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グロスクロイツ国内には、数々の権力者がいる。商会、貿易、政治……あらゆる人々が地位と財を成し、経済を潤わせている。
ただし、公爵の称号を持つ者はそう多くはない。地方から国を支える存在として王からの信頼を受け、地方を守ることで、領民たちからは「故郷の王」として敬われてきた。グロスクロイツの首都はザクセン率いる王国軍の加護があるが、地方が侵略の驚異に晒されずに済むのは、公爵家の守りが盤石だからである。
ウィニタリウス公爵家も、肥沃な大地と水資源のある地方を司る名家だ。グロスクロイツ王族との交流は長く、深い。農民からの納税と、水晶砂糖などを利用した嗜好品の生産で安定した財政を維持している。
「――それでいて、デリベラートにおもねることのない人だ。グロスクロイツ王族や王国軍寄りの立場を維持してくれている」
「ねえ、まだ着かないのー?」
城を出てから、馬車で何時間走っただろうか。首都を出てから二〇分も走ると建物はまばらになり、とうとう農地と草原が交互に現れるだけになった。既に日が傾きかけている。
代わり映えのしない景色にくわえ、馬車の中にはベルの他、ザクセンしかいない。黙っていられるよりはいいかもしれないが、ザクセンの会話はウィニタリウス公爵家についてとか、グロスクロイツの政治的状況など、学校の勉強のようでベルにはつまらないものばかりだった。
「公爵と会って、テメェが偽物だって感づかれると厄介なんだよ。これぐらいの知識は頭に入れておけ。外見てるよりマシだろ」
「退屈さは変わらないけど、静かな分景色見てたほうが……はい、わかりました」
視界の端で、ザクセンが剣を抜いたのをとらえたベルは、座り直す。
「公爵家の歴史は、グロスクロイツ王族よりも古い。<極夜戦争>の際、グロスクロイツ王族となった戦士たちは、歴史ある公爵家の土地や人々を悪魔たちの手から守った。建国期には資金や人員を援助し、戦士たちを支えた。その頃から公爵家はグロスクロイツ王族側に立っている」
「四百年も前のことに恩を感じてるなんて、真面目だね」
「ああ。世の中が変わり、様々な技術が発展し、<極夜戦争>が伝説と化すと、デリベラートのように王位を狙う新興権力者が現れてきた。だが、公爵家はその古い歴史ゆえ、<極夜戦争>を勝ち抜き人類を導いたグロスクロイツ王族を崇めている」
「それのなにが問題なのよ?」
「彼らはグロスクロイツに忠誠を誓っているが、王族を盲目的に信用しているわけじゃない。彼らはグロスクロイツという国を守りたいんだ。グロスクロイツを守るために、王族の敵になることもあるだろう。デリベラートのほうがより王となるに相応しいと思えば、俺の敵にもなる。もちろん、俺が王位に相応しいとわかれば……そういうことだ」
「へえー」ベルは髪の毛をいじりながら、適当な相づちを打った。
「今の公爵方は王族方の立場を貫いている。だが、ユビルスの記憶喪失やら行方不明といった醜聞が知れれば、まずいことになる。今はまだ、俺が王位を取るための準備期間だ。デリベラートが王になる後押しは避けたい。そして、俺自身もこうやって顔を売っておいて公爵方の信頼を得ておかなければならない」
「ふ~ん……」
何のときめきもない話が続いて、ベルは思わず溜息をついた。これならば、やっぱり黙って景色を見ているほうがましだったと後悔した。
森の中を抜けると、外は暗くなっていた。それは日が暮れたからではなく、太陽の光を巨大な城壁が遮ったからだ。
「……着いたか」
城壁から道が離れていき、馬車には再び日が差し込んでくる。ウィニタリウス城は橙色の光に照らされ、濃い影を背に浮かび上がっていた。
田舎の公爵だからと侮っていたベルは、ウィニタリウス城の巨大さと美しさに言葉を失った。
「……このお城に行方不明になった夫人か娘がいれば、こっちになりすますべきだったな。あんたたちみたいなのもいないだろうし」
「ウィニタリウス家の夫人はずいぶん前に亡くなってるし、子供は息子だけだ。男になりすますか?」
「いやだ。男は見るのがいい。それに着飾れないし」
城主ウィニタリウス公爵を待つのは、彫像が彫り込まれた柱が高い天井を支える応接間だ。その分閉塞感が増すのをやわらげるためか、壁には直接絵が描かれていた。金目のものを探していたベルは、その絵画に目を奪われる。
「この絵……」
人々が、厳めしい鎧をつけた戦士たちを称えている。彼らの背後には光があり、その足元には異形の化け物たちが蠢いていた。その化け物を束ねているのは黒い翼と、赤い瞳を持った悪魔たちである。封印された魔界から、人類を睨み付けている。
