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こうなったら、直接デリベラートを探すしかない。
お茶を終えたあと(悔しかったので、出されたものは全て食べた)ベルはメイドがいなくなった時間を見計らって城の中を歩いてみることにした。
部屋を出て扉を閉めたところで、ベルはあるものに気づいた。
「……なんだろ、これ」
扉や床、壁の至るところに、色の違う部分がある。それは、壊れたものが直された痕のように見えた。よく見なければわからないほどだが、ユビルスの部屋の入り口に集中している。
なんでこんなところが壊れたのかしら。変だなと思っても答えは出ないので、廊下を歩き出す。
グロスクロイツ城は、全九階の巨大な円柱の建物だ。三階、五階、七階に、それぞれ城の周りを囲む城壁へと繋がる空中通路がある。ユビルスの住まいや、主な城の機能はこの塔のなかにすべてある。
ベルがこの城の来てから歩いた城内の通路は、緩やかにカーブを描いていた。城が円柱状だから当然だが、対して部屋はどれも四角い。
円形の建物の中に部屋があるのなら、パイを切ったときのように、三角形の部屋がたくさんあるんじゃ?とベルは思った。そのほうが面白いのに――でも、ユビルスの部屋も朝食室も浴場も、すべて普通の部屋で、残念だった。
メイドや城の人間に見つかると面倒なことになると学習したベルは、こそこそと移動した。元々、こそ泥の真似をして生きてきたので、見つからないように行動するのは得意だ。
ベル、もといユビルスの住まいは八階にある。八階はほとんど確認せずに、七階に降りることにした。上にはまだ部屋があるようだったが、王族の住まいよりも上階に、大臣たちの部屋があるとは考えづらい。
部屋ばかりを気にしていたため、階段を降りるときに初めてはめ殺しの窓から外を見た。
兵舎だろうか。
グロスクロイツ城は、周囲を大きな城壁で囲まれている。その中には同じような長方形の大きさの建物があり、兵舎や厩舎、小さな森も見受けられた。まるで、そこは兵士だけが住む街のようだ。
あの中に、鎧男もいるのだろう。鼻息荒く、今に見つけてやる!とベルは兵舎を睨み付けた。
ともかく、今はデリベラートを探すことが優先だ。今のベルでは、鎧男を見つけても何の反撃もできない。
再び階段を降りようとすると、執事が通路を歩いて行った。彼の背後に階段があったため、ベルの存在には気づかなかったようだ。
上のほうから執事を見るかたちになったベルには、トレイで運んでいるものがよく見えた。カップにはプラチナで蔦模様が描かれている。あんなティーセットを使えるのは、よほど立場のある人間だ。メイドがデリベラートのもとへ行く可能性は、十分考えられる。
ベルはより一層足音に気をつけて、階段を降りようとした。
背後から近づく気配に気づくまでは。
「誰なの!」
今しがた通り過ぎたばかりの踊り場に、誰かがいる。手すりに隠れているが、隙間から丸見えだった。
彼が男で、兵士の鎧を着ていることはわかる。ただ、同じ鎧でも彼は腰から下に大きな布を巻いていた。そして非常に幼い顔をしている。体格から見ても年齢は若そうだ。
「……誰なの」
「……ぼ、僕は犬です」
ベルは目眩がした。素性を偽るにしても、言い方があるだろう。
「どう見ても、人間に見えますが……」
「い、犬ですよ」
「……お名前は?」
「ぼ、僕は犬ですから」
何を言ってんのよ!と言いたくなるのをこらえて、ユビルスを演じる。しかし、彼はベルの答えにさっと顔色を曇らせた。犬に見えなかったことを、落ち込んでいるのだろうか?
