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鳥のさえずりと、風が新緑の葉を揺らす音。
テーブルの上には、磨き上げられた銀食器が並ぶ。その上には、焼きたてのパンととろとろのオムレツ、こんがりと焼かれたベーコン。新鮮な果物と野菜に、温かいポタージュが揃えられていた。
ベージュの生地に花柄が織り込まれたドレスは、背中についた大きなリボンが特徴だ。背中が大きく開いているところも、ベルのお気に入りだ。女は肌を見せるべきというのが、彼女の信条だった。
素晴らしい朝だ。
紅茶を飲みながら、窓の外に見える庭園を見つめる。
こんなにたっぷりと日の光を浴びたのすら、久しぶりだった。昨夜はバラの香りのする風呂に入った。あんなにたくさんの湯を見たことは初めてで、メイドの目がなければ泳ぎたかった。
デリベラートという絶世の美男子にも出会えたし、城暮らしの滑り出しとしては上々だ。全てがベルの想像通りに……全てが……。
紅茶を持つ手が、プルプルと震えた。
なんっなのよ、あの男はぁ~!
近くに給仕係がいなければ、カップをテーブルに叩きつけていたところだ。いや、それはこの細やかな模様が描かれたカップがもったいないから、やはり直前で思いとどまったかもしれないけれど。
ベルの頭を占めていたのは、贅沢な生活のことでも、デリラベートの事でもない。残念ながら、あのこめかみに傷のある鎧男のことだった。
記憶を失い命からがら城に戻った姫(という設定のベル)に対し、彼は開口一番に怒鳴り声を浴びせた。グロスクロイツの姫……つまり、先代王亡きあと、今はこの世で一番偉いといってもいいユビルス姫にあの口の利き方。あんなに横柄な男相手に恐怖してしまったことが恥ずかしく、腹立たしかった。
しかも、あの男がベルに浴びせたのはたった一言。それだけで、彼は部屋を出ていった。言葉の意味もわからなければ、唐突な行動にも理解が追いつかず、困惑していることもベルの怒りを煽る。
あんなに良い思いをしたのに、彼の登場は絵画にぶちまけられた黒い絵の具のようだった。目を開けていても閉じていても、彼の姿が離れない。
「もう、消えて!邪魔なんだけど!」
「そうか。一人の飯は寂しいだろうと思って、気を遣って来てやったんだがな」
瞼のなかの虚像だったはずの鎧男が、喋った。
「だ、誰か!助けて!」
「誰も来ねぇよ。俺が人払いしたからな」
彼の言葉にハッとして、ベルは朝食室を見渡した。先程までここにいたはずの給仕係が、いつの間にか姿を消している。
「助けを求めるなんて悲しいじゃねぇか。俺と姫様の仲でなぁ?」
鎧男は、ゆっくりと右手を上げる。昨夜の怒号の記憶が蘇り、ベルは思わず身構えた。右手が、ゆっくりと振り下ろされる――。
「――座っても?」
「へ?」
両手で頭を覆ったベルの前で、彼は、右手でベルの斜め向かいの席を指さしていた。
思わせぶりな動作に、ベルは乾いた笑顔を浮かべて「どうぞ」と答えた。
隙あらば噛みつきそうな容貌と裏腹に、鎧男は静かに椅子を引き、腰を下ろす。
「さて、俺は今からテメェに話がある。だが、食事の邪魔をするのは無礼だろう。だからここで食事は終わりだ。わかったな?」
無断で朝食室に入ってきたというのに、めちゃくちゃな理論。だが、反論は許さないという口ぶりだ。
ベルは返事の代わりにナプキンを外した。彼はそれを見て、一息つく。
「丸一ヶ月も行方をくらましていた割りには、ずいぶんな食欲だなあ、姫様よ」
「え、ええ……長いこと、まともに食べていなかったから……」
「ふうん」
彼は、テーブルの上をじろじろと観察した。まるで、獣が餌の匂いを探るようだ。お腹が空いているのだろうか。
「……め、召し上がります、か?」
「ありがたいが、腹は減ってねえ」
彼は手を上げて丁重に断った。その手を下ろすと、鎧男は腕を組んで下を向いた。
「……ユビルス。本当に俺のこと忘れているのか?」
「え?」
「テメェに再会してから、俺は名乗ってねえ。本当にテメェが記憶を失っていると信じたくねぇからだ。ユビルスが名前を呼んでくれると信じてな」
おや?とベルは思った。昨夜からの勢いはどうしたのか、女々しい態度。最初からこれを尋ねたかったのに、聞けなかったのかもしれない。
もしかしてもしかして、この男も?
