5
「す、す、すみません。ちょ、ちょうどノックしようとしたら、ぼ、僕の名前が出てきて、た、立ち聞きみたいなことを……」
「まあまあ、聞く手間が省けたよ。で、アトラはミネイのこと好きなんだね?」
熱した金属のように真っ赤になっていたアトラは、赤さを通り越して黒く見える。
「このままじゃアトラから火が出るかも。マシュマロ置いたら焼けるかな?」
「アトラで遊ぶんじゃねえ」
アトラはベルとザクセンに囲まれて、部屋の椅子で体を縮こまらせている。
「……み、ません」
ようやく喋ったかと思いきや、アトラは震える声で呟いた。
「すみません……べ、ベルさん、の、命を狙う人……あ、あの人は敵なのに……ぼ、ぼく」
気の毒なくらい詫びるアトラの顔を見ていると、ベルの胸に初めて罪悪感が湧いてきた。彼の気持ちを、こんな形で暴くつもりはまったくなかった。
「……アトラ」
アトラの謝罪に、ザクセンはアトラの前に膝をついた。そして、ぎゅっと目を閉じているアトラの肩に、そっと手を置く。それから、力が抜けるように軽く叩いてやる。
「謝ることねえだろう。俺は嬉しいぜ。てっきり俺は、このままお前が犬と結婚するんじゃねえかって思っていたからな」
「ザクセン様……」
「そうだよ。恋ってさ、いいもんだよー。ねえ、ザクセン」
「下心しかないテメェに言われてもな」
「……ああっ、そうだ!」
ベルは胸の前でパンと手を合わせた。「ねえ、私たちでアトラの恋を応援してあげようよ!」
「ええっ、そ、そんな!」
「ミネイと恋人同士にしたら、ミネイは私たちの味方になるんじゃない?そしたら、私もこんな生活続けなくてよくなるし」
アトラが慌てたのは、ベルがそんなことにうつつを抜かしている時間はないからだ。人の恋路を応援している暇があるなら<盟約の詩>を覚えろとザクセンが言うのは目に見えている。
「おいテメェ……」
ザクセンの眉間に、深い皺が生まれる。ベルさんが殺される――そう思っても、アトラは恐怖のあまり壁に縫い付けられたかのように動くことができなかった。
しかし、ザクセンの言葉は意外なものだった。
「たまには、いいこと言うじゃねえか」
「へっ?ざ、ザクセン、様?」
「でっしょー?でさ、作戦があるんだけど……」
怯えるアトラをよそに、二人はこそこそと密談を始めるのだった。
アトラは、ベルがこの城に来て、初めて二人が仲良くしているところを見た。
グロスクロイツ王国の首都は、全世界でも一番の大きな町だ。
恵まれた水源と肥沃な土地に周囲を囲まれ、食糧も豊富に生産されている。首都の中は水路や区画も整理されているために清潔だ。政治的にも文化的にも世界の中心といっても過言ではない大都市。
そのため、各国から不法入国をしようとする者が後を絶たない。それを含め都の治安を維持しているのが、ザクセン率いる王国軍。
そして、王国軍の統率力、能力もさることながら、この都市の治安を保っているのは人々の良心によるところが大きい。グロスクロイツ首都に住む人々は<極夜戦争>で世界を救った戦士の子孫である王族を大事にしている。王族を尊ぶ気持ちが、首都を守る何よりの盾だという自負もある。
更に、幼少期に母である女王を、先代王である父を数年前に亡くしたユビルス姫は、国民から大事にされてきていた。幼い頃から父母と共に国のために活動を続けてきたユビルス姫。一国の王女でありながら、ある者にとっては彼女は母であり、ある者にとっては娘のようである、グロスクロイツの希望のような存在だった。
だからまさか、そんな王国軍の司令官と、希望のユビルス姫が城下町を若者らしい格好をして歩いているなんて誰も想像もつかないのだ。
「どう?ミネイとアトラ」
「店に入ったまま出てこねえよ」
アトラにはミネイとの仲を進展させるという今回の目的を伝えてあるが、ミネイにはただのお使いとしか知らせていない。ザクセンと二人きりになりたいのだと言ったら、ミネイは喜んで外出してくれた。今、二人はベルが頼んだ品を買いに商店に入っている。
「俺たちがわざわざ見張りに来る意味あんのかよ。覗きみてえで趣味悪いぜ」
「だって、私たちが見てると思わなくちゃアトラが頑張らないでしょ。ただお使いして終わりになっちゃうわ」
ザクセンは疲れたように溜息をついた。
「あっ、出てきたわよ!」
ミネイとアトラが並んで出てきた。買い物袋は、ミネイが抱えている。