黒くて長い前髪が顔を覆い、項垂れている姿は、確かに犬にも見えてくる。
しかし、彼が落ち込んでいるのは別の理由からだった。
「……やっぱり、姫様……」
悲しげな声に、ベルは自分が責められているように感じた。彼の瞳を見ると無条件で降伏したくなるのは、確かに犬の魅力に近いかもしれない。よく見れば、可愛い顔をしている。でも、いくら美少年でも犬と呼ばれたがる変態はお断りしたい。
「ザクセン様には、お、お会いしましたか」
「え?ザクセンって……」
確か酒場で男たちが離していた、軍人の名だ。軍司令官と言っていた気がする。いくら無知なベルでも、その名の男が王国軍のトップに座することはわかる。
ただ、ベルは二人の顔を知らなかった。デリベラートは昨日初めて会ったが……王族の肖像画は出回っても、さすがに城で働く人間の顔は、王宮行事にでも出向かないと知る機会はないだろう。
犬の彼がなぜザクセンの名を出したのか、ベルにはわからなかった。軍司令官ともなれば、もちろん姫とも面識があるだろうが……。
だがあいにく、今のユビルスは記憶喪失という設定。しかも偽物だった。
「ごめんなさい。誰のことだかわからないの……」
ベルの答えに、彼の表情は自分が犬と呼ばれなかったときよりも、もっとずっと悲しく、暗くなった。とうとう、彼は顔を上げなくなった。
「で、では、私は用がありますのでこれで……」
自分が傷つけたようで居心地が悪くなったベルは、犬の彼を置いてささっと階段を下りた。一度振り向いたが、追いかけてくる様子はない。
廊下を進み、先程の執事を追いかけようとした。
「あれ?」
執事はとっくにどこかへ行っていた。ベルは、デリベラートの部屋を探す手がかりを見失ってしまったのだ。
そして、踊り場を見ると犬の彼も消えていた。
結局、二日目はデリベラートに会えないまま夜を迎えた。
「一体、今日はなんだったのかしら」
姫を殺そうとする鎧男に、まったく命令を聞かない赤毛のメイド。犬と名乗る男……この城には、まともな人間はいないのだろうか。そりゃ姫様も逃げたくもなるわね、とベルはひとりで呟く。
いや、まだデリベラートがいる。彼はきっと、ベルを助けてくれるだろう。
ノックの音が聞こえてきたのは、その時だ。
「……ユビルス姫?デリベラートです」
鈴を鳴らすように控えめな問いかけだったのに、ベルの心は大聖堂の鐘が全部同時に鳴ったように揺れた。
弾かれたように扉を開けて、ベルはデリベラートを迎え入れた。
彼は扉の開く勢いに驚いていたが、ベルは構わず抱きついた。
「デリベラート様!お会いしたかったわ!」
「ユビルス姫……」
デリベラートは、ベルの肩をやんわりと抱いて押し戻した。そして、羽織っていたガウンを流れるような動作でベルにかけた。
ベルは、薄い生地のネグリジェを着ていた。だからこそ抱きついたのだが、デリベラートはそこまで即物的な男ではなかった。だがむしろ、そのように紳士的なところが、ベルの心に火をつける。
「私ったら、女なのにはしたないですわね。ごめんなさい……」
「いえ。わたくしのほうこそ、このような時間に訪ねた無礼をお許し下さい」
「ええ……いいんですの。なにも、問題はありませんわ」
意味はわかっているというように、ベルはちょっと頬を赤くして、目を伏せた。
「デリベラート様……私、今日大変怖い思いをいたしましたの。何から話せばいいのか……それで、ずっとお会いしたいと思っておりましたのよ」
「わたくしも、同じです。記憶を失った姫様が、どれだけ心細い思いをされているかと考えると、胸が張り裂けそうでした。王位に目が眩んだザクセンに、城を追われた貴女を、私はすぐにでも追いかけたかった。もう会えないと思っておりました。ですが、姫様は帰ってきてくださった」
デリベラートは、ベルの肩をぐっと掴む。「その後悔も、今日この時まで。私は、姫様の心をお慰めしたい」
