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「きゃあああああああ!」
大きな悲鳴は、朝食室から自室に戻ろうと廊下を歩いていたベルのものだった。突然視界が真っ暗になって、彼女は腰を抜かして座り込む。
「こ、こらっ!ダノーノ!」
誰かがやってきて、ベルの顔に張り付く獣臭いなにかを引きはがした。
「す、すみません。ダノーノが逃げて……」
「へっ……」
ぎゅっとつぶっていた目をなんとか開いたベルの前には、小型犬を抱いたアトラがいた。小柄なアトラの手にもすっぽりとおさまるサイズのその犬は、一昔前の貴族たちのような立派な巻き毛をこしらえていて、可愛いというよりも滑稽だった。
「ユビルス姫のドレスを着てらしたから、ほ、本人だと思って、嬉しかったみたいで。お、驚かせてごめんなさい」
「べべべべつにびっくりしてないから、平気よ」
ユビルスはすっと立ち上がる。
立ち上がった彼女の胸元に、ダノーノがブローチのようにぶら下がっていた。
「ダノーノっ!ああっ、す、すみません。あ、あなたのことが気に入ったみたいで……こらっ、離れろって」
「ダノーノ、人違いだったけど、あなたのことも好きっていってます。すごく綺麗だって」
「あら。犬の言ってることがわかるのね」と、まんざらでもなく返事をする。
「い、いえ。僕……犬だからダノーノの言ってることわかるんです」
アトラがそう言うと、ベルはきょとんと彼を見つめた。アトラは、自分の言葉が失言だったと慌てる。
「へ、変なこといってすみません。い、今の忘れて……」
「まあ犬だからっていうのは、あんたどう見ても人間だから納得いかないよ。けど、本当に言ってることがわかるんだね。すごいじゃない」
今度は、アトラが目を丸くする番だった。
「……お、おかしいって言わないん、で、です、か」
「あんたが自分のこと犬っていうより、全然おかしくないでしょ。だってダノーノが言ってること――」
そこまで言って、ベルは口をつぐんだ。
「ど、どうかしま、した?」
「え!?ううん!なんでもない。ほら、ダノーノ!訓練中でしょ」
ダノーノは悲しげにくぅんと鳴くと、ベルから離れてアトラの手に戻った。「じゃあまたね私行くね」とベルは早口に言い、アトラに背を向けて立ち去ってしまった。
アトラはダノーノを抱きながら、廊下の角に消えるベルの背を見つめる。
ダノーノは彼女の言った通り、訓練中だった。ダノーノはこれでも愛玩用に飼われているのではなく、グロスクロイツ軍の軍用犬なのだ。鼻が利く犬種なので、城下街で事件や事故が起きた際にかり出される。
「あの人、ダノーノが軍用犬だっていつ知ったのかな……ザクセン様から聞いたのかな?」
一人になると、アトラの言葉のつかえは無くなる。けれど、その言葉を聞く者は近くにいなかった。
「アトラさん!大変です!」
そこへ、一人の兵士が駆けつけてきた。彼の登場に、アトラは顔をしかめた。
「こ、この匂い……」
彼のものではない。濃厚で、拭いようのない血の香りはアトラの鼻にも感じる。ダノーノはアトラの腕の中で唸り声を上げていた。
立ち去ったはずのベルも、足を止めて様子を窺っていた。それだけ、兵士の様子は尋常ではなかったのだ。
敷地内の森で、給仕係の死体が見つかったとガーデナーから報告があった。
既に兵士たちが集まり、司令官であるザクセンが指揮を取っている。
「姫様!このようなところに来てはなりません」
見張りをしていた兵士が、ざわついた。ザクセンが振り向くと、そこにはベルがアトラと共にやって来ていた。
「いい。もうほとんど終わったからな。ユビルス姫にお伺いしたいことがある。お前ら、ちょっと外してくれ」
ザクセンの命令に、周囲にいた兵士たちがその場をあとにした。
ベルは臆することなく、給仕係の死体に近づいた。身内の死体でも嫌なのが人間の常なのに、彼女は死体の顔を覗き込む。鋭利なナイフで、首を切られており、彼の寝ているあたりの草が血で黒く染まっていた。
「……この人、昨日私に給仕した人だ」
ザクセンは頷いた。「そうだな。殺されたらしい」
「ど、どうして……」アトラが腕のなかでダノーノを抱きしめる。
「ベルを……ユビルス姫を殺せなかったからだろう。ポケットに毒を持っていた。昨夜の晩餐会で仕込むつもりだったんだ。こいつをやったのは、間違いなくデリベラートだ」
「えっ!で、でも昨日確かに彼の、に、荷物はチェックしました。ひ、姫様の給仕係だから、ね、念入りに」
