排水管の排の字を間違えて書いたら世界最強になってしまった件について
「廃水管」と答案に書いて、三年生の二学期に入ってからずっと続いていた漢字テストの連続満点記録を途切れさせてしまったことを、僕は今なお覚えている。
高校受験を控えていた当時の僕は、母親から散々発破をかけられたこともあって、ちょっとばかり勉強に真剣になっていた。テニス部の練習ばかりで、それまではあってないようなものだった夏休みも、一転、テニスコートの太陽の日差しから、近所の塾のクーラーの冷風に体をさらす生活に様変わりした。「アイアムユーアーフクスウアーソノタノシュゴハゼンブイズだぞー。ほら、君も繰り返してみなさい」「シッパイアルアルミノウエシンパイアルサンジョー。球体の表面積と体積はこれで完璧だな」「スイヘーリーベーボクノフネナナマガリシップスクラークカ。これが化学の基本」「イクヤマイマイオヤイカサカサカヤオテハタカヤキカカワタハワイサオヒロハヤシコヒアヨナイココトコスヒガシデヨシダカタアシダヨシヨシヨシヨシ……」マンツーマンを売りにした個別指導塾だったから、教室のあちこちにある区切られたブースから、僕がよく知っている呪文も、僕がこれから習うはずであろう呪文も一緒くたになって耳に飛び込んでくる。僕だって、シャープペンシルを固く握りしめて、今習ったばかりの呪文を使って、先生が次々渡して来るプリントの問題を解いていくのだ。今、大学に通っているっていう若い先生は、眠たそうに眼を細めながらも、僕の持つペンの先をじっと睨んでいる。僕が間違えると「んー、ちょっとそれはまずいね」と言って、サラサラと大人っぽい字で僕の解答を訂正するのだ。そして僕はまたシャーペンを握りしめる。先生は目を細める。僕は間違えて、先生が書き直す。僕は消しゴムを掴む。先生は欠伸をする。間違える。書き直す。掴む。握る。
僕はたいてい十一時には塾に来ていた。一時間の自学をして、母親の作ったお弁当を食べて、午後から指導を受ける。最初は数学。次に英語。四時四十分から始まる最後のコマが国語。それぞれ一時間半ずつで間の休憩は二十分。面倒くさくないと言ったら嘘になるけど、あの時の僕は変な勤勉さに病みつきになっていて、自分が面倒だと思えば思うほど、むしろ楽しかった。それに僕には勉強しなければならない理由があった。その理由は他の人に言わせてみればどうでもいいものだったかもしれない。しかし、僕にとっては何をおいても優先させなければならないものだった。とはいえ、優先させるとはいっても、食事や睡眠と言った生きていくのにどうしても必要なもののレベルに達したいたわけでもなく、まるでマグロのように勉強しなければ死んでしまうという奇病に懸っていたわけでもない。閑話休題。僕の勉強しなければならない理由の話に戻ろう。その理由というのが、実はごく最近生まれたものなのだ。本当にごく最近なのだ。ごく最近とはいっても、何も一時間前とかそういう話ではない。もちろん最近という言葉の定義は人によって違うものだし、僕が最近だと思っていても、果たして誰しもが最近だと思ってくれるかは分からないわけだが、要するにごく最近の事なのだ。あれは僕が部活を引退して、この塾に通い始めた頃の事だ。その理由とは、僕がテニスでペアを組んでいた山田が県内でも有数の進学校に行くと言い始めたからなのだ。少し話は変わるが、人間の性別を一人称のみを以て判断するのはいささか早計だとは思わないだろうか。つまり、「僕」は「僕」であって「僕」ではないということなのだ(ババーン)これは僕の家に代々伝わる古いしきたりで、我が家に生まれた女子はある一定の年齢まで男の格好をして過ごさねばならないのだ。僕もそのしきたりに則って、クラスのみんなに自分の本当の性別がばれてしまわないように、目立たないように、生活してきたわけだったのだが、中学校の部活動の時にとうとうその秘密が一人の男子にバレてしまった。その男子というのが、何を隠そう山田だったのである。更衣室でこっそりと着替えていたところを、たまたま日直で遅れてやってきた山田に見られてしまったのだ。あの瞬間の凍り付いた空気と、直後にこみ上げてきた絶望感は今でも忘れない。そう、「排水管」を「廃水管」と書き間違えてしまったと気づいた時の絶望と同じように。成績に関しては凡庸というほかない僕ではあったが、ただ一つ漢字テストに対してだけは密かに自信を持っていた。僕は自分のアイデンティティの拠り所を粉々にされて、勉強に対する熱意を失った。それからというもの、僕は塾にも行かず、夜な夜な盛り場を徘徊する不良学生と化した。世にいう堕落女学生である。女学生とはいっても、僕は外見上は男の服装をして髪も女にしては短めにしているため、傍目には男子学生のように見えるわけだが、世の中には目敏い人間というものもいるもので、時折僕の男装を見破ってセクハラまがいの行動に及んでくる輩もいた。しかし、そういう輩は二度と日の光を見れないような体になるので、問題ない。山田に正体を見破られた時も、同じような目に遭わせてやろうとした。しかし、山田は眼鏡をかけていたので、僕の目つぶしがきかなかった。特注の合金でつくってあるという彼の眼鏡のフレームは突き出した僕の指先を捉え、粉々に粉砕した。僕が山田と同じ高校に進学したいのは復讐のためである。アイデンティティのみならず、指の骨までも粉々にされた僕はそれから激しい鍛錬を重ねた。二の腕は筋肉で盛り上がり、腹筋は六つに割れ、ふくらはぎは子どもの胴体と同じくらいの太さになり、「排水管」と「廃水管」を間違えなくなった。僕の精神と肉体はこの世に生まれついて以来、最上のコンディションだった。僕は強敵との死合を求め、旅に出た。自らの過ちを忘れぬよう、編み出した最強の技「覇威守夷貫」を携えて。「覇威守夷貫」はあらゆる英雄も悪鬼も豪傑も、果ては神々すらも貫き、僕はこの世界で、いや、全ての平行世界、時間軸を超えた完全無欠の天上天下の唯我独尊の最強存在になった。僕、いや、この貧弱な一人称は最早似合わぬ、我の覇道は今ここに始まりを告げた。
完。
タクミ・ザ・ロックフェザー先生の次回作にご期待ください。コミックス1巻は20000018年7月発売予定!
くぅ~、疲れました。これにて人生終了です。