「アトラ、教えたでしょ……!女が荷物を持っていたら、男が代わってあげるのよ!」
路地から隠れて二人を見守っているベルの祈りが通じたのか、アトラがミネイの荷物を持つことを申し出たようだ。ミネイは固辞したが、アトラも食い下がる。やがて、ミネイはアトラに荷物を差し出した。
「やるじゃねえか、あいつ」
「頑張ってるじゃない!」
だが、荷物の入った袋を受け取ったアトラは、その場から動けなくなってしまった。よろよろと上半身を揺らし、しまいには荷物を地面に置いてしまう。それからは、いくらアトラが持ち上げようとしても荷物はぴくりとも動かなかった。
「……テメェ、あれ何買わせた?」
「え?ええと、棒砂糖に、角砂糖。蜂蜜、花蜜それぞれ3種類を袋で……」
「重すぎだ!つーか買いすぎだ!甘いモン食うならもう少しこそこそやれ!」
「だってえ!重いものを持つところを見せたほうが、ミネイもアトラにときめくかなって!そもそも、アトラがあんなにひ弱だなんて……」
結局、荷物は再びミネイが運ぶことになった。ミネイが持つと、あんなに重い荷物も服を運んでいるかのように軽やかだ。
「おい、見失う。追うぞ」
「了解!」
今度は二人の後ろに近づき、何を話しているのかを確認することになる。
今回はおつかいのため、必然的に移動時間が長くなる。つまり、その時間をどう過ごすのかが重要であるとベルはアトラに説いた。女と歩くのなら、会話は男のほうから提供すべき。疑問系で終わらせたほうが会話が相手も答えやすい。女からも話してくれたら、その話題を広げるように心がけるべき――。
ミネイの性格上、自分から無意味な雑談をするとは思えない。現に、尾行を初めてから二人の間には、業務的な会話以外は発生していない。
二人の背後にいるベルとザクセンは、そんな二人を焦れったく監視していた。
「み、ミネイ様……」
ようやくアトラが口を開いたことで、ベルとザクセンが色めきだつ。
「……い、犬って好きですか」
「犬、でございますか。とても可愛いと思いますよ」
「そう、ですか。ど、どんな犬が、す、好きですか」
「え?……まあ、ある程度大きくて、足の早いのがよろしいと思います」
「ど、どんな色がいいですか」
「色……ですか。白っぽいのが素敵ですね」
「し、白が好き、なん、なんですか?」
「まあ、好きと言われれば……」
「ぼ、僕も白い犬、い、いいと思います」
犬の話に始まり、犬の話に終わる。アトラの会話はベルに言われたことを実践しているものの、全部が犬に絡む話題だ。ベルは頭が痛くなってきた。
「もう、アトラってば。犬の話ばっかり……」
異性との気の利いた会話など、アトラにわかるはずもない。話題についても教えておくべきだった。今更反省しても遅い。
そこで、ミネイとアトラの前に二人組の男が立ちはだかった。ミネイよりも頭ひとつぶん背が高く、アトラと比べると大人と子供のような体格差だ。
「よう、姉ちゃん。俺らに付き合ってくんねえか?」
「こんな美人、なかなか見ねえぜ」
ザクセンとベルは、近くの建物の影にさっと隠れた。
「来た来た!またとないチャンスよ!女と歩いているところを、ナンパされる!男の強さを見せる絶好の展開じゃない!」
「チャンスか?これ」
「だってアトラ、あれでも軍人よ!あんな連中ぱっと手をひねりあげて、さっとミネイの前に立って『やめろ!』って――」
「ぎゃああっ!」
聞こえてきたのは、男の悲鳴だった。ミネイの肩に触れようとした男の手を、ミネイが片手でひねり上げていたのだ。
「なんだ、こいつ!喧嘩売ってんのか!」
更に襲いかかってくるもう一人も、ミネイは足で払いのけた。まるで塵でも払うように、
大の男がひっくり返ってしまう。
「急いでおりますの。やめてくださいます?」
ミネイはアトラの前に立ち、男たちに毅然と言い放った。かっこいい……とアトラは彼女を見上げた。
次のお使いは、ザクセンの鎧の一部を修理に出すことだった。難しい金具が必要で、城内では直すことができなかったのだ。
装具店の外でベンチに座り、金具の完成を待つミネイとアトラの間に、会話はない。もう一人か二人座れそうなスペースを空けて座る二人は、他人にしか見えない。道路を挟んだ店の前では老婆が椅子でうたた寝をしており、近くで猫がケンカをしている。どう見てもロマンチックな雰囲気ではない。その様子を、ベルとザクセンは退屈そうに見守っていた。
