一話 魔女と人間
青い髪をなびかせて、彼女は窓辺から湖を眺めていた。彼女が守るべき湖の水面は、今はただ静かに揺らめいている。目を伏せれば、昨日のことのように思いだせる。それがわが身を滅ぼすと分かっていても、全力で彼女の横を駆けていったあの大好きな少女の面影を。
古びた椅子に腰かけると、彼女と同じ年月を過ごしたその椅子はギィと軋んだ音を立てた。そのまま目を伏せると、遠き過去に溺れるように微睡へと沈んだ。
――ねえ、セフィ。
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「セフィ、今日も町へ出かけるの?」
青い髪の娘は、同じ年頃の少女に話しかける。セフィと呼ばれた少女は、籠に煎じた薬や花を詰めながらその問いに答える。
「ええ。ニックおじさんの息子さん、まだ風邪が長引いているんだって。いつもお世話になっているし、これくらいのことはしてあげたいの。」
ニックおじさんは、気前のいいパン屋のご主人だ。セフィの花をよく買っている仲のいい人間であることは、青い髪の娘ーーディアナも知っている。だからといって、ここのところ町へ行く頻度が上がっているのを見過ごすわけにはいかない。
「セフィ、あなたの気持ちは分からないでもないわ。だけど、最近人間に関わることが多いと思うの。そろそろちゃんと距離を置いたほうがいいわ」
「もう、ディアナは心配しすぎなの。別に人間に関わったからって何か悪いことでもあるの?そもそも、もう人間は私たち魔女の存在を信じてはいないわ。魔女狩りが起きたのだって、もう100年近くも前なんだよ?」
ディアナはなにも意地悪でセフィに町へ行くなと言っているわけではない。
「だけどね、それでも私たちは人間ではないの。魔女とは違う。生き方も、生きる時間も、生きる意味も違うの。」
ディアナは髪よりも濃い藍の瞳でセフィを見据える。セフィは少し不服そうな表情で、薬草を詰め終わった籠を握り直す。
「なによ、ディアナってば最近口を開けばそればっかり! 親切な人に親切を返して何が悪いの? とにかく私はニックおじさんのところに行ってくるからね!」
セフィは勢いよく言い切ると、ディアナの返事を聞きたくもないと小屋の扉を勢いよく開けて飛び出していった。簡素なつくりの扉は、その勢いに負けて留め具が一つ飛んで行ったが、セフィは気づきもせずに町へ向かって森の中を駆けていった。
ディアナはため息を一つつくと、小屋からほど近い場所にある湖へ向かった。森の中に隠されるようにあるその湖は、太陽に照らされ彼女の髪と同じ青色にきらめいていた。湖のほとりに膝をつくと、水面を撫でて波紋を作る。波紋が消えると、水面にはセフィの姿が映っていた。
魔女はそれぞれ理を持つが、彼女は水の理を司る魔女。世界には様々な理を司る魔女が存在し、セフィはこの森を司る魔女である。魔女が理を司ることで世界は安定している。つまり、魔女とは世界を守る柱なのだ。
水面に映る少女は、すでに町へと到着していた。
「やあ、セフィ。今日も花売りかい?」
「こんにちは。今日はニックおじさんのところに行こうと思って」
「ああ、ニックさんのとこか。そういやトニー坊やがまだ具合悪いって言ってたな。じゃあ、よろしく伝えといてよ」
「わかったわ。それじゃあね」
セフィは町民と短い挨拶を交わしてニックのパン屋へと急ぐ。この町の人々と交流を持つようになって、すでに数年がたっている。はじめ、ディアナ以外と接したことのないセフィが町に馴染めずにいたとき、よくしてくれたのがニックだ。よそ者のセフィから花を買い、店に飾ってくれたのだ。それがきっかけで、次第に他の町民もセフィから花を買うようになり、今では気さくに話ができるまでになったのだ。
セフィは石畳の道を歩き、ニックのパン屋への向かう。近づくにつれ、徐々に小麦の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。丈夫な木の扉を開ければ、その美味しそうな匂いがセフィを出迎える。
「いらっしゃい……ってセフィじゃないか。今日はライ麦のパンかい?」
「ちがうちがう。今日はお届け物をしに来ただけなの。トニー君は元気?」
ニックはカウンターの外へ出てきて、困ったように言う。
「高くはないんだが熱がなかなか引かなくてね……。医者から処方された薬も、熱さましも効果がないみたいなんだ。ただ、少しは食べられてるからそのうち治るとは思うんだが。」
「そうなの……。今日は花と薬草を煎じて持ってきたの。効くかどうかは分からないんだけど、よかったら使ってみてほしくて」
「そうか、わざわざすまないね。もし時間があれば、トニーの顔を見ていってくれないかい。きっとあの子も喜ぶ。」
「もちろん!部屋に花を飾ってもいい?」
もちろんいいよ、というニックの返答を聞くと、セフィはカウンター奥の階段から2階に上がる。階段を上ってすぐの部屋が、ニックの部屋だ。ノックを2回した後、ゆっくりと部屋に入る。
「トニー君、具合はどう?」
「あ、セフィ!元気だ……よっ。」
セフィの来訪にトニーは笑顔を見せるが、勢いよく起き上がろうとしてめまいが起きたのか顔を押さえてうつむいてしまう。
「大丈夫?急に起き上がったりしちゃダメだよ」
「これくらい平気だよ、大丈夫!」
「だーめ。ほら、ちゃんと横になってて。」
「はーい……。」
おとなしく横になるトニーの顔は、熱のせいかほんのり赤い。額に手を当ててみても、確かにニックの言うとおり、ひどい熱ではないようだ。そのまま頭をポンポンと撫でてやると、トニーは嬉しそうに顔を綻ばせる。母親を早くに亡くしており、日中父のニックはパン屋を切り盛りしているのだから、セフィの訪れは余計に嬉しかったのだろう。
「今日はね、トニー君にお薬とお花を持ってきたの」
「やった、ありがとう! でも、苦いお薬はやだなぁ」
その素直な言葉にセフィは思わず笑ってしまう。なるべく苦くないように煎じてあげるからね、と伝えると、じゃあ頑張って飲む、というこれまた素直な言葉が返ってきた。セフィは籠の花を取り出し、ベッド横の花瓶に飾る。
(この花の美しさが、見る人の心を照らすように。)
(この花の生命力が、見る人の生きる活力となるように。)
(この花が、より長く人を癒すように。)
花に願いを込めて、花瓶に生ける。花はまるで応えるように、その花弁の端にまで瑞々しさを湛えていた。
「さ、このお薬を飲んで。元気になったら、またみんなで遊ぼうね」
煎じた薬草にも、苦くないように、元気になるようにとセフィの願いが込められている。これまで苦い薬しか飲んだことのないトニーは、意を決して薬を口へ放る。
「あれ、そんなに苦くない。」
「でしょう? このセフィさん特製なのよ?」
セフィは少しだけ得意になった後、他愛もない話で笑いあった。日が傾き始めたころ、数回分の薬を置いてニックのパン屋を後にした。数日後、トニーはすっかり元気になって友人やセフィと元気に遊べるようになった。もちろん、セフィの薬のおかげである。
ディアナはやはりいい顔をしなかったが、セフィはこうして町民と良好な関係を築いていった。町民はセフィに親切にし、セフィはその親切を返していく。そして、ひっそりとセフィの花と薬は噂になっていった。
『小さな町の花売りの少女が売る花は見る者の心を癒す。少女が煎じた薬は万の病を治す。』
そうして噂は静かに流れ、その噂を頼りに、ある日一人の青年が町を訪れることとなる。