「晩餐会の会場には、デリベラートもいたんだ。おそらく大食堂に入ってから、デリベラートから受け取ったんだろう。しかし、失敗したんだろうな。毒を入れることができず、秘密を知るこいつは処分された」
「そんなことで、殺しちゃうなんて……。すぐに、デリベラートを捕まえなくちゃ!」
「無駄だ」
息巻くベルに対して、ザクセンは冷静に言い放つ。その横で、アトラが悲しげな顔をしていた。
「言ったろ。城内の実権はあいつが握ってる。これまでも何度かあったことだ。ユビルスの命を狙う事件が起きる度、城の人間が自殺したり、姿を消したり、殺された。捕まえようにも、証拠がない。今は、これ以上死体が出てこないことを祈るしかない。運悪くこの現場を目撃したやつとか、真犯人に気づいた奴がいないことを願ってな。この事件は、不審な殺人事件として迷宮入りして、おしまいだ」
ベルはデリベラートに殺されかけたことがある。彼が恐ろしい人間であり、王位を狙っていることも話では聞いていた。
でも、実際に王位を巡り血が流れているところを見るのは、初めてだった。
ザクセンは兵士を呼び戻し、死体を運び出すように命じた。
「丁重に扱えよ。綺麗にして家族のところに返してやれ」
台に乗せられて、給仕係が運ばれていく。
「また、助けられなかった」
去って行く彼らを見て、ザクセンがぽつりと呟いた。
「俺が必ず、王になる。そして、仇をとってやるからな」
「ザクセン様……」
心配そうなアトラの肩を、ザクセンは軽く叩いた。
ザクセンの顔は、強ばっていた。ベルが見た、昨夜の笑顔など幻であったかのように。
ベルは、兵士に付き添われて、部屋に戻るために廊下を歩いていた。
「あの……ここで平気ですわ。一人で帰れますから」
早くひとりで考え事がしたくて、両脇の兵士に声をかける。城の裏の森から部屋までは、かなりの距離があった。
「しかし、殺人事件を起こした賊が、まだ城内に潜んでいるかもしれませんから」
犯人はデリベラートなんだから大丈夫だよ、と言おうとしてベルは口をつぐんだ。
もしかして、彼らはデリベラートがユビルス姫の命を狙っているだなんて、想像もできないのかもしれない。デリベラートはよき大臣で、王なきこの国を支えている人物だと信じているのかもしれない。
だとしたら……ザクセンはたった一人で、この城内の問題事を抱え込んでいることになる。助けてくれるのは、アトラだけ。この大きな城で、二人だけでデリベラートと戦っているのだろうか。
結局、ベルが一人になれたのは、自室に戻ってきてからだった。
「はあ……」
ベッドに腰掛けて、溜息をつく。
死体を見るのは、初めてではない。ベルの暮らしでは日常茶飯事だったから。
憧れ続けた城暮らしも、姫様という存在も、ベルの考えていたようなものではない。むしろ、選ばれた人間がいる場所だからこそ、渦巻くものも大きかった。
暖炉の上には、ユビルスの肖像画や、家族の肖像画が飾られている。
ユビルスの外見で、ベルがいちばん気に入ってるのはこの長い金髪だった。淡い色のドレスを着ても色合いをかき消さない程度に明るく、濃い色のドレスを着ても負けずに輝く、美しい髪。
だが、肝心のドレスが、意外にも数が少なかった。ベルの楽しみにしていた着替えは3日後ぐらいには一通り終わってしまいそうだ。グロスクロイツ王国の姫ともなれば、一生かかっても着られないくらいのドレスがあると思っていた。これならば、商家の娘のほうが衣装を持っている。よく言えば清楚だが、遊び心がなかった。室内も地味だし、飾り気がない。その代わり、広い部屋には観葉植物がたくさんあった。
でも、ベルはようやくその理由がわかった気がする。彼女は、グロスクロイツの姫として、先代王が死んでからずっと一人だった。生まれる時代が違えば、誰からも愛される女王となったはずなのに、グロスクロイツにあってはならない王位を巡る争いに巻き込まれてしまった。この部屋も、ドレスたちも、彼女の心の表れなのだ。
「……あんたさ……大変だったんだね」
その時、ドアにどん、と何かが当たる音がした。
明らかにノックではないし、それから廊下で人が動く気配はしなかった。警備のために、部屋の前には兵士が二人立っているはずなのに、何の反応もない。
何かあったのだろうかと、ベルはドアを開けた。
「え……」
見張りの兵士が、二人とも倒れていた。
「ちょっと、大丈夫!?」
「う、うう……姫様……」
彼から反応があったことに、ベルはほっとする。頭からひどく出血していた。それは刃による傷を受けたためではなく、何か堅いもので殴られて、皮膚が裂けたからだ。
「に、逃げ……姫様……」
