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彼女の顔で、酒場は蜂の巣をつついたあげくに熊が飛び出してきたような騒ぎとなった。その反応に手応えを感じた彼女は、ソーダ水の代金を踏み倒して酒場を飛び出した。そして、最寄りの王国軍駐屯地にスキップで向かった。
そこでも反応は同様で、奥から上官がすっ飛んできて城に早馬を走らせた。五分後に、このあたりでは一等の辻馬車を連れてきて、彼女を乗せた。上官は御者に丁寧に運転するよう何度も言い聞かせたあと、前後左右を騎馬隊で固めた。
扉を閉める前に、上官が小さい声で囁く。
「姫様。恐れ入りますが、カーテンをお閉めください。姫様の不在は、城でも知る者が少ないのです」
彼女は不安げな表情を浮かべたが、小さく頷いた。上官はカーテンが引かれたことを確認すると、出発の号令をかけた。
薄いカーテンの向こうでは、馬車や騎馬が掲げる灯りが揺れているのがわかった。物々しい雰囲気に、さぞや姫は怯えているだろうと外の上官は気を揉む。
確かに、馬車のなかで彼女は震えていた。
「……ふっ……ぷ、ぷぷっ」
笑いをこらるために。
なんて容易いんだろう。未だかつて、こんなにも誰かから注目されたことがあっただろうか?恭しく頭を下げられ、丁重に扱われたことがあっただろうか?
彼らは自分がユビルス姫であると疑わない。声を出して下品に笑いたい気持ちを抑えてユビルス――いや、ベルは肩を揺らす。
もちろん、彼女はユビルス姫ではない。顔がまったく同じの、赤の他人だった。
「はあ~あ。いい気味だわ」
ベルはふかふかの座席と背もたれに、ゆったりと体を預ける。ソファにはビロードが張られていて、上質な感触を愛おしむように撫でる。
ベルには野望があった。
金持ちになり、贅沢を尽くし、おいしいご飯と甘いお菓子をお腹いっぱい食べること。
そして、男だ。美形に囲まれて、ちやほやされて暮らしたかった。
人間が生きるだけでなく質の良さを心地良いと感じるように、食べるだけでなくおいしいものを選ぶように、女には子孫を残す相手として異性を選ぶのではなく、良い男が必要なのだ。それが、ベルの信念だった。
荒んだ生活を送り、盗るか盗られるかの日々を送っていた同じ世界の者たちは、ベルの願いを世迷い言だと笑い続けた。しかし、ベルは絶対に諦めなかった。泥水で喉を潤すような生活を続けて、ようやくチャンスが巡ってきた。
ユビルス姫が姿を消したこと。その日に、ベルがここに来ていたことだ。
ベルは、成し遂げたのだ。これからは城でユビルス姫として、生活の保障がされる。どんなドレスがあるのか、どんな美味しいものがあるのか、格好良い男がいるのか……期待はどんどん膨らんでいく。
「やったわ、やったわっ。ふふふっ」
ベルは、こっそりと前方のカーテンを開けた。
グロスクロイツ城が見える。<極夜戦争>の後に建てられた、現存する最古の城。あの戦争で、旧時代の城はほとんど傷つくか壊された。グロスクロイツ城は、苦難を乗り越えた人間達の、新世代の象徴だ。
<極夜戦争>にて魔界ごと悪魔を封じた勇者たち。彼らがグロスクロイツを築き、そして世界の王となった。グロスクロイツの王族たちは、この地上の、人間たちの頂点なのだ。
「姫様が戻った!?」
東の尖塔から城門を見張っていた支援管理官・アトラは、望遠鏡を覗き込み悲鳴を上げた。
ユビルス派と言われる王国軍側にあって、彼の上げた声は喜びの意味ではない。今、このタイミングで戻ってきたことに対する絶望だった。
ザクセンが外出している今、ユビルスがデリベラート側に渡れば大変なことになる。
「ああ……やっぱり、どうしよう」
案の定、馬車から兵士たちは追い払われ、文官たちが馬車を取り囲んだ。馬車は静かに居住区に吸い込まれていく。アトラが見張っていなければ、王国軍サイドには、姫が戻ってきたことすら伝わらなかったかもしれない。
「ザクセン様……ザクセン様に、知らせなくちゃ」
アトラは半ば転がるように、塔を降りていった。
