4
兵舎での生活が始まって、数日が経った。
厩舎や犬小屋のあたりは、兵舎の中でも日当たりが良い。城の東門に最も近いところに位置しているのは、有事の際にすぐに馬を出せることと、城壁外の平原に近いからだ。時間があるときは平原に馬を放ち、運動させることもできる。
今は放牧の時間で、厩舎を担当している兵士たちは出払っていた。残っているのは犬小屋担当のアトラと、そこへ遊びにきたユビルスだけだ。
「この子がフランチェスカ、隣がロレイナで、こっちがジュノ。で、あんたがダノーノよね~」
ベルは一匹ずつ犬を抱き上げて、それぞれの名前を呼んだ。
「すごいですね、ベルさん。も、もうみんなの名前を、お、覚えたんですね。へ、兵士はか、数が多すぎてわからないって……」
アトラが担当しているのは、支援部隊という名の、犬が所属する部隊だった。騎馬隊の厩舎の隣に、彼ら支援部隊の犬小屋がある。
犬の鼻や耳の良さを利用して、人間にはできない調査や活動をする。先日の晩餐会では、彼らは料理の毒味や、不審物の探索をしていた。
「まあねー。ちょっとした特技みたいなものよ。お前はネフレスカだね~立派な名前じゃんか~。うりゃうりゃ」
真っ黒な立て耳の犬の顔を、がしがしと撫でる。「これだけ数がいるのに、みんないい名前もらってんのね」
「そ、それはザクセン様の、お、お仕事なんです。そ、それに、この子たちに名前がつくっていうのは、い、一人前になった、あ、証で」
「一人前?」
「も、元々、ユビルス姫が城内に迷いこんだ犬を保護して、この部隊ができたんです。ざ、ザクセン様と、僕で、訓練をつけて。で、でもそのときはまだ一号とか、二号とか呼べって、ザクセン様が」
「え?なんで?名前覚えられないから?」
「そ、そうじゃない、です。ま、迷いこんでくる時点で病気や、か、体が小さい子も、お、多くて。そ、そういう子は、あ、あんまり長生きできない、から。名前をつけると、じょ、情が湧くって……」
「はっはー。なにそれ。悲しくなるから、深入りしないってこと?あいつ案外気が弱いのね。今度からかってやろうっと」
一国の軍司令官らしからぬ思想を、ベルは鼻で笑った。
「ざ、ザクセン様とのせ、生活はいかがですか」
「もう最悪」機嫌よく犬を撫でていたベルが、ぎっと目をひん剥いた。
ザクセンと同室で生活をするようになってからというもの、ベルは毎夜<盟約の詩>を朗読させられ、決められたところまでできないと眠らせてもらえなかった。
食事もザクセンと共に取っているために、食べた気がせず、「バランス良く食べろ」と野菜を中心に食べることを強要される。最も憂鬱なのはお茶の時間だ。ミネイが運んできてくれるものの、当然<盟約の詩>を覚えていないベルは食べさせてもらえない。そうすると、「食べ物は粗末にすんな」とザクセンが目の前で食べるのだ。
「た、大変ですね……」
「本当よ!毎晩毎晩、夜中まで寝かせてくれないの!片時も私から目を離さないし、あれをしろこれをしろってうるさくて。もう少し優しくできないのかしら、こんなのはじめてよ!」
「あらあら……お熱いですこと」
満面の笑みを浮かべたミネイが、そこに立っていた。
「ザクセン様との生活、順調なようで安心いたしましたわ」
「う、うふふ……ほ、本当ね。ミネイのおかげよ……」ベルは力無く答えた。恋人扱いに慣れることと、納得することは全く違う。
「でも姫様。将来の伴侶となるお方のお言いつけを守らず、こんなところでお無駄に時間を過ごしてはいけませんよ。お勉強をなさるのでしょう?」
「ミネイまであいつみたいなこと言わないでよー」
「そうは仰いましても……わたくしも、姫様から目を離してはいけないとお命令を受けてるのですから。……ふふっ」
「え、なに?」突然笑い出したミネイに、ベルは首を傾げた。
「大丈夫ですよ、姫様。お勉強なんて、お口実。こんな男だらけの兵舎に姫様をひとりにすることが、お心配でたまらないのですわ。姫様が他の殿方にお目移りしないよう、わたくしで見張らせているのです」
まったく違う。と、言いたいが、言えない。ベルは引きつった笑みを浮かべた。
ザクセンは用事があるとかで、城内に行っている。せめてミネイがいなくなれば自由な時間はまだ続くはずだ。
そこまで考えてベルは、ミネイをも動かすことのできるあの存在を思い出した。