「テメェに絵を見るっていう趣味があったとはな」
「嫌いじゃないよ。高価な絵画は好き。お腹はふくれないけど、お金持ちの趣味って感じで。ねえこの絵、<極夜戦争>だよね?」
<極夜戦争>は、四〇〇年前に起きた人類と魔界の戦争だ。
魔界の悪魔と契約することで得る力――魔法を知った人類が、私利私欲のために悪魔と契約し始め、その小さな火種がやがてこの世界を包む業火となった。魔法による攻撃を防ぐために魔法を使うという惨状。人間界には次々に魔界と通じる陣が作られ、穴が開いた。
やがて、塞ぐことのできなくなった魔界との穴から、悪魔が大挙して押し寄せた。それが、<極夜戦争>の始まりだ。
「よくわかったな。学校に行ってねえのに」
「だって、あそこにバルバリアが描かれてるよ。キエルフェ国の羊飼いだったんだよね」
「バルバリア?グロスクロイツ初代国王の?」
ベルが指さした方向を見るザクセンだが、その人物の名前が書かれているわけではない。城に伝わる肖像画と違い、鎧姿の彼をバルバリア王と判別することはザクセンにはできない。
「鎧見たらわかるでしょ。あの兜の角は、キエルフェ羊の象徴だもん」
「わかんねえよ」
「ふーん、白薔薇事変、大火の決闘……歴史的瞬間は押さえてるね。いちばん大きい絵は、グロスクロイツの戦士が魔界を封印した場面かな。戦士の数が八人、足りないやつはいないわね。……って、あははっ!この悪魔不細工すぎじゃない?もうちょっと……」
「……ちょっと待て。テメェ、ばかに詳しいな」
文字もろくに読めないくせに、彼女の<極夜戦争>の知識は学者並みだった。軍学校を出たザクセンも歴史は学んだが、そこまで詳しくは学んでいない。だいたい、ベルが歴史に興味なんてあるわけがないと、ザクセンは思った。
「えっ!?そ!そうっ?これぐらい常識じゃない?」
ベルは絵画から離れると、窓辺まで歩いていく。だが、ザクセンの疑念の視線が背中にあるのを感じて、おそるおそる口を開く。
「あー……えっと、呪術のことをね、勉強したときにちょっとかじったんだ。呪術って、ほら、魔法を基礎にしてるから。私も、体張るわけだから生半可な知識じゃね。うん……ねえ?」
必死に言葉を発するベルを、ザクセンはじっと見つめていた。
そこへ、足音が近づいてくる。視線によるザクセンの追求から解放され、ベルはほっと息をついた。
「ユビルス姫!ザクセン殿!よくぞいらしてくださいました」
現れたのは、立派な口ひげを蓄えたウィニタリウス公爵だった。
「グロスクロイツの馬車が来たと聞いて、我が耳を疑ったぞ、ザクセン」
「閣下から手紙が届き、急いで城を出たため、何の連絡もなく訪れて申し訳ありません」
「そのようなことは構わん。遠路はるばる、よく来たな。まさか、姫様にも直接ご足労いただくとは……」
ザクセンと言葉を交わしていたウィニタリウスが、ユビルス姫――ベルに視線をずらす。ベルは控えめに微笑むと、ゆっくりと頭を下げた。
「お会いするのはいつぶりでしたかな。お元気そうで安心しましたぞ」
「こちらこそ、お顔を拝見できて嬉しく思います」
本音では、思っていたより彼が年を取っているうえお腹が出ていて髪も薄くて、残念だと思っていた。だが、元々の顔立ちは悪くない。くっきりとした二重に、歯並びから想像する顎のラインは整っている。若いときには美しい青年だったのだろう。
これなら息子に期待できる。その思いが、ベルに上質の笑顔を浮かべさせていた。
「姫、祈らせていただけますかな」
「え?ええ」
ウィニタリウス公爵はベルに向かって祈りの姿勢を取る。ザクセンが馬車の中で言っていた、”グロスクロイツを崇めている”という言葉の意味がわかった。
「ありがとうございました、姫様。相変わらずお美しいですな。キュストリン・オヴェリエの再来のようですぞ」
そう言って、ウィニタリウスは壁画に目をやる。キュストリンとは<極夜戦争>を乗り越えた戦士の一人で、その美しさを称える伝説がいくつも残っている。
「まあ、光栄ですわ。おほほ」
「それにしても」ウィニタリウスは眉を寄せる。もっと褒めればいいのに、とベルは思ったが顔には出さない。「もう少し手紙の書き方を考えるべきだった。最近貴族たちが、やれユビルス姫は病に倒れただの、やれ行方知れずだの、好き勝手言っておるばかりに、私も気が急いてな。<極夜戦争>を乗り越えたのは、グロスクロイツの戦士達であると今の者たちは忘れておる。……ザクセン殿、やはりすぐにでも<彼は誰時会議>を行い、ユビルス姫に即位していただかねばならん」
