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ベルが行方不明になり、四日が経った。
国民に人気の高いユビルス姫の即位を邪魔した者として、デリベラートの信用は失墜した。彼に味方をしていた新興権力者たちも、国民の批判を恐れて手の平を返したように王族側にすり寄ってきた。
大臣として国の政務をリードしてきたデリベラートの不在は国内に動揺を与えたが、その反動で、ザクセンに期待が集まった。<彼は誰時会議>のあとに、参冠式だけでなく戴冠式の触れも出ていたため、国民は前向きだった。十数年ぶりの新たな王の誕生に、デリベラートの裏切りは一滴の水を差した程度の影響しかない。何年にも渡り執務を担ってきた大臣に対する評価とは、落差のある反応だった。
ユビルス姫の行方不明については極秘事項となり、ザクセンの信の置ける部下を使い、探している。だが、彼女が偽物であるということは未だ、アトラとザクセンしか知らない。
ザクセンも自ら、寝る間も惜しんで彼女の捜索に参加していた。
「……ザクセン様?」
話の途中でザクセンが黙り込んでしまったので、アトラは控えめに呼びかける。疲労困憊のザクセンは、自分がデスクに肘をついたまま眠っていたことに気づいた。
「……悪い。どこまで話した?」
「……ザクセン様、す、すこし寝たほうが」
「大丈夫だ。そこまでヤワじゃねえ」
こうなると何を無駄だとわかっていても知っているアトラは、再び書類に目を落とした。
「関門と国境で、さ、最近、許可証を持たない女性が来たというは話はないので、都にはいるとおも、おもいます。ただ……」アトラの表情に影が落ちる。「ユビルス姫に、へ、変身できたんですから、今ごろ、ま、また姿を変えているのかも……それに、そ、空を飛ばれて国境を越えられては……」
「あり得る話だ。……人捜しの定石でやっていたら、キリがねえな」
何せ、相手は悪魔。ザクセンにとっては、伝説の生き物なのだ。
それを疑うことは、もうできなかった。祈りの血の酒が入っていた瓶の底に、僅かに残っていた滴。あれをネズミに舐めさせたところ、即死した。あの瓶は、確かに前夜――ザクセンが、毒を入れたもので間違いなかった。
思えば、ウィニタリウス公爵の息子が回復したのもベルの力だったのだろう。給仕係が殺されたのも、晩餐会でベルのスープには本当に毒を仕込んでいたのに、彼女が死ななかったからだ。
他にも、考えれば辻褄の合うことがいくらでもあった。
額に指を当てて考え込む。デリベラートのために調べ始めた魔法に関する資料が、今ではベルを探すためのものになっていた。
「……そもそもあいつは、どこから人間界にやってきた?誰かが、新たな魔法陣を作ったのか?」
封印陣を解かなければ、世界中のどこに魔法陣を書いても魔界との繋がりは出来ないはず、だった。
だが、なにしろ四百年前の知識だ。それが本として残り、伝えられているのみ。ザクセンとて、文字としてしか魔界と封印陣の関係について知らない。
「……それらしき知識のありそうなところを探すしかねえか。オレはデリベラートの部屋をもう一度調べてみる。テメェは、街の呪術屋や学者をあたってみてくれ」
「は、はい」
そうして、アトラは部屋を出ていった。
一人になったザクセンは、大きな溜息をついた。なぜ、ここまで手を尽くして、必死になって、ベルを探すのだろうか。軍人としては、これまでのザクセンの計画を、真実を、公にする危険性があるから、彼女を探している――。
それは、建前だ。
わかっている。ベルがこのことを公にするようなことはしないだろうし、したとしても相手にされないだろう。
ザクセンはもう一度、彼女に会いだけだ。そうしなければいけない気がした。会って何を話せばいいのかもわからないのに、ベルを探していた。
そこへ、出ていったはずのアトラが息を切らせて戻ってきた。
「ザクセン様!い、いま、正門の前に……デリベラートの部下だったという男が、ほ、保護を求めてきているそうです!」
ザクセンは急いで剣を握り、アトラを伴って正門に向かった。
「さあさあ、ベルさん!次は黄金りんごのタルトよお~」
一方その頃、ベルは食べきれないほどのごちそうを前に嬌声を上げていた。
「わーい!ありがとう、奥様!」
「どんどん食べてくれたまえ。ほっほっほっ」
公爵夫妻は、眩しそうにベルを見つめた。ザクセンたちが必死に自分を探しているとは露知らず、ベルは貴族の屋敷で贅沢三昧をして過ごしていた。
事は数日前に遡る。
城を出たベルは、グロスクロイツ城に行く前と同じように、貴族の屋敷を転々とし、キッチンやワードローブを漁って魔力を回復していた。
