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「”時の選びし今日に 我は王の誓いを捧げる”――」
参冠式は、粛々と執り行われた。
グロスクロイツ城の敷地にある祭殿には、<彼は誰時会議>の面々を中心として参列者が集まっていた。
祭壇の上にはベルと儀式官。その前には、七日後の戴冠式で即位の際に使われる予定の王冠がある。これに<盟約の詩>と祈りの血の酒を捧げた者が、即位を許される。
あれだけ練習したため、ベルはよどみなく<盟約の詩>を読み上げることができた。
ザクセンは参冠式にこだわっていた。彼の求める何かがそこにあるのなら、ベルに出来るのは参冠式を無事にこなすことだけだ。
私、いつの間にこんなに殊勝な女になったのかな。贅沢な生活がしたくて、ただその単純な欲望で、城に忍びこんだはずなのに。今はどんなドレスや宝石やご馳走よりも、ザクセンの望みが叶うことを願っている。
<盟約の詩>を読み上げる姿を、デリベラートを始めとする参列者が見守る。その中には、ザクセンとアトラの姿もあった。
「ザクセン様……本当に、い、いいんですか」
アトラが、ザクセンにすがりつくように言った。
「静かにしろ。式典の最中だ」
「だって、ベル様は……悪い人じゃありません」アトラは、ザクセンの言うことを聞かなかった。彼の命令を拒んだことは、一度もなかったのに。「僕、イヤです……ザクセン様だって……」
「”神に誓う。我が王たる者なり。神は王の導なり。王は民の導なり”……」
そこまで読み上げると、儀式官がベルに盃を持たせた。金色の盃に、慣例で大臣が用意することになっている葡萄酒が注がれる。
「――”我はグロスクロイツの王なり。ユビルス・ファーレン=グロスクロイツ”」
ベルは盃を顔の高さに掲げたあと、口元に持っていった。
「――ザクセン様!」
「……っ!」
アトラの呼びかけに、ザクセンが立ち上がった。
だが、それと同時に儀式場の扉が開いた。物々しい装備をしている彼らは、ザクセンの兵士たち――グロスクロイツ王国軍ではない。
「その祈りの血の酒、お待ちください」
参列者の中で、デリベラートが毅然と立ち上がった。どうやら、装備をした人間たちはデリベラートの私兵のようだ。
「……ザクセン様。貴方をユビルス姫を毒殺しようとした嫌疑がかかっています」
デリベラートの言葉に、参列者たちがどよめいた。
「毒、殺……?」ベルは、呆然とザクセンを見つめた。
「ザクセン様は、その祈りの血の酒に毒を仕込んだのです。昨夜、それを置いていたこの儀式場に、貴方が忍びこむ姿を見たという証言を得ました。祈りの血の酒を用意するのは私の役目。その管理に、このデリベラート、責任がございます」
「……」
知っていたな、とザクセンは呟いた。
おそらく、目撃者などいない。ザクセンが取る行動を、デリベラートは予見していたのだろう。あの、<彼は誰時会議>の日から。
「嘘だというのなら、今すぐにこの祈りの血の酒を口にしていただけますか。ザクセン様。飲めば、すぐに結果がわかることです。新女王となる方の命を守るため。どうぞご協力くださいませ」
デリベラートはベルの元へ近づくと、盃をユビルスから、儀式官から中身がまだ入った瓶を奪い取る。そして、ザクセンの目の前に差し出した。
だが、ザクセンは微動だにしなかった。それが彼の答えだった。
飲めば、死ぬことがわかっていた。だが、死を恐れているのではない。デリベラートに対しての負けが、なにより許せなかった。
「ザクセン……」
ベルは、弾かれたようにデリベラートの手から盃と瓶を奪い取った。
そして、全員の前で盃の中身を飲み干した。
「な!?」
更に、瓶に直接口をつけて、ごくごくと中身を飲み下す。
参列者たちが唖然とする中、盃と瓶を空にしたベルはその二つを高々と掲げた。
「毒なんか入っていません!……私は、無事です!」
「なぜ……なぜだ!」
「こ、これは……デリベラート様の企みです!参冠式を混乱させ、王位を……その、私から奪おうとしたのです!いくらデリベラート様といえども、許しません!捕えなさい!」
デリベラートの美しい顔が、初めて屈辱に歪んだ。