「はあ~。これじゃ、ミネイがアトラに惚れる要素なんてないよ」
「ハナから無理に決まってんだろ、そんなの。さっさとデリベラートのことを聞きゃいいんだ。あの女は貴重な情報源で、デリベラートの癌だぞ」
「まっ!まさかあんたそのためにアトラの恋心を利用したの!?」
さすがにアトラのためなら厚意で動くのかと少しだけ感心していたベルは、自分を殴ってやりたい気持ちになった。やっぱりこの男は、損得勘定でしか動かない冷血漢なのだ。
「利用とは人聞きが悪ぃじゃねえか。恋なんか叶わなきゃ苦しくて、叶ったところで守る人間が増えだけの重荷でしかない。アトラも、そいつがわかれば目が覚める。恋なんざしねえほうがマシだってな」
「そういう計算ができないのが、恋なのよ。あ、もしかしてそれって自分の話?天下のザクセン様は繊細な心をお持ちですこと!傷つくのが怖いから恋しないんだ~」
「好きで傷つく奴なんかいるのかよ」
そうじゃねえ、と言われると思っていたのに、ザクセンは否定しなかった。それが、ベルにとっては驚きだった。面食らってしまったベルは、返答をするタイミングを逃してしまった。
「……ん?」
ふと顔を上げると、先程は誰もいなかった場所に移動式の露店が出ていた。
「おもちゃ屋だー!ねえ、ザクセン見てよ」
近所の子供たちが、露店に群がる。ベルも子供と一緒になって露店に向かう。
「おい、監視はどうした」ザクセンも、仕方ないといった風に後ろからついてきた。
「いいでしょ別に。金具が出来上がるまで時間がかかるなら、二人は動かないだろうし」
露店には、安いお菓子や木の細工おもちゃ、カードなどが売られていた。女の子が喜びそうなおもちゃの宝石も並んでいる。
「ニセモノなのに、よくできてるね。子供のおもちゃってすごい。この宝石って、ガラス?」
「テメェは今、本物の宝石に囲まれて暮らしてるじゃねえか」
「これ、すごく可愛い!買って。私お金持ってない」ベルは大きな赤いガラスがついた指輪を、中指にはめた。
「何でだよ」
「買ってやりなよ、兄ちゃん。恋人が欲しがってんだから」露店の店主が「いい身なりしてるし、大した買い物じゃねえだろ?」
「別にこの女は恋人じゃねえ」
「あのう……」
そこへ、二人組の女性がやってきた。
ザクセンは、腕組みをしたまま警戒した様子で彼女たちを振り向く。その様子を見ていたベルは、彼女たちが叩っ切られるのではないかと、思わずザクセンの腰の剣に目をやった。ザクセンは、彼女たちを睨み付けたまま口を開き……。
「俺はザクセン・ヒュークだ」
「え?」女性二人はきょとんとザクセンを見上げる。
「知らない人間に話しかけるなら、まずはテメェらも名乗れ」
「あっ、は、はい!えっと、私は……」
相変わらず、ずれてる男ね……とベルは思った。自己紹介を行う娘たちだったが、女に興味はないので、ベルは他の指輪も品定めしはじめた。
「それで……あの、もしよかったら私たちと街を歩きませんか?」
え、ナンパだったの。どうでもよかったベルもさすがに聞き耳を立てた。
「恋人と一緒なのかなって思ったんですけど、さっき、違うって聞こえたから……」
「――ん!?」
話を聞いていた露店の店主が、突然声をあげた。
「あんたザクセンって……そうだ、ザクセン・ヒュークって王国軍の司令官だろ!?」
「えっ、しれい……かん?」
「姉ちゃんたち、名前聞いて気づかなかったか?新聞も読まねえのかよ!この人はな」
「人違いでしょう。こちらは代金」
店主に金貨を渡し、ベルがはめたままの指輪をそのまま購入する。
「えっ、ちょっとザクセン!」
ザクセンはベルの手を引き、露店の前から逃走した。
ある程度街を走り、二人は路地裏に逃げ込んだ。
「なにバカ正直に名乗ってんのよ……!」
「知らない奴と話すときの、当然の礼儀だろうが」
ザクセンはさすが軍人というべきか、走ったあとだというのに呼吸がほとんど乱れていない。一方ベルは息も絶え絶えで、涼しげなザクセンを憎々しく見上げる。
「さっきの女ども、一体何がしたかったんだ」
「あんた、女に声かけられたことないんだね」と、ベルは呆れ果てた。
「ああ、娼婦ってことか。最近の娼婦は普通の娘と区別がつかねえな」