薄汚れた服とマントを羽織っているだけのベル――もといユビルスの姿に、城の人間たちは戸惑っていた。彼らが知っている高潔なユビルスの姿とは、かけ離れていたのである。
ユビルスの部屋と思しき場所に入り、寝転べそうなほど大きなソファに座らされる。彼女は、きょろきょろと辺りを見渡した。
姿こそ似せても、内面がユビルスになれるとはさすがのベルも思っていない。もちろん、そのための策も考えてきていた。
「ここは……どこですか……?」
記憶喪失を装うのだ。
案の定、まわりを囲んでいたメイドや文官たちは、言葉を失う。
ベルは表面上は混乱した風を演じていたが、心の中で笑っていた。
顔がそっくり……いや、同じといっても過言ではない自負が、彼女にはあった。だからこそ、こんな大胆なことをしていも緊張どころか、状況を楽しんでいたのだ。
「デリベラート様を呼んで参ります。お前たち、ユビルス姫の湯浴みの用意と、お召し替えを。お食事の用意も急ぐんだ」
ひとりの文官の指示で、各々が部屋を出ていく。部屋に残ったのは、ベルの他には二人のメイドだけだった。
「湯浴みの準備ができるまで、こちらで体をお拭きいたします」
「ありがとう……」
ミルクのように柔らかな肌触りの布に、良い匂いのするお湯をたっぷりとふくませる。メイドたちは、汚れたベルの体を丹念に拭く。こんな高そうな布で汚れを拭くなんて。汚れたあとでも金になりそうだ。心地よくて、よだれが出てきそうになり、あわてて口を閉じた。
ベルは首を軽く振って、眠気を覚ますために部屋を見渡した。
先程は人に囲まれてじっくり部屋を見ることができなかった。さすが、王女の部屋というべきか、広く、清潔で天井も高い。シャンデリアの高さに、あそこに手を伸ばすにはどれだけの脚立がいるのだろうとベルは考えた。
天蓋付のベッドもカーペットも、人の手で作られたとは思えないほど精巧な細工が施されている。
ただ、それはこれまで大勢の貴族や商家の家に盗みに入ったベルの瞳には、地味に映った。調度品も少ないし、輝きが足りない。質は良いのだが、数も華やかさも圧倒的に足りない。この部屋の主がしばらく不在だったから、仕舞われているという可能性もあるのだが……。空間を埋めているのは、観葉植物が多かった。
メイドたちがあらかたベルの体を拭き終えた頃、ドアがノックされた。
「姫様。デリベラートです」
ドアの向こうから聞こえた声は、男のものだ。ベルは、近くにいたメイドふたりの顔色に、朱色がさしたのを見逃さなかった。それから、ベルのことをようやく思い出したようだった。
妙な反応を内心不思議に思いながら頷くと、メイドのひとりがドアを開けに行く。
そこに現れた男の姿を見て、ベルはメイドたちの反応に納得した。
なんて美しい男なの!
金髪の輝きを越え、白く光ってさえ見える長い髪。髪の色と同じ睫毛が、深緑の瞳を縁取っている。すらりした高い背と、どの角度から見ても惚れ惚れするような顔立ちは、神の庭園に飾られた彫像と言われてもおかしくない。
高貴な紫の一枚布から作られた服装。彼が高貴な身分であることを示している。デリベラートとは、先代王亡きあと政治を取り仕切っていた者の名であることを、ベルは思い出した。
「姫様の帰りを待ち、眠れぬ日々を過ごしておりました。よくぞ、ご無事で……」
デリベラートはベルの前に傅くと、恭しく頭を下げた。まさに、姫様と忠臣という図だ。
これこれ!こういうのされたかったのよ~!という言葉を、鼻血と共にこらえる。
ベルは肌掛けを掴み、口元がにやけているのを悟られないよう、深く俯いた。
「いかがなさいました?どこか具合がお悪いのですか?」
「い、いえ……なんでもありません。ただ私、なにもわからなくて……」
「記憶を、失ってらっしゃるのでしたね。なんとおいたわしい……」
沈痛な表情でさえ、額にいれて収めたいたいほど、絵になる。
その時、ベルは肌に刺すような視線を感じて横を見た。メイドたちが、色が変わるほど唇を結んでいる。どんなに想っても手が届かない男が、女と見つめ合っているのだ。確かに、あからさまに顔に出したくなるような状況だろう。
