私の元から独り立ちしなければならないのも本当よ。セフィのこと、縛りたいわけじゃないの。だから、不本意ではあるけれど、今回はいい機会だと思うわ。」
帰ろうか。二人の魔女は帰路につく。
ディアナはセフィの未来に思いを馳せながら。セフィは、ディアナの大きな優しさをかみしめながら。