そこで貴族たちが噂話をしていて知ったのが、クインツハーグ公爵のことだった。夫人が最近病に倒れ、公爵はあちこちから薬を取り寄せたり医者を探したが、夫人に回復の兆しが見えなかったのだという。とうとう公爵は怪しい祈祷師や呪術師に莫大な金を注いで――と、ある貴族たちはバカにしたように、ある貴族は同情したように話していた。
そこで、ベルは適当な呪術師を名乗り、クインツハーグ公爵の家にやってきた。もちろん姿は変えてある。チョコレート色の髪と、青い瞳。本来の顔をベースに、三割増しぐらいの美人にした。
そして、ウィニタリウス公爵の息子・ウーラをそうしたときのように、夫人を見事に病から救ったのだった。
「ベルさんがいなかったら、今頃どうなっていたか……どんなお礼をしても、感謝しきれないわ。欲しいものがあったら、何でも言うのよ?」
「うん!また、新しい宝石買ってくれる?」
「ああ、ああ。もちろんだとも。ベルさんのためなら、馬車いっぱいの宝石を集めてくるよ。ほっほっほっ」
クインツハーグ夫妻はベルに全幅の信頼を置いており、素性も聞かなければ、自分の存在を秘密にしてほしいという願いも聞き入れてくれた。
ベルは、人間界に夢見ていた理想の生活を、今度こそ謳歌していたのだ。可愛いドレスを着て、従順なメイドに囲まれ、瞳よりも大きな宝石を両手いっぱいに所有して、たくさんのご馳走を食べていた。
なぜかいい男に対する執着が前ほどではないことが自分で気になったが、他の欲求が満たされているからだろう、と考えていた。
ベルは満腹になると、自分の部屋に向かうために晩餐室を出た。
突き当たりの廊下に見知った人影を見つけて、ベルは呼びかけた。
「ロレイナ!起きてたの?」
それは、顔もローブで覆った全身黒ずくめの女性だった。
ベルが彼女について知っているのは、名前と、夫妻の子供ではないということ。そして、このローブで全身を覆っているのは、病気のために肌を出せないからだということだ。
「今日は調子がよかったから……ベルちゃんの楽しそうな声も聞こえてきたし」
「あんま無理しちゃだめだよ?ご主人様も奥様も心配するから。私、あのひとたちが悲しい顔するのはちょっとやだな」
女にはまったく興味のないベルだったが、彼女のことを気に入っていた。ローブに隠れていても、気品のある喋り方や、仕草は伝わってくる。デリベラートのような妖しい美しさとは根源的に違う、生まれながらの神秘的な存在感を彼女は持っていた。
この家にはもう一人病気の女性がいると聞いたとき、ついでだからとベルは治療を申し出た。
しかし、ロレイナの病は人間の心からくる病だった。これは、ベルにも治すことはできない。というより、出来そうな気はしたのだが、やってみたら出来なかった。
「ロレイナの病気も治せたらいいんだけどなあ、ごめんね。奥様のとはちょっと違うみたいで」
「私のことはいいの。奥様が元気になったなら、それで。ベルちゃんと話してると、不思議と元気になれるし」
「へ、へえ~。そうかな?」ロレイナは臆面も無くこういうことを言うので、ベルも照れてしまう。
「それに、気に入ってるのよ。この格好。寝癖がついてたって、このままでいいんだから」
ロレイナの冗談に、二人は顔を近づけてくすくすと笑い合った。
ベルは、グロスクロイツの城を出てからというもの魔界へ帰る方法も探していた。
クインツハーグ夫妻は、この屋敷にずっといてもいいと言ってくれた。人間の姿を保ち続けることはベルにとって魔力を消耗する行為だが、夫妻のもてなしを受ければその心配はなさそうだった。
それなのに、なぜ魔界へ帰りたいと思うのだろうか。
ベルは窓の外へ視線をやる。景色のいい、日当たりの良い部屋をベルはあてがわれていた。
しかし、そこからはグロスクロイツ城がよく見えた。ベルはそれが辛かった。城は高台にある上、巨大なので、この首都にいる以上どこからでも見えてしまう。
だったらグロスクロイツを出るという手もあった。許可書など必要ない。国境だって、飛び越えていくことができる。そして他国へ行き、貴族の家を根無し草に生きていくのもいい。少なくとも魔界にいるよりもずっと良い生活ができる。
でも、良い生活とは何だろう。ベルには、わからなくなっていた。たくさんの贅沢をすればするほど、心にはぽっかりとあいた穴があることを意識してしまう。その穴の形は、口が悪くて、目つきが怖い、あの男の形をしていた。
「……もうやだ……」
こんな思いをするなら、あんなに逃げたいと思っていた魔界へ帰ったほうがいい。それほど、ベルは思い詰めていた。