しかしベルは、そんなメイドたちを見ても同情するどころか、優越感を覚えた。もっと悔しがって欲しい。ベルは、ここに来るまでそれなりの苦労をしてきたのだ。
「ああっ……」
ベルは額をおさえて、ふらりと上半身を揺らした。
「ユビルス姫!」
血相を変えたデリベラートが、さっと体を受け止める。布越しにもわかる逞しい腕は、とても政を担う宮宰のものとは思えなかった。
「大丈夫ですか。起きているのもやっとなのでしょう」
「いいえ……私、安心してしまって」慎ましく答えながら、間近にあるデリベラートの顔に心の中で嬌声を上げる。
「え?」
「あなたのこと、記憶は失っていても心が覚えているような……。こうしていると、ほっとします」
ベルは、デリベラートの腕にそっと触れる。指先から、彼の体温が流れ込んでくるようだ。抗いがたい欲望の影で、生まれて初めて幸福感のようなものを感じた。もしかすると、これが恋なのかもしれないと思った。
メイドたちは、二人のやりとりを見て無表情になっていた。怒りを通し越して、感情を切り離してしまったのだろう。
ベルはそう考えていたが、実際は違っていた。
デリベラートの背後に、きらりと光るものがあった。メイドたちは、それを知っていたのだ。
「私も、同じ気持ちですよ」
デリベラートの顔に見惚れたままのベルに向かって、それが振り下ろされる。
「……セン様~!ザクセン様~!」
廊下の外で、間の抜けた声がする。デリベラートの整った顔立ちが、その時初めて歪んだ。
「ザクセンの犬か……」
怒った顔に見とれ、ベルはぼーっとデリベラートを見つめていた。視線に気づいたデリベラートは、ベルを見てくすりと笑う。
「本日は邪魔が入ったようです。また、後日改めて」
「ええ……お待ちしております」
デリベラートが部屋を出ていくと、釣られた魚のようにメイドたちもついていく。
扉が閉じられると、ベルはこの城に来て初めて一人になった。足音が遠ざかり、誰も近づいて来ないのを耳を澄ませて確認してから……。
「……ふっ、ふっ、ふっ~、ふふふふふ!」
ベルは、バッとソファの上に立ち上がった。
「最高!サイッコーだよ!姫様って、城暮らしって、なんて素敵なの!」
肌着姿のまま、ベルはソファを、ベッドを、スツールの上を、飛び跳ねて回った。最後にはカーペットの上を転げ回った。カーペットも、さぞかし高級な品なのだろう、素肌で触れると気持ち良くて、思わず撫でた。
豪華な城も、内装も、素晴らしい。けれど、なによりデリベラートのような美男子に巡り会えたことが、ベルの心を躍らせた。
ベルを見つめる、あの視線。おそらく、ユビルスとデリベラートはただならぬ関係だったのだ。権力争いなんて、所詮庶民の根も葉もない噂だったのだろう。
城という舞台には、きちんと王子様が配置されていた。
おいしい食べ物も、甘いミルクティも、レースがたっぷりついたドレスも好きだが、ベルはなによりも、いい男が大好きだった。
「ああ、ここから私の幸せな人生が始ま――」
コンコンコン!
けたたましいノックの一打目でベルはカーペットから飛び上がり、二打目でカーディガンを羽織り、三打目で元のソファに腰を下ろした。
「ど、どうぞ……」
荒くなった息を整えながら、か細い声で答える。
扉が、可哀想になるぐらいの勢いで乱暴に開いた。
ベルがあぜんとしている間に、彼は大股で部屋の中央に進んできた。鎧を身につけ、肩を上下させている。近づいてくると、彼の背の高さがよくわかった。デリベラートには敵わないが、なかなかの美青年だ。
こめかみの傷が少し残念だが、隠すでもなく、彼の茶髪はざっくりと刈られている。どれだけ急いだのか、額には汗が滲んでいる。この力強くて男っぽいところも、どう猛な狼のような顔立ちと相まって魅力的な――
「ユビルス……」
「え?」
彼は今、確かに姫の名前を呼び捨てた。
「テメェ……どうしてここにいるんだ!」
……人は、怒号で死ぬことがあるのかもしれないと思うほど、凄まじい声量だった。