ユビルス姫、あんたとことん罪深い女ね――ベルはふう、と息をついた。
ベルはこの男が、初めて可愛く見えてきた。何も恐れていないような男が、弱さを見せる。女にとってたまらない瞬間ではないか。
デリベラートには及ばないが、彼だってベルの合格点に達する男だ。なにより、今後の有意義な城の生活には、贅沢な品だけでなく、いい男が必要だ。もちろん、一人で満足するつもりはない。デリベラートとは毛色が違うタイプも押さえておきたいところである。
「……ごめんなさい。何もわからなくて……」
「そうか。……やっぱり、わからねえのか」
「でも、思い出せるかもしれない。今の私は、真っ白な鳥なんです。あなたの色で染めて下されば、また飛べるかもしれない……」
ベルは、鎧男の顔を見つめ……ようとした。
彼女が、鎧男の顔を見ることはできなかった。なぜならベルの顔前に、剣が向けられていたからだ。
「へ?」
「これで俺も腹が決まった」
言うが早いか、鎧男の剣がベルの鼻先をかすめた。それで済んだのは、ベルが思い切り体をのけぞらせたからだ。
「ぎゃあああ!」
「ん?おかしいな。確かに刺さったはずなんだが」鎧男がきょとんとした顔で剣の先を確認する。初めてのものを見たときの子供のように、純粋に疑問を抱いたような顔だ。
その隙に、ベルは椅子の後ろに隠れた。
「なっ、なっ、何するのよー!」
「何するって、なあ?ガキだって説明しなくてもわかると思うぜ?」
兎を見つけた狼のように、どこか楽しそうな声色で、鎧男はベルに近づいた。剣を持っていなければ、色気のある会話のはずなのに。
「染めてやるよ。真っ赤にな」
ベルが言ったのはそういうことではない。確かに血の気の多そうな男だが。
剣を構えて、鎧男が一歩ずつ迫ってくる。ベルも同じだけ下がるが、先に壁に当たってしまった。
切っ先が、ベルの顎をとらえる。喉元が剣の反射に照らされて、白く濡れる。
「……なんだ?」
ベルの表情を見た鎧男が、訝しげに呟いた。ベルは怯えているのではなく、何かを迷っているように彼の目に映ったからだ。けして、剣で追われている人間のする顔ではない。
それを確かめるために、鎧男の剣がベルに近づく。
ベルは怯えて泣き出すわけでも、絶望して命乞いをするわけでもなかった。彼女の瞳にあったのは――迷いだった。
「そ、それ以上近づくと――」
ベルの悲痛な叫びをかき消すように、ノックの音が響いた。
「……ユビルス姫?いかがなさいました?」
その声を聞いて、鎧男は舌打ちした。物音を聞いて誰かが駆けつけたのだ。
「人払いしたはずなんだがな」
彼はベルから離れると、剣を鞘に収めた。ベルの背中がずるずると壁を滑り落ちていく。
扉の外の人間が、ドアを開けようとしているのがわかる。だが、手すりには朝食室側から閂のように蝋燭台が引っかけられていた。鎧男がやったのだ。ベルは今になって初めてそれを知った。
鎧男は窓に足をかけ、ベルを振り向く。
「おい。今あったことは誰にも話すなよ。……まぁ、話しても無駄だろうが」
そうして、鎧男は窓の向こうに消えた。
あれだけ大きな男で、鎧を身につけているのに、窓の向こうに消えた彼からは、足音ひとつ聞こえなかった。
「姫様?いかがなさいました?お開けくださいませ!」
扉の向こうで、女の声がどんどん焦りを帯びてくる。それでも、ベルはしばらく立ち上がることができなかった。
たっぷりドレープの入ったベージュのドレス。全体の色こそシンプルだが、袖には段になったレースが縫い付けられていて、腕を細く、しなやかに見せてくれる。次は薄い桃色のドレスだ。先程のドレスよりもボリュームはないものの、全体にちりばめられた花模様の刺繍は立体感があって美しい。それから、一着だけあったノースリーブのドレスは、冬の湖のような蒼だ。スカート部分に斜めに白いレースが縫い付けられていて、渡り鳥のようだった。
他にも宝石、靴、帽子など、ベルはクローゼットの中身を引っ張り出した。
城で暮らすことが決まったら、やろうと決めていたことのひとつ……それは、可愛いドレスをたくさん着て、おしゃれを楽しむことだ。
生まれてこの方、ベルは布きれのような服しか身につけたことがない。この城のカーペットのほうが、布としては清潔なぐらいだ。
ベルがこのような行動を取ったのはもちろん、鎧男との遭遇で溜まった鬱憤を晴らすためだった。
何なのよ、何なのよあいつ!姫様を殺そうとするなんて!
