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城が寝静まった深夜。
王国軍司令官、ザクセン・ヒュークの私室にはまだ明かりが灯っていた。
明かりが照らし出すのは、ザクセンだけではなかった。共同生活をしているベルと、アトラも共にいる。ランプの暖かく穏やかな光とは裏腹に、彼らの部屋には本棚の隙間から窓枠まで、隙間なくみっしりとした沈黙が詰まっていた。
ベルの<盟約の詩>の暗唱を聞いたことにより、出来た沈黙だった。
「……てんでダメだ」
ザクセンの言葉に、室内の緊張の糸がブツリと途切れた。
「もー、参冠式のときはこれを読めばいいんじゃないかな」
「<盟約の詩>は、両方の手の平を参列者に向けて述べるんだ。更に目を閉じて、天を仰ぐ必要がある。参列者……国民と、天にいるグロスクロイツの王たちに誓うものだからな。そのあとに王位継承者が祈りの血の酒を飲んで、儀式は終わる。読むことは不可能だ」
「私、お酒嫌いなんだけど」
「うるせえ頑張れ」
「頑張ってどうにもならないでしょ!ともかく、誌のことは何か考えてくれない?<盟約の詩>を覚えてなくてもなんとかなるような方法をぉう痛い痛い痛い!」
ザクセンは、無表情でベルの耳を引っ張り上げた。
「俺の言っていることが何ひとつテメェに届いていねえようなんだが、耳が塞がってるのかもしれねえな。ここから棒を突っ込んで、きちんと穴が開いてるか確かめるか」
「ぎゃーっ!怖いこと言わないでよ!」
ベルとザクセンのやりとりを見て、なぜかアトラはくすくすと微笑んでいた。
「なに笑ってんのよお、アトラ!助けてよ!」
「な、なんだか、む、昔に戻った、みたいで。こうやって、三人でよく……」
アトラの言葉に、ザクセンがぱっと手を離した。
「やめろ。昔のことは忘れろと言っただろ」
「す、すみません」
ザクセンは、アトラに対し声を荒らげるようなことはしなかった。だが、アトラはザクセンが求めた以上に反省をしているようにベルには見えた。
「……どんな手を使ってでも、こいつに<盟約の詩>を覚えさせる。猶予はもうない。王墓参りから五十日の期限が迫ってきている」
ザクセンはぐっと拳を握りしめた。
「明日の<彼は誰時会議>で、参冠式を正式決定させる」
グロスクロイツ城には、朝からいくつもの馬車がやってきた。
国内の貴族、権力者たちが、続々と城に集まってきている。誰もが、一人で国をひとつ支えられるような財力と権力を持っている。彼らは皆、<彼は誰時会議>に出席するためにやってきた。
彼らが向かうのは、グロスクロイツ最上階にある円卓の間。
上座も下座もなく、入室する順番も問わない。円形の卓に全員が着席し、平等な一票を持って、グロスクロイツの国民として意志を投じるのだ。
「<彼は誰時会議>は、グロスクロイツの建国当時に発足した組織だ。国内の有力者で構成され、国に関わる重要な議題を決定する際に招集される。この会議の場では、王の意志ですらただの一票となる」
円卓の間に通じるギャラリーで、ザクセンは言った。横を歩くベルも、正装に身を包んでいる。
「その”かわだれとき”っていうのは何なの?」
「彼は誰時っていうのは、夜明けの薄暗い時間を指す。”彼は誰だ”と尋ねなければわからないぐらい、顔が見えない暗い時間。会議に集まった誰でも――王であろうと、誰であろうと、好きなように意見を述べても構わない、顔が見えずとも、純粋に意志だけを問ういう意味の会議だ。まあ、デリベラートが台頭してきてからは、形骸化した会議だがな……」
ギャラリーには、これまでの王族たちの肖像画、<極夜戦争>を始めとして、グロスクロイツの歴史的な場面を描いた絵が多数飾られていた。
その中には、ユビルス姫もいる。いずれ、彼女もここに戴冠した絵が飾られるはずだったのだろう。
「今日の<彼は誰時会議>は、ユビルスを王にすることを決めるものだ。引いては、参冠式と戴冠式の日程が正式に決まることになる」
頭の悪いベルでも、ザクセンが緊張をしていることは伝わってきた。彼にとって、ベルを参冠式に出すことが当初の目的だったのだから。
ベルの顔に、不安の色が浮かぶ。ただそれは、<彼は誰時会議>に対するものでも、参冠式に対するものではなかった。
あんた、大丈夫?――その一言が、ザクセンに言えなかった。
<彼は誰時会議>は、正午十二時の鐘をもって開会を宣言された。
