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ミネイに紅茶の用意をしてもらう。今日のおやつは、大きなシフォンケーキだった。
いつもなら、こんなに巨大なシフォンケーキは食べるのをザクセンが許すわけがなかった。でも、今は朝食から晩餐まで、好きなだけ、好きなように食べることができる。
ここに来て、ベルは初めて自由な生活を手に入れたのだ。
シフォンケーキは、とても美味しかった。ふんわりとした生地は口に入れると切なくなるほどの早さで溶けてしまう。噛む度に、卵の甘みが口の中に広がった。
それなのに、ベルのフォークは何度も止まった。まだ一杯目の紅茶も、半分も減らない内に冷めてしまった。
「ザクセン様はお忙しいのでしょう。あまりお気落ちなさらないでくださいませ」
ベルの様子を気の毒に思ったミネイが、紅茶を取り替えながら声をかけた。
別にそういうんじゃない、いなくなって清々している――と言いたいが、ユビルスとザクセンが恋仲だと思っているミネイの前でそんな発言をするわけにはいかなかった。
ザクセンは、ユビルスの即位絡みの準備のため、城内に詰めている時間が圧倒的に増えていた。兵舎に来たときはその姿を見ることはできたが、ザクセンはベルの前にはやってこなかった。
願っていた暮らしを送ることができているはずなのに、ベルはザクセンの様子が気がかりだった。<彼は誰時会議>のあとのザクセンは、普通ではなかった。
ザクセンのデスクには、毎日のように魔術書や古文書が広がっていた。デリベラートが魔法に興味を示したことで、ザクセンは常に勉強を欠かさなかった。封印陣を探しているのだ。魔方陣、世界地図、グロスクロイツの領土図。中央に描かれているのは、丸い形のグロスクロイツ城。
「姫様。新しくお切りいたしますわ」
ミネイがシフォンケーキにナイフを入れる。ベルは、「あ」と声を上げた。
一人で城を歩いたのは、まだザクセンに見つかっていないときにデリベラートを探したときが最初で最後だ。部屋から部屋への移動はあるが、好きに探索したのはその時だけだ。考えてみれば、ベルはほとんど最初からザクセンと常に行動していた。
ベルはもやもやしていた。あんなザクセンは、ザクセンではない。いつもと違うザクセンが、気持ち悪くていやなのだ。今のベルには、そうとしか言葉にできなかった。
ベルの心の平穏を取り戻すには、ザクセンに元に戻ってもらわなければならない。
けして、ベルが今していることはザクセンのためではないのだ。
ベルは、慎重に城内を探っていた。ミネイとアトラを追った日に手に入れた指輪を握りしめる。食事もおしゃれも十分に堪能し、好きなように暮らせているというのに、このおもちゃの指輪を持っているときが、一番力が漲ってくる。
これなら、ミネイに襲われたときのように咄嗟の事態が起こっても大丈夫だ。ベルは自分に言い聞かせて、城の中をくまなく歩き続けた。壁に触れたり、床に触れたりしながら。
「……やっぱり」
この城のどこからか、ベルが探しているものの気配を感じた。この城を構成しているのは、ただの石ではない。詳細で綿密な計算のもと、術がかけられた石で組み上げられている。この術を辿れば、その源に答えはある。
そのとき、誰かが歩いてくる気配がしてベルはさっと隠れた。
やってきたのは、デリベラートだった。一人だというのに、彼は花でも愛でるかのように微笑んでいた。笑顔の仮面を被っているかのようだった。
彼がいなくなると、ベルは再び調査を始めようとした。だが、ふと彼がどこから来たのかが気になった。
デリベラートと、ベルが探しているものは同じはずだ。だったら、彼もいくらかの手がかりを得ているはずだ。もしかしたら、見つけている可能性だってある。
ベルはデリベラートが来たもとの方角へ歩いた。すると、立派な扉の部屋があった。
辺りを伺いながら、ドアノブに手をかける。
「あつっ!」
その瞬間、ベルの手に焼けるような痛みが走った。