あのとき動けなくなったのは、怯えたからではない。断じて違う。驚いたからだ、と自分に言い聞かせる。そうでなければ、ベルのプライドがズタズタだった。
剣を向けられたことよりも、姫の命は自分が好きにできるとでもいうような傲慢な態度。ベルは何よりも美形の男が好きだ。だが、命令されることはそれ以上に嫌いだった。自分が、それに屈してしまったことが悔しかった。
「いやいや、屈してない!屈してない!」
ベルは頭を振ると、ぐっと拳を握って決意した。
誰にも話すなよ、だって?誰が聞くもんですか!
鎧男のしでかしたことを城の人間に訴え、追い出してもらうのだ。あの男がいなくならなければ、ベルの城生活の安全は保障されないだろう。
相談するなら、デリベラートが良い。彼なら、立場もあるし信用できるはずだ。それに、単純に会いたい。
そうと決めたら、行動は早いほうがいい。時間が経てば、また決意が鈍ってしまう。
「誰か!誰かいませんか?」
部屋の中からそう呼ぶと、ほとんど待たずにノックの音が聞こえてきた。
「どうぞ」
「失礼いたします」
ドアを開けて顔を覗かせたのは、赤毛のメイドだった。長い前髪を後ろに流し、ひとまとめに結んでいる。メイドにあるまじき真っ赤な口紅を引いていたが、使用人のルールになど無頓着なベルは、珍しいメイドだなという感想しか抱かなかった。
また初めて見る顔だ。城に来てから何人ものメイドと接したが、一人として同じ顔に当たらない。何人メイドがいるのだろうか。女には興味がないベルが、覚えていないだけだろうか。
ベルはユビルス姫になりきり、思い詰めた表情を浮かべた。
「あの……困っていることがあるんです。デリベラート様を呼んでいただけませんか?」
メイドは目を少し見開いて、それから、部屋の中に入ってきた。
デリベラートを呼んでほしいと言ったのに、なぜか入ってくるメイドにベルは困惑する。
「いかがなさったのですか?お話下さいませ」
「え、いえ……だから、デリベラート様に」
「あの方のお手を煩わせないよう、先にお内容を把握しておきたいのです。大変お忙しい方ですから、用件はお簡潔に、お手短に、わかりやすく、お願いいたします」
彼女は話しながら、ベルに近づいてくる。近すぎるのではないかというほど、顔を近づけてきた。輝きの感じられない、真っ黒な瞳がベルを飲み込むように映している。思わず「はい」と返事をしてしまう。
だが、王女相手にこんな口を利くメイドなどおかしいに決まっている。
口を慎みなさいとか、ユビルスの立場を考えればそれぐらい言ってもいいはずなのだ。しかし、病弱だったと噂のユビルス姫を演じている以上、記憶を失っているという設定があっても態度を疑われたくない。
なにより、ベルはこのメイドが怖い。
「お、襲われたのです。今朝、食事をしているときに」
「襲われた?どなたに?」
「鎧を着た……銅貨のような髪の色をした男です。昨日も部屋を訪れたので、城の者でしょう?」
「それだけでは、あいにくわかりません。そんな男、兵士にはいくらでもおりますわ。他には?」
「こ、こめかみに傷が……」
「……傷のない兵士など、おりませんよ。彼らは本物の剣を使ってお訓練もいたしますし、城下の治安維持のため、常に戦っているのですから」
「……」
「これではあの方もお困りになるだけですわ」
メイドは、黙り込んだベルを哀れむような瞳で見つめた。
その哀れみはベルを労るような類いのものではなく、バカにするような種類のものだった。
「きっと、その男は幻ですわ。姫様はお記憶喪失により、少しお混乱していらっしゃるのですよ。可哀想な姫様……」
メイドの言葉に、ベルはあの鎧男が言った言葉の意味をようやく察した。
あの男が名乗らなかったのは、自分の正体がバレないようにするためだろう。
しかし、名前だけではない。鎧男が言っていたのは、ユビルス姫の立場のこと。襲われたと訴えているのに、姫に仕える立場のメイドですらこの不遜な態度。はじめから、ユビルス姫を助けるつもりなど毛頭ないのだろう。
「そんなことよりも、お茶にいたしますか?姫様」
メイドは今の会話など忘れたかのように、和やかに微笑んだ。