「……でも、ミネイだって私ばかり見張っていたんじゃ、寂しいんじゃない?お城に行ってもいいんだよ。あの方に会いに」
デリベラートの話は、ミネイにとって諸刃の剣だ。いちおう、周囲にミネイの武器になりそうなものがないことを確認してから発言する。
ミネイは軽く俯いた。自分の武器を探した方が良いかと内心焦るベルだったが、ミネイは怒ったのではなく、悲しみをこらえていたのだった。
「姫様のお心遣いは有り難いのですけど……あの方はわたくしにとって、風の無い日の湖面のような、澄んだ存在。わたくしのような者が近づいて、その美しさを乱したくないのです」
「え……でも、好きな人なんだよね?近づきたいとか、触りたいとか、思わないの?両思いになりたいとか」
ミネイは首を振った。
「そんなこと、願うだけでもとんでもないことです。わたくしは……こうやってあの方の存在を感じられるだけで、幸せです」
「ミネイ……」
ミネイの言葉を聞いて、ベルは何と言えばいいのかわからなかった。
彼女は利用されるためだけに、この城に連れ戻されたのに。何か起これば、ミネイを庇ってくれさえしない。それどころか、殺されるかもしれない。女に興味はないけれど、ベルは男と恋愛が好きだ。だから、ミネイの思いは、割に合わないことはわかる。
けれど、おそらくミネイは、それも幸せと感じてしまうのだろう。
「み、ミネイ様」
珍しく、アトラが口を開いた。
「そ、そんなの。ミネイ様が、か、かわいそうです」
勇気を振り絞ったとでもいうようなアトラの発言に、ミネイは薄く微笑んだ。「それは、わたくしが決めることですわ」
ザクセンが戻ってくると私室に連れ戻されて、再び<盟約の詩>の特訓が始まった。
<盟約の詩>を覚えるためのザクセン特製メモに視線を落としたまま、ベルはテーブルで頭を抱えていた。
「さっきから、うんうん唸ってばかりで何も進んでねえじゃねーか。便所ならさっさと行け」
「なんかさなんかさ……おかしくない?ミネイ」
「何がだよ」紅茶をすすりながら、ザクセンは面倒そうに答える。
「何の見返りもなく、あそこまで人を好きになれるものかな?確かにデリベラートは美形だけど、あんな性格でしょ?用済みになったら殺されるってわかっているのに……好きになるかなー。愛ってそういうことじゃないと思う」
「ハッ。テメェが愛の何を語るってんだ」
「あんたにも言われたくないけどね」
「ミネイは元々あの性格だ。デリベラートを妄信することで、自分が生きていると信じ込んでいる。まあ……理由にも思い当たることがある」
「理由?」
「スレイヒライン家は絹糸産業で財を成していた。だが七年ほど前に、商売で恨みを買って一族が全員殺された。生き残ったのは寄宿学校に行っていたミネイだけだった。あげく、スレイヒライン家の後見人は、たった十二歳のガキに負債を全て背負わせてトンズラした。誰もあの女を助けなかったんだ」
「もしかして、そこに救いの手をさしのべてくれたのが……デリベラート?」
「そういうことだ」
なるほどねえ、とベルは腕を組んだ。「その恩人になら、利用されても構わないってことなのかな。本当、ますますミネイが可哀想だわ。アトラの言う通りだよ。私、女には興味ないけど、男絡みで辛い思いしてるのは――」
「アトラ?何でアトラが出てくる」
「ああ、アトラがね、ミネイは可哀想だって言ったの。本人にね。ミネイは笑っただけだったけど」
「アトラが、そんなことを言ったのか……珍しいな。あいつが犬以外に関心を持つなんて」
ザクセンは、口元を手で覆って考え込んでいる。
確かに、アトラとは短い付き合いのベルでも、彼が直接あんなことを言うのは珍しいと感じた。アトラは人見知りが強く、思ったことを口にすることはほとんどない。まして、意見するようなことを言うところなど想像できない。
でも、ミネイにははっきりと「可哀想だ」と言ったのだ。意思を持って、アトラの気持ちを。あれはただの同情じゃない。
「……あのさ。私、わかっちゃったかもしれないんだけど」
「なんだ」
「アトラって、ミネイのこと好きなんじゃない?」
ガタゴトガラン、というもの凄い音が扉の近くから聞こえてきた。
剣に手をそえながら、ザクセンが部屋を出ていく。すると、廊下で鎧の一式をひっくり返して倒れているアトラがいた。顔は、真っ赤だった。