部屋に誰かが勝手に入らないように、鍵をかけるならわかる。だが、この施錠は、鍵穴に鍵をさしこんで行うものではない。
「呪術……!」
デリベラートは、大臣という立場でありながら国内で禁じられているはずの呪術を使っていた。呪術とは、人間が、魔界の助けなしに使うことのできる奇跡の力。信じられなかったが、実際目の前で起こっているのだ。
ベルは、ひとつの対策を思いついた。深呼吸のあと、右手に意識を集中させる。
すると、彼女の右手が変化していく。爪が猛禽類のように長く伸び、黒く変色する。まるで、右手だけが別人になったかのように。
その右手でドアノブに触れると、呪術はやはり働かなかった。呪術をかける際、人間以外が触れることなど想定できなかったのだろう。
無事に、デリベラートの部屋に侵入した。中は何の変哲もない部屋だ。整然と片付けられており、必要最低限の家具のみがある。部屋には窓がないため、昼だというのに真っ暗だった。
ランプをつけると熱で侵入したことが知られてしまうかもしれないので、廊下から差し込む明かりを頼りにデスクを探る。
デスクの上は、綺麗に片付けられていた。引き出しにも同じように呪術による施錠がされていたが、部屋に入ったときと同じ方法で解錠する。
「これ……」
引き出しの中には、予想通り大量の魔法の書や、魔界に関わる研究内容、デリベラートが書いたと思しき魔法陣や計算式のメモがあった。
そして、グロスクロイツ城の詳細な設計図があった。ベルにはその価値がわからなかったが、存在しないと思われていた。
細かな書き込みがあるが、ベルはグロスクロイツ語をほとんど読むことができない。
この国の大臣ともなればこれぐらいは持っているのだろうが、ベルには何かが引っかかった。なぜ、この間取り図を彼は隠す必要があったのだろうか。
「姫様」
ベルが振り向くと、真後ろにデリベラートが立っていた。
「いけない方だ。いくら姫様といえど、主が不在の部屋に入ることは許されませんよ」
「そう、ですわね……」
逃げることよりも、まずベルは右手を気づかれないように元に戻した。デリベラートはベルをあざ笑うかのように、一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。
「最近は、ザクセンの元へ入り浸っておられたそうですね。姫様のいない城は、花が無い」
「ご、ご心配をおかけしました。しかしこの城は、貴方がいれば何の問題もありませんわ」
「ええ。しかし、役に立たずとも人々の心の潤いのため、花は必要なのです。愚かな目を欺くために。美しい花が……」
デリベラートが危険な男であるということなど、ベルはとっくに知っている。
だが、頭ではわかっていても、心が、本能が、彼を欲していた。
ベルは困惑した。この城に来て初めて彼に会った時と、何ひとつベルの気持ちは変わっていない。むしろ、増している。
「デリベラート、様……」
ベルは美しい男が好きだが、デリベラートに抱いた衝動は好きなどという生やさしいものではなかった。ベルには彼が、美しさというよりも、砂漠の真ん中で倒れていたところに出現した幻想の水のように見える。
高熱を上げたあとのように、ふらふらになりながらもベルはデリベラートの部屋から逃げた。デリベラートは、ベルを追っては来なかった。
部屋から逃げ続け、ベルはようやく意識がはっきりとしてきた。
先程、デリベラートに抱いた気持ちが何なのかベルにはわからない。呪術を使っている気配はなかったし、幻惑香の類でもない。
今日は一度兵舎に戻ったほうが良いかもしれない。そう思って壁伝いに歩いていると、ザクセンと出くわした。
「……しまった」
「テメェ……何で城にいる」
抵抗も言い訳もできないほど、ベルは消耗していた。まるで、デリベラートにエネルギーを吸い取られてしまったかのようだ。ザクセンに乱暴に腕を掴まれ、近くの客間に押し込まれる。
ザクセンの許しを得ようとして、ベルは早口に城内にいる理由を告げた。
「ちょ、ちょっと待って。デリベラートが探している封印陣の場所がわかったかもしれないの」