影がベルを覆った。
「っ!」
影がベルに向かってハンマーを振り下ろす寸前で、ベルが兵士を抱えて避けた。
ハンマーは、壁に打ち下ろされた。先端が、ばきりと音を立ててめり込む。ハンマーの勢いが強すぎて、石で出来た壁が、乾いた木のように容易く壊れた。
日の光に助けられた。影が別の方向に出来る時間帯だったら、ベルはもっと気づくのが遅れていただろう。
「……?なぜだ?」
声の主をベルが振り向いたとき、そこにはハンマーを見つめて不思議そうに首を傾げる女がいた。彼女は、確実にユビルス姫をとらえたはずのハンマーが空振りであったことを、理解できないようだった。
赤毛の、メイド姿の女だった。
それだけではない。もっと最近に、ベルは彼女に会っている。
「あ!あんた!昨日晩餐会でひょわっ!」
語尾を消すように、女のハンマーが再び振り下ろされた。巻き込みそうになった兵士をかろうじて引っ張って、攻撃から避ける。
兵士の股の間にハンマーが落ちた。まるでクラッカーみたいに床が砕ける。
ベルはようやく、ユビルスの部屋の前にある多くの修復痕の意味がわかった。
あれは、このようにしてユビルスが襲われた際に、壁などに出来た破壊のあとを直した痕なのだ。
メイドは、ベルが兵士を守ると知って、ベルではなく兵士を狙うことにしたようだ。そのほうが、ベルに隙が出来るからだろう。恐ろしく冷徹な判断を下す様は、血の通った人間とは思えない。
ベルは近くにあった壁から燭台をもぎ取った。壁に頑丈に固定されたそれは、人間の力だけでは到底外せるものではない。だが、ユビルスを殺すことだけを目的としているメイドには、そんなことはどうでもよかった。目の前の対象が、武器となるものを手にいれたという事実だけを認識した。
鍬のような三又の燭台を構えた途端、メイドのハンマーが落ちてきた。燭台ではハンマーをまともに受け止めてはいけないと、柄の部分を狙って受け止める。
「くうっ……!」
だが、重い。ハンマーの重さだけでなく、メイドの力は、十割すべて無駄になることなく、ハンマーに注がれている。
それに、ベルには今、あまり力が出ない理由があった。
「ううっ、せめておやつの時間のあとに来てよ~!」
ベルの訴えも虚しく、メイドはハンマーにさらに体重をかける。氷で出来た彫刻のように変化しなかった顔が、ベルを劣勢に追い込んだことで初めて恍惚に歪む。
「お死にくださいませ、姫様――」
喜びに満ちていたメイドの表情が一変したのはその時だった。
彼女の顔の横に、水平にきらめく剣があった。
「動くんじゃねぇ。殺すぞ」
「ザクセン!」
「面白いことをお言いになりますのね。本気で殺せるとお思い?」
メイドはベルに向けていたハンマーで、ザクセンの剣を下から叩き上げた。
避けようとしたザクセンだが間に合わず、ハンマーに切っ先がすくわれて剣が手を離れる。
「チッ」
武器のないザクセンに、メイドはすかさずハンマーを振り下ろした。
「ザクセン、危ない!」
ハンマーが、床を打つ。カーペットを巻き込み、床の石を叩き割る。
ザクセンはそこにいなかった。ギリギリまでメイドの一撃を惹きつけた。ハンマーという重さのある武器の攻撃のあとの、隙を狙った。
ハンマーを踏み台に、ザクセンが空中に飛ぶ。メイドの頭が床でもあるかのように手をついて逆立ちの姿勢で、首を逆に捻った。鎧を着ているというのに凄まじい身軽さだった。
「がはっ」
ザクセンが着地し、メイドの頭がぐにゃりと揺れる。首の骨が抜けてなくなったかのようだった。しかし、メイドは目を見開いたまま、ベルのほうに倒れてきた。
メイドの姿と入れ替わりに、そこにはザクセンが立っているのが見えた。
「はっ、はやくこの女、引きはがして!」
「よく死ななかったな。褒めてやる」
ザクセンは剣を拾ってから、片手でメイドの襟を引っ張る。
彼女は何の抵抗もなくベルから離れ、床に仰向けに転がった。剣の切っ先を突きつけたまま、メイドの呼吸を確認する。
「こ……殺したの?」
「まさか。ちょっと首曲げただけだ。興奮してたからすぐに気を失ったな」
ザクセンは剣を鞘に閉まった。それから倒れている二人の兵士の怪我の具合を、手際よくと確認した。
「よし。これなら誰か通るのを待って治療しても平気だ」
ザクセンはそう言うと、メイドを粉袋でも担ぐかのように軽々と担ぎ上げた。
「テメェはそこのハンマーを持ってこい」
「そ、その女どうするの?」
「兵舎に連れていく。テメェも来い」
わけがわからないまま、ベルはハンマーを持ってザクセンについていくのだった。




