四話 魔女と理
当然、一部始終をディアナは見ていた。やはり町に行かせるべきではなかったと後悔しても、もう遅い。彼女の力は水の近くでなければ、水に関わることでなければ及ばない。
水面では、老婆の家を後にした二人が何やら話しているようだ。といっても、青年のほうが一方的にセフィに迫っている様子だったが。
(人間に深くかかわる前に、早く帰ってきて!)
そんなディアナの胸中の叫びもむなしく、セフィはどうやってレオンから逃げればよいか考えあぐねていた。用を済ませた2人は、長居しすぎてもよくないと老婆の家からおいとましたところまでは良かった。それではさようならとごく自然に別れるつもりだったのだが、すみませんと呼び止められてしまってはそれを無視して去るわけにもいかない。
ここは諦めて、ある程度は関わるしかないよね。
「えと、何か?」
「…………。」
レオンはセフィを見据えるが、口は閉じられたまま。セフィは念のため、スカートのポケットに忍ばせた小瓶をひそかに握る。少しの沈黙の後、ようやくレオンが喋りだした。
「初対面で不躾とはわかっているのですが、貴方にお願いがあります。」
セフィが何でしょうか、と続きを促すと、彼は先ほどと違って視線を下げながら話し始めた。要約すると、医者にも見放された病気の家族を治す薬が欲しいということだった。
「残念ですが、私にはそのような薬を作ることはできません。せいぜい、軽い怪我や風邪に効くだけですよ。」
そう言ってセフィは苦笑いして、それに、と続ける。
「薬は、お世話になった人にしか差し上げてないんです。どれも大したものではありませんが……。どうしてレオンさんが聞いたような噂になってしまったのかは分かりませんが、私は本当にただの町娘なんです。」
レオンは納得してないような表情だったが、セフィは構わずさよならを告げると森へと帰っていった。
結論から言えば、おそらく、レオンが求める薬を作ることはおそらく可能だろう。森の魔女が丹精込めて育てた薬草に、魔女の願いを込めた薬で治らない病などないはず。だけどそれは、彼女が魔女であるがゆえにできないのだ。
魔女とは世界の理を司るもの。人の願いのために魔女がその力を使うことなど、許されることではない。彼の家族が病を得ているのなら、それが運命なのだろう。セフィが魔女の力を作って薬を作り病を治すことは、運命に反すること。理に反することなのだ。
今までセフィが町民に薬を作って渡すことができたのは、この運命に反しないからだ。そしてもう一つ。セフィは受けた恩と同等の効果がある薬しか渡していない。得たものと同等のものを渡す、等価交換は世界普遍の理だ。
そこまで思考を巡らせたところで、セフィは森の騒めきに気づく。まるで主に危険を知らせるように、木々は風に揺れ、鳥は囀る。そして彼女は、突然歩みを止めて振り返る。視界には、一見するといつもの森しかない。
――――けれど、間違いない。
「レオンさん、いるのは分かっています。出てきてください。」
樹齢100年は超えているだろう苔生した巨木の後ろに向かって、セフィは声を出す。呼ばれた彼は、おとなしく木の陰から姿を現す。
「まいったな……。まさかばれるとは思わなかった。」
完璧な尾行のはずだったんだけど、と気まずそうにレオンは頭を掻く。セフィは、人間がこの森の道なき道についてきたことに驚きを隠せない。さらに、レオンの簡素な服は、本来であれば森を抜けるにいささか軽装備すぎる。それにもかかわらず、汚れもズボンの裾と膝などごく一部、生傷もほとんど見当たらない。焼けた肌と締まった身体つきを考えると、どうやらただの人間でないことはセフィにもたやすく察することができた。
「……何の真似ですか。」
とにかく時間を稼ごうと、レオンに話しかける。この間にゆっくりと手はポケットの小瓶に伸びる。
「驚かせてすみません。ですが、決してあなたに危害を加えるつもりはないんです。僕は、どうしても諦められないだけです。あなたは、あなたの薬を大したことないと言いましたが、それは見てみなければわかりません。少しでもいい、家族を助ける可能性があるのなら、それに縋りたいんです!」
レオンは力強い眼差しで、セフィに訴える。
「だけどあなたは、本当のことを言っていません。その顔を見れば、あなたが家族を助けたい気持ちは本当なんだということは分かります。でも、何か隠してますよね。」
だってさっき、下を向きながら話してましたよ。今と違って。
セフィがそう告げると、レオンは言葉に詰まる。それは当然、図星だからだ。
「確かに、セフィさんの言う通りです。僕はすべてをあなたに話していません。」
レオンは潔く認める。ここで偽りを述べても目の前の少女にその深緑の瞳で見抜かれててしまうと思ったからか、それとも観念しただけなのかはよくわからない。
「いろいろ事情がありまして……全てを詳らかに、ということはできません。頼みごとをする立場では本来できることではないとわかってはいますが、どうかお願いします!なにか手がかりだけでも得たいのです!」
このままじゃ、梃子でもついてきそう。レオンの必至な様子に、セフィは思う。
魔女の領域である森の奥に、人間を入れるわけにはいかない。森の中には、水の魔女ディアナの守る湖だってあるのだ。セフィは、手に握った小瓶を身体の後ろでレオンに気づかれないように開ける。中から水がこぼれだすと同時に、あたりに霧が立ち込めてくる。
――――本当に困った子ね。
霧の中から、ディアナのため息が聞こえてくる。ごめんなさい、と心の中で答えながら、霧に隠れて森の奥へと逃げる。
「セフィさん、いますか!動かないで下さいよ!」
後ろから聞こえるレオンの声に、少しだけ罪悪感を覚えたが、セフィは迷わず森の奥へ進む。
一方、急な霧にレオンは動くことができなかった。視界不良の中で下手に動けばたちまち方向感覚を失い、遭難するだけだと知っている。こんなに深くて道もない森ならなおさらだ。だからセフィに声をかけることしかできなかったが、返答がない。
(まずい、この機に森の奥へと進んでしまったのか?もしこの森に慣れていたとしても、こんなに深い霧では迷ってしまうぞ……!)
幸い霧は数分で晴れ始めたが、案の定セフィの姿は見当たらなかった。やはり、あの霧で森の中を進んでしまったのか。レオンは、悩むこともなく森の奥へ足を進める。バックの中には、ナイフが一本と飲み水が少々入っている。奥底にはもちろん、あの小型銃もある。森を進むには軽装備すぎる自覚はあるが。もしあの少女が遭難でもしたら、きっとそう長い時間は持たないだろう。森の獣に襲われるか、それとも飢えてしまうか、どちらのほうが早いだろうか。幸い自分は、野外訓練の経験は十分にある。
そしてレオンは、ゆっくりと、しかし確実に森の奥へと進んでいった。