「違うよバカ。あんたが格好いいから、声をかけてきたんでしょ。あの子たちはあんたのことが好きだったってこと」
ベルの変装は言わずもがなだが、ザクセンもまた軍人であることが知られないよう、普通の服に身を包んでいる。
そうすると、確かにザクセンが常に纏う殺気は和らいでいた。普段着のようにつけている鎧が無いだけで、ずいぶん雰囲気が変わって見える。あの鎧には、彼の戦いの歴史や、人生や、さまざまな決意が染みこんでいるのかもしれない。
「ユビルスと娼婦以外の女に、仕事じゃねえ用件で会話したことがねえ」
「あんたどういう生活送ってきたのよ……まさか生まれたときから城にいるわけでもあるまいし」
「いたんだよ。赤子のときに城の近くに捨てられてたんだ」
「えっ!あはは!まさか鎧もつけてたとか言わないよね?私、あんたを見て常々鎧姿で生まれてきたんじゃって思ってたんだけど」
ベルの反応を見て、ザクセンが見たこともないくらい驚いていた。それを見て、更にベルの笑い声も止まった。
「この話をして、笑った奴はテメェが初めてだ」
「え?」
「どういう人生を歩んできたんだろうな、テメェは。聞けたら面白えだろうな」
その言葉に、ベルを馬鹿にするような響きはなかった。ベルが笑ったことに傷ついているわけでもない。
ただ、なぜか彼から初めて寂しさのようなものを感じた。それは、ザクセン本人も無意識だったのだろう。だから、常にベルに対し感情を見せようとしなかったベルにも、感じ取れてしまった。
そして、似たような違和感を最近も抱いた気がした。
でも、それを聞くほどの勇気がベルになかった。どうして勇気がいるのかも、彼女にはわからなかった。
「……あ。あのさ、ザクセン。これ、ありがと」
ベルは、あのおもちゃの指輪をはめたままだった。騒ぎを避けるためだったとはいえ、結果的に買ってもらったことになる。
「偽物の姫様に、偽物の指輪か。おもしれえな」
ザクセンが笑っているところを見るのは、晩餐会の後の時に以来、二度目だ。数えきれるほどしか笑わないなんて、どうかしている男だ。
「そろそろ装具屋に戻るか」
ザクセンに連れられて、アトラとミネイが待っているはずの装具屋まで戻る。
しかし、そこに二人の姿はなかった。
アトラとミネイは、川岸にやってきていた。
装具店から金具が返ってくると、ミネイがついてきて下さいと言って歩き出したのだ。
ザクセンとベルの気配が消えていたアトラは焦ったが、ミネイを止める言葉など浮かぶはずもない。結局、ミネイの言うままに歩いてきて、辿り着いたのがここだった。
装具店、鍛冶屋などが並ぶ職人街には、山の雪解け水が川になって引き込まれている。澄んだ水面に、夕方になろうとしている午後の太陽が反射していた。
「み、ミネイ様……ば、馬車停はあっち……」
「……姫様とザクセン様、お二人で街をお歩きになって、お楽しまれておいででしょうか」
ミネイの言葉に、アトラは顔を上げた。
「……き、気づいてた、んですね」
「当然ですわ。ザクセン様はともかく、姫様はあれでお隠れになっているおつもりだったのでしょうか」
ミネイは二人の様子を思い出して、くすくすと笑った。
その微笑みは、何の他意もない温かい微笑みだった。ただ、どこか憂いを感じるのは、彼女が叶わない恋をしているからなのだろう。
アトラは、なぜ彼女を見ると胸が締め付けられるように苦しくなるのかわからない。彼女が美しいからかもしれないし、心配だからかもしれない。
ただ、アトラは彼女を見ていると、自分を見ているようで辛くなる。誰にも愛されず、捨てられて、犬として育てられた自分。
アトラは、資産家の妾の子だった。妾が死んだことで資産家に引き取られたが、夫人にも、腹違いの兄弟たちにも疎まれ、物心ついた頃から庭の犬小屋で育てられていた。誰かに抱きしめられたこともなく、声をかけられたこともない。
ザクセンに救われるまで、アトラは自分が人間であることも知らなかった。それと同じように、ミネイは自分が人間であることを忘れてしまっている。
「きっと、私とアトラ様を追いかける名目で、お二人で城下を歩かれたかったのでしょうね。お城では、他の者の目がありますから……仲がよろしくて、わたくし嬉しゅうございます。ねえ、アトラ様……」
ミネイが顔を上げると、アトラが頬を赤く染めていた。
それは、今日一日落ち着きのなかったアトラの姿ではなかった。