かわたれどきかいぎ?ベルの顔に疑問が浮かんだのを、ザクセンが目ざとく見つけた。
「公爵閣下。僅かばかりではございますが、城からの贈答品がございます。どうぞお納めください」
「おお、これは有り難い。うむ、このような場でする話ではないな。今すぐ晩餐の用意をさせよう」
「申し訳ございません。姫は少しばかり体調を崩しておりまして、お食事は難しいのです。そういう意味では、公爵閣下のお耳に入った噂も間違いではないのでしょう」
ザクセンの言葉に、ベルは「えっ」と言いたくなるのを笑顔の仮面の下で堪える。水晶砂糖と料理でベルを連れてきた口で、ザクセンは晩餐を断った。最初から、そのつもりだったのだろう。
「なんと、そのような中わざわざご足労いただいたのか」
「風邪のようなものですよ。寝れば治ります」
「公爵様!失礼いたします!」
応接室へ、血相を変えた執事が飛び込んできた。
「なんだ!騒がしい。姫様の前であるぞ」
「も、申し訳ありません。ですがウーラ様のご容態が急に……!」
執事の言葉に、今度はウィニタリウスが青ざめた。
ウィニタリウス公爵家長男のウーラは、ベッドの上で浅く呼吸を繰り返していた。医者たちが懸命の治療を続けるが、ウーラは苦痛に顔を歪めるばかりだ。ウィニタリウスはベッドにすがりつき、ウーラの名前を呼び続けていた。
「ウーラ様、伏せっておられたのですね」
ザクセンは隣の執事に話しかけた。
「ええ……一月ほど前、突然倒れられたのです。原因不明の病で、各地から医者を呼びましたが……」
長男はまだ成人したばかりで若く、ボートや狩りを趣味とする体の強い男だった。元々は父親に似て恰幅がよかったはずだが、病のせいでずいぶん痩せている。
一月前は、グロスクロイツ城内もユビルスの行方不明でごたついていた。そのことでザクセンが公爵家との関わりを密にできなかったことと、ウィニタリウス自身もウーラの回復を信じていたからこそ、この話はグロスクロイツ城まで届かなかったのだろう。
「ウーラ、ウーラ!ああ、死なないでくれ。お前に死なれたら私はどうしたらいいのだ」
切なく息子に呼びかけるウィニタリウスを、誰もが悲痛な面持ちで見つめていた。
ただ一人、ベルを除いて。
「おいテメェ。嘘でもいいから辛そうな顔をしろ」
ベルの考えに気づいているザクセンは、小声でベルを叱責する。
「だってさー……」
ベルはベッドの上にちらりと視線をやる。
横たわっているウーラは、どう見ても顔立ちが整っているとは言い難かった。病でやつれていることを差し引いても、小さい目や球根のような鼻といった特徴的な部分が目につく。
父親があれのはずなのになぜ……とベルは室内を見渡して、気づいてしまった。暖炉の上に飾られているのはウィニタリウス公爵夫妻の肖像画。夫人の顔が、ウーラと瓜二つだったのだ。
「もう帰ってもいいんじゃないかなー。居ても邪魔になるだけじゃん」
「こういうのはその場にいるってことが大事なんだよ」
「ここにいたって晩餐会も水晶砂糖もないんでしょ。早く帰って……」
ベルの言葉を、ドンという突然の轟音が遮った。同時に室内に悲鳴が上がる。
「……雷?」
ザクセンが窓辺に近づき、外の様子を伺う。
屋敷について、すぐに日が沈んだなと思っていたのは、空を覆う黒い雲のせいだった。先程までの穏やかな夕暮れが、雷鳴と激しい雨によってかき消されている。
「参ったな……これじゃ馬車は出せねえぞ」
「ええっ?」
「――ウーラ!」
ウィニタリウス公爵の声が、絶望的な色を帯びる。ウーラの苦しそうな呼吸は収まったものの、目は開かないままだ。
「……鎮静剤が効いて、お眠りになられたようです」
「先生!ウーラは助かるのか?」
「……大変申し上げにくいのですが、今夜が峠となるでしょう」
医者の宣告に、ウィニタリウスはベッドの横に崩れ落ちた。公爵といえど、人の親。最愛の息子の死の淵に立ち会い嗚咽を漏らす姿に、周囲にいる者たちも涙をこらえる。
ベルを除いて。
つまらなさそうに天井画を眺めているベルを見て、ザクセンは蹴り倒してでも涙を浮かべさせてやろうかという衝動にかられた。
「ウーラよ……すまなかった……こんなことになるなら、お前の夢を認めてやればよかった……もし時間が戻せるなら、今度こそお前の夢の手助けを私にさせておくれ……」
手を握られても、ウーラは何の反応も示さない。ウィニタリウスのすすり泣きだけが聞こえる部屋で、ベルは不意にウーラの顔を見た。見ようとしたわけではなく、視線が誘われるようにそちらを向いてしまったのだ。
だが、彼女の動きに気づいたものは誰もいない。
窓の外では一層雨が強くなっていた。