デリベラートの顔が、ベルに近づく。見れば見るほど、美そのものを形にしたような男だ。じっと見ていると、まるで蝋のなかに沈んでいくように思考が奪われる。
口づけの寸前で目を閉じようとして、ベルの視界で何かが光った。
一瞬、デリベラートの装飾品が光ったように思えた。だが、それはもっと鋭利で、意思のある光だった。
すべてがゆっくりと進んでいく。デリベラートの握っているものが、何なのかはっきりと確かめる前に、それはベルに向かって振り下ろされた。けして、肩を抱こうとしたのではなく――。
ベルに、ナイフを突き立てようとしていた。
「きゃあ!」
寸前で、ベルはデリベラートの刃から逃れた。至近距離から空振りをした彼は、バランスを崩して近くのソファにぶつかった。位置が入れ替わり、ベルが扉側に立つ。
「デ、デリベラート、様?いいい一体何を……」
「……あなたの幸運は、記憶喪失の状態でグロスクロイツ城に戻ってきたことでした」
デリベラートは自分の握っている剣を眺めながら呟いた。それは、ベルに語りかけるわけではなく、ひとりごとのような空虚さを持っていた。
「そして、最大の不幸は今の一撃で死ななかったことです」
「デリベラート様、わ、私には意味が」
「今死ねば、あなたにとって最上の慰めであったはずなのに……」
だめだこいつ話聞いてない。
デリベラートは、完全に自身の言葉に陶酔していた。ベルの目には、もはや彼は狂人としてしか映らなかった。端正な容姿も、彼の異常さに拍車をかけるだけだ。
「さあ、姫。我が刃の露となって下さいませ」
ベルは、部屋から飛び出した。
なんなの!なんなのこの城は!
ベルは心の中で叫びながら、廊下を走った。
鎧男だけではない。この国の政治の実権を握る大臣ですら、ユビルス姫を殺そうとしている。あきらかな異常事態だ。
酒場の男たちが噂していた、王位争いというのはやっぱり本当だったのか。デリベラートも、ユビルスを殺して王座につくという野心の持ち主だったのか。
このままこの城にいたのでは、そう遠くない内にベルはユビルスとして殺されてしまうだろう。
こんな城はさっさと逃げ出すに限る――そこまで考えて、ベルは思いとどまった。
せっかく手に入れた城での生活を、たった一日で手放すのかと自問する。
甘いお菓子も、立派な料理も、ドレスの数々も、宝石も、その全てが一度は自分のものになったのだ。もう手放せない。そもそも、この城にだって命をかけて乗り込んできたのだ。ベルはこの暮らしを実現するために生きてきたのだ。
こうなったら、あの二人を倒してでも……
夢中になって逃げていたベルは、目の前に人が現れたことに気づかなかった。目の前の男の鎧にぶつかったベルは、跳ね返ったところをなんとか踏みとどまった。
「ぎゃんっ」
「ほー。これはこれは」
聞き覚えのある声にベルは、まさか……と祈るような気持ちで顔を上げる。
楽しそうにベルを見下ろしているのは、あの鎧男だった。
ベルを殺そうとした男から逃げ、ふたたび遭遇したのが、今朝ベルを殺そうとした男。殺意だらけの城だった。
真っ青になって逃げ出そうとしても、既に遅かった。鎧男は、ベルの腕を掴んでいた。
「こんな夜中に、いかがなさいました。俺に会いに来てくださったんですかねえ」
鎧男の言葉には、隠しきれない嬉々とした感情がにじみ出ていた。それは、けしてユビルス姫に出会った喜びではない。彼は獲物を見つけた高揚感を隠せないのだ。
「いや!離して!」
「そんなつれねえこと言うなよ。ゆっくり話そうぜ。なあ。ユビルス姫様よ」
その声音で、ベルは悟った。
この男は、知っている、ベルがユビルスを騙った、偽物であるということを――!
鎧男に掴まれた両腕は、手錠でもかけられたかのようにびくともしない。抵抗もむなしく、ベルは鎧男に連行されたのだった。