一年に一度だけ行われるこの会議では、グロスクロイツに関わる様々なことが決定されるが、今日決めなければならないのはユビルス姫の戴冠についてだと誰もがわかっていた。
「先代王が崩御されてから、グロスクロイツは長く王を失っていた。ユビルス姫はとうに戴冠可能な十八を過ぎ、王墓参りも終えられております」
王墓参りは、死んだ王たちに祈りを捧げる三日間のことだ。時期や条件が細かく定められており、一生のうちでできる回数も限られている。その後五十日以内に参冠式と戴冠式を行い、即位しなければならない。
ユビルスが消えたのは、この王墓参りの後だった。ユビルスが参冠式を行う条件は整っていた。
「今すぐに、ユビルス姫にご即位を。それがこの国の未来を切り開いていきます」
「我々といたしましても、ユビルス姫の即位を心より願っております。異論はありません」
ザクセンを援護したのは、ウィニタリウス公爵だった。自らも歴史のある公爵たち貴族側は、グロスクロイツ王族の血脈を重んじ、反対意見は出てこない。
公爵家当主として立場のあるミネイも、出席している。彼女は無表情で会議の行方に耳を傾けている。
問題はデリベラート派といわれ財を成すことで権力を得てきた新興権力者たちだ。近隣国への干渉を良しとしない保守派の王族派よりも、各国へ手を広げていこうというデリベラートが王になることを望んでいる。
デリベラートは、余裕の表情を浮かべていた。ベルやザクセンが彼とまともに顔をつきあわせるのは、あの晩餐会以来だった。
新興権力者たちは、皆デリベラートの発言を待っていた。ユビルス姫の体の虚弱さや、長くこの国の実権を握ってきたのは彼であること。権力者たちは知らないが、デリベラートはユビルスが記憶喪失であることも知っている。ザクセンの発言に対する反対意見は、いくらでも出てくる。
だが、デリベラートは薄く微笑んだ。
「……よろしいでしょう。ユビルス女王の誕生を、私も心待ちにしておりました」
デリベラートの発言に、円卓の間にどよめきが起こった。新興権力者たちは当然のことながら、王族派やザクセンもデリベラートの答えに一瞬動揺した。
「誓いのために、祈りの血の酒を用意するのは大臣の務め。名誉ある役目を賜り、新たなる王の誕生に立ち会える喜びは何物にも勝る。――ユビルス姫」
デリベラートは、ベルを見つめた。「私どものため、女王となりグロスクロイツを導いて下さいませ」
円卓の間は、ベルの返事を待っていた。
ベルは、ザクセンをちらりと見る。本当に、このままデリベラートの言う通りに従ってもいいのか。ベルにもわかるほどの違和感があった。
ザクセンも、デリベラートの真意が汲めていない。だが、この機会を逃すわけにはいかない。やがて彼は、剣の柄に触れた。
あっさりと<彼は誰時会議>は終了した。夕方になり、会議の参加者は皆城を後にする。
円卓の間からその光景を見守るザクセンの顔は、やはり晴れなかった。あのデリベラートがユビルスの即位を後押ししたことが、気がかりでならなかった。
「……よかったじゃん!私を参冠式に出すのが、あんたの目的だったんだから」
思い悩むザクセンに向かって、ベルは極力明るく声をかける。
「参冠式さえ終われば、私もこんな窮屈な生活から抜け出せるのかな?あんただって、私みたいな面倒くさい女に付き合わなくてよくなるんだし。参冠式のあと、私をどうするつもりかは知らないけど、まあ、もしよかったらこれまでのことに免じて斬首だけは勘弁してもらえると有り難いな」
ベルが話しかけても、ザクセンは何の反応もしなかった。これまでは、うるせえだの黙れだの、態度は悪くとも反応はあったのに。
「……参冠式は決まった。あとは、お前が<盟約の詩>を覚えるだけだ」
ザクセンはベルの目を見ようとしなかった。ザクセンがようやく口を開いても、それはベルへの答えではなく、独り言のようだった。
「どうしちゃったの?ザクセン」
「デリベラートがまだ何か仕掛けてくるかもしれねえ。城内をうろうろするな。これまで通り兵舎にいろ」
「そりゃ、わかってるけどさ」
「……これで、俺の計画は終わる」
話がまったくかみ合わない。
ベルはザクセンに連れられて、兵舎に戻った。その間、ベルが何を話してもザクセンは上の空だった。ザクセンの部屋に戻って、<盟約の詩>を復習するように言っただけで、部屋を出ていった。
そして、その日からザクセンはベルの前に現れなくなった。