「……ち、違うんです」
「はい?」
「今日は、僕……が、ミネイ様と一緒にいたくて……そ、れに、お二人が協力をして、下さって……」
「……」
ミネイは、髪をかきあげながら、「そうでございますか」と小さく呟いた。無表情な彼女の横顔には微かな戸惑いがあった。でも、それは本人にも知り得ないことだった。
「……わたくし、愛する方がいるのです。おわかりのはずでしょう?」
「わかっ……てます。別に、あの方を諦めて、僕と……とか、そういうことじゃなくて」
アトラの口調から、ゆっくりとではあるがつかえが取れていく。
人間としてそれを聞いたのは、ミネイが初めてだった。でも、二人ともそれを知らない。
「僕はミネイ様の近くに、いたかっただけなんです」
アトラは、真っ直ぐにミネイを見ていた。
ミネイは目を反らさなかった。女なら誰でも心を射貫かれてしまうような言葉なのに。ミネイの心には、彼の真っ直ぐな言葉が届かないほど厚い覆いがあった。
「……お聞きになっているかもしれませんけれど。七年前に家を焼かれ、家族を殺され……使用人たちは皆財産を持って逃げ、後見人には騙されました。親類には見捨てられ、顔を知っている従業員たちは皆、同業の他社へ、スレイヒライン家の技術を売り飛ばしました。……わたくしは、ひとりぼっちでした。公爵家の身分以外は何も持たない、ただの無知な娘でした」
そこを助けてくれたのが、デリベラートだった。「わたくしを助けてくださったあの方が、どれだけ私の心の支えとなったか、想像できますでしょう?わたくしはあの方がいなければ、ここにいない。だから、あの方のために生きているのです」
ミネイは、アトラの手をそっと取った。人に触れられることになれていないアトラは、びくりと肩を揺らす。
「アトラ様……わたくしはあの方を裏切ることはできません。時間の無駄ですわ。ですから……これ以上わたくしに関わらないで」
「ちっ……違います!僕はけして、そんなつもりでミネイ様に近づいたわけじゃ」
「お願いです。アトラ様は姫様のため、あの方の情報を得ようとわたくしに近づいた。そうでしょう?そうだと言ってくださいませ」
アトラの手を掴むミネイの手が、震えている。ミネイは、お願いです、と何度も繰り返した。悲痛な訴えに、アトラは唇を動かすことができない。
「……アトラ様のお気持ちを聞いても、わたくしの心は頑なに動かないのです。わたくしは、もう壊れているのですわ。このような者のために、アトラ様の綺麗なお心を穢したくないのです」
「ミネイ様……」
「あの方は、わたくしに何も命じておりません。わたくしは……ただの狂った女です」
帰りましょう、とミネイは言った。その目に涙が光っているような気がしたが、ミネイはもう、アトラと目を合わせてはくれなかった。
アトラとミネイが城に戻ってきたのは、日が暮れてからのことだった。
ミネイは荷物の片付けにやって、ザクセンとベルはアトラを囲んだ。
「ねえねえ、どうだった?うまくいった?二人でこんな時間までいなくなっちゃってさあ!やるじゃない!」
「デリベラートとミネイの関係について、情報は掴んだか?」
目を輝かせながら問い詰める二人に対し、アトラは「すみません……」と呟いた。ベルとザクセンは、同時にどっと溜息をついた。
「あー、やっぱダメだったかー。ミネイが相手だもんね」
「まあ、そりゃそうだな。仕方ねえよ。相手はあのデリベラートだ。テメェにしては頑張った」
「ちょっとお!アトラの恋心の話をしてるんですけど!」ベルはザクセンに噛みついた。「ねえ、アトラも晩ご飯一緒に食べようよ!二人きりになってからどんな話したのか、教えてよ」
ベルの言葉に、アトラは今日の出来事を思い出した。
「す、すみません……ずっと、無言だった、ので、な、なにも話すことが……」
「えー、そうだったの?残念だな」
「ぼ、僕……犬小屋に行きます。きょ、今日は一日、い、犬たちと離れていたので」
アトラは、犬小屋のほうに向かって駆け出した。
彼がザクセンに対して、隠し事をしたのはこれが初めてだった。
これからも、今日の出来事は誰にも話すことはないだろう。永遠に、アトラの胸に留めておく記憶になるだろう。ミネイへのささやかな恋心で蓋をして、心の奥底へひっそりと隠しておくだろう。
彼女が、それを望んでいるのだから。