「はあ?」
「それで、調べてたの。ね、多分封印陣はこの城の真下にあるんだよ。城のどこかに、入り口がある。今、それを探してたんだけど」
「何を根拠に?」
「それは……か、勘かな」
「アホらしい。テメェの話をまともに聞こうとしたオレが間違ってた」
ザクセンは、取り合おうともしなかった。
ベルの誤魔化しかたもよくなかったのかもしれないが、ザクセンならデリベラートに関わる重要な情報であれば話を聞いてくれると思っていたのに。
なによりベルが傷ついたのは、ザクセンの考えがわかったからだ。ベルの話を聞いた上で判断したからではなく、話しているのがベルだから、聞いてくれないのだ。
「なんなのよ……最近、あんた一体なんなの?むすっとして、私のこと避けて」
「別に避けてねえよ」
「避けてる!」
「だとしても、テメェに説明する必要はない」
お決まりの言葉に、ベルは爆発した。
「ほ……ほんとは、勘じゃないけど、ちゃんと理由あるけど、話せない!あんたがなんにも、私に話してくれないから!」
うまく言えなくて、声が震えた。それでも、ザクセンはベルを見ようとはしなかった。
「ほんとのこと話してくれない人に、ほんとのこと話すなんてできないよ」
「……」
「私が話したら……。私が本当のこと話したら、ザクセンも、何を考えてるのか教えてくれる……?」
彼は答えなかった。ただ、ベルを見つめている。
その瞳から、ベルは何の感情も読み取ることができなかった。いつもの拒絶ではなく、彼の心の深層に入り込めない壁を見た。怒りの波が過ぎると、疲れて、虚しくて、悲しくなってきた。
ザクセンは無言でベルに背を向けると、立ち去った。
怒鳴ってくれればよかった。話す必要はねえ、といつものように一蹴してくれればよかった。ザクセンに何も求められていないと、まざまざと思い知らされてしまった。
主のいないザクセンの部屋で、ベルはぼんやりと窓の外を眺めていた。グロスクロイツの国が、夜に沈んでいく。こんなにはっきりと夕日が見えるのに、ベルのことを意に介する様子もなく、夕日はとろけるように稜線の向こうに溶けていった。
「姫様……窓をお開けっ放しで、そんなところにずっといたらお風邪をめしますわよ」
ミネイは、ベルの肩に上着を羽織らせた。そして、ベルの横から窓を閉める。
「……ミネイはさ、あの方のことがすごく好きでしょ」
「はい。そうですわね」
「でも、あの方はミネイに何もくれないじゃない」
「わたくしは何かしてほしくて、あの方を好きになったんじゃありません」
ミネイの言葉に、ベルはどんな顔をしたらいいのかわからなかった。
その気持ちを理解したいような、したくないような……既にわかりかけているような気がする。でも、どの気持ちにしてもベル自身、認めたくないものだった。
「私、わかんないの。ザクセンの何に、こんなに悲しくなってるのか。自分で自分のことがわかんないの」
ミネイは、記憶を失った主の様子に、同情こそすれ疑いは持たなかった。
「……姫様。薄々そうじゃないかと思っておりましたけど、お城からお行方不明になったときのことも、お忘れなのですね。ザクセン様との間にあったことも」
忘れるもなにも、知らない。とは、ミネイに言えるわけがない。
「お辛い記憶かもしれません。でも……今の姫様には、思い出すべきことかもしれません。直接見たことと、聞いた話が混じりますから、うまくお伝えできるかわからないのですが」
ザクセンとユビルス姫の間にあったこと。ベルがこの城に来る前に起きた出来事。
ザクセンやアトラの会話の内容から、断片的にではあるが彼らの関係が良好であったことは伺い知ることができた。
それがなぜ、ユビルスがザクセンの元を去ったのか。そして、ザクセンが王位を狙うことになったのか。
「……話して。ミネイ」
「長くなりますわよ」
「晩ご飯、いらないから。今すぐ聞かせて」
城に戻ってきてから嫌に食い意地が張るようになった姫様の言葉に、ミネイは少し目を丸くしたあと……小さく微笑んだ。