控えていた王国軍の兵士たちが儀式場に入り、デリベラートと私兵に向かっていく。
「嘘だ!その瓶には、確かにザクセンが毒を――!」
儀式場は、大混乱だった。私兵たちも抵抗し、参列者は戦いに巻き込まれないようにと逃げ惑う。
混乱の中、ベルはザクセンの元へと駆け寄った。みんな、デリベラートたちの戦いに気をとられ、祭壇を降りたユビルス姫の姿を気にとめなかった。
「お前、どうして無事なんだ!」
「そんなことはどうでもいいよ!」ベルは叫んだ。こんなに悲しい気持ちになったのは、生まれて初めてだった。
「ザクセン。私を、殺そうとしていたの?最初から、そのつもりだったの?」
ベルの詰問に、ザクセンは目を反らした。
「……参冠式の祈りの血の酒は、大臣が用意するしきたりになっている。それを飲んでユビルスが死んだことにすれば、デリベラートの失脚は免れない」
「……私を、そのために、ずっと利用していたんだ?」
これまでの彼の行動の意味が、歯車が噛みあうように理解できた。
ベルは、手を振り上げた。ザクセンが僅かに構える。アトラが、咄嗟に間に入ろうとする。
けれど、ベルの手がザクセンの頬を打つことはなかった。
「……儀式官。参冠式は、終わりましたか」
ベルは手を下ろしながら儀式官に問いかけた。
叫び声を上げるデリベラートや私兵たちが、ちょうど儀式場から連行されていくところだった。
「は、はい……祈りの血の酒を飲み、儀式としては、参冠式は終えられ……ユビルス姫が戴く冠は、女王のものとなり……あとは戴冠式を迎えれば、女王としてご即位ができます……」
「そう……ありがと……」
それを聞き届けると、ベルはザクセンの横をすり抜けて、とぼとぼと去って行った。
「ユ……ユビルス姫は、今、新たにグロスクロイツの光となりました!これより七日後の戴冠式にて、ご即位なさいます!祝福を!」
儀式官が、去ろうとするユビルスに向かって慌てて参冠式の最後の言葉を叫ぶ。
デリベラートたちがいなくなったばかりの儀式場だったが、参列者たちの一部から拍手が上がる。やがてその拍手は、自分を陥れようとした人間を自ら追いやった、新女王への称賛の拍手に変わった。
ベルは、その中を暗い表情で歩いていった。
「……ザクセン様……」
「……デリベラートが、参冠式の直前で祈りの血の酒をすり替えたのか?」
「え?」
「いや……だったらユビルスにそのまま毒を飲ませて、殺したはずだ。それから、オレに罪をなすりつければいい。これじゃあ辻褄が……」
「ザクセン様!」
アトラが、怒ったように声をあげる。
その責めるような表情を見て、ザクセンはハッと息を呑んだ。
「……べ、ベル様を、追いかけなくて、い、いいんですか?」
「……そう、だったな」
ザクセンは、ベルを追って儀式場を出た。
だが、どんな顔をして彼女に会えばいいのか、ザクセンにはわからなかった。
ベルを追いかけて、ザクセンは祭殿を出る。
その時、彼の目の前を黒い影が過ぎった。大きくて黒い鳥が飛んできたのだとザクセンは錯覚した。
影は祭壇の裏にある城壁に止まった。波打つ金色の髪。参冠式の際、即位する者だけが纏うことを許される白い衣。その背中側が裂けて、巨大な黒い羽が生えていた。
ベルはまるで鳥のように、城壁の上にとまっていた。
「ベル……」
ザクセンは、初めてベルの名前を呼んだ。そのことがわずかにベルを動揺させたが、彼女の行動を引き止めるには至らなかった。
「テメェ、人間じゃなかったのか」
「ザクセンには、もう関係ないでしょ……ご、ごめんね!?死ななくて!ザクセンを王様に出来なくて!」
ベルは立ち上がると、ザクセンたちに背を向けた。向こうにはグロスクロイツの街があるが、城壁のすぐ下は断崖絶壁だ。風がすさまじく吹き上げてくる。
「――バイバイ」
ベルの姿が、城壁の向こうに消える。一拍置いて、黒い羽を羽ばたかせたベルが浮上した。
どこへ行くかなんて、決めていない。もとより、帰る場所などないのだから。でも、もうこの城には、ザクセンの側にはいたくない。
ベルは泣いていた。この四百年、泣いたことなんて一度もなかったのに。
ただただ城から離れることを考えて、ベルは飛び続けた。




