創造・編集、調整、調節、内発
創造する事は我々の生命活動そのものだ
我々が創造しない瞬間は一切あり得ないと言っても良いほどだ。
習慣術や決まり切った日課や日常、目標への懸命な努力、我々が常日頃行っている当たり前過ぎる行動も全てが効果・効用であり、分かり切った事もやり慣れた事もその全てが行動するという、創造活動・生命活動となるのだ。
その活動がより、文化的・調和的・未来的・普遍的・真理的・創造的であれば、我々の生活・集団性は社会的にも個人的にもよりよい状態・調子へとなるだろう。
世界機関・国連・各国々の所要機関、主義・主義運動、これらがどれだけ、資本主義的に創設されようと、その原動力の根源は生命力なのだ。
文化や人物に幾ら影響されようとも、この生命という理念・発露・根源が変わる事はない。
社会や自然がどれだけ殺伐としていようと、我々にとって生命は大切なもので、大切にしていきたいという、根源的な願いの連鎖は変わる事はない。もはや本能同然である。
生命という権利・権限を大前提に社会を見直し、より生命の在り方を構築するべきなのである。
私達の力の自由を法や未来、平和と充足に向けるのは当然の事である。
これを資本主義運動だけで達成出来ないことはもはや自明の理である。
生命力が為す全能力を、全生命の大切な事柄に向ける事こそ、一生命の醍醐味であり、単純に全生命への貢献にもなるのだ。
私達はその上で人間である、人間という特有性を活かし、または理解して、この全世界の生命全体に行使行動するべきなのだ。
そうすれば自ずと人間性の在り方は見開かて、個々人の意義もより偉大なものへと変わっていくのだ。
私達の創造力の有り様を考えてもらいたいものだ。
限りある人生の中で、幾つもの限りない事柄に出会うのだ。
結局はこの人生という時間の中だけで全能力性を行使するのだが、その社会性や世界観が後にも先にも資本家だけという名目の中だけで終わってしまう事が、どれだけ全生命性にとっての不損となることか。
勿論それは人間だけにとっても一緒の事だ、寧ろ人間の操作が招いた結果でしか無いわけだが、それ以前・以上に、生命の本質を見抜けていない事こそが、全生命に於ける最大の病理性と言えるだろう。
生命の躍動を知らない生命はいないのだ。
それを発露しない生命もいない。
その事を法則学・宗教学・人類学などの学問研究で幾ら研究しても、限りない可能性の一部を抜粋したに過ぎないのだろう。
だが、貴重にもその世界で生きているのだ。
短絡的な思考で生きる事は致命的というものだ。
我々の今は正に今しか無いわけだ。
我々全体が途絶えれば、元も子もない訳で、
生死依存という意識体系
死んでまで果たしたい生命活動は、本来存在し得ない。
死という概念は生命があって初めて成り立つ概念であって、死にたいという欲求さえも生命が脈動していなかったら、起し得ない感覚である。
つまり真理的に考えて、死という欲求は元の生命力から生命活動までに対して、完全に矛盾している事となる。
生命力が基礎・仕組みで、生きふている事が基本となる。
生きたいという事が欲求・目的・願望で、生きた、という事が結果・達成である。
終わりや、目的の遂行は必ずある。
あとは我々が生命体として、どれだけの生命力を使って、どこまでに生命状態を進展、達成したいかである。
自由とは代償の無い事でないと、真の自由にはならない。
それ以上に行動は最大限の条件成立の上で行いたいものである。
自由とはその条件を知り、選択出来ることである。
誰かを守る為の犠牲、自身の存在意義崩壊からの自殺、死を計略的に悪用する行動、これらは本来の生命意義に完全に反している。
例えば我が子を救う為に犠牲になったとする。
子供を守る為の行動と自滅したいからでは、意味が全く異なる。
守る、大切にするという行動は我々とってとても重要な意味をなしている。
守る行為は本能と言っても良いほどだ。
だからと言って、生命そのものが根絶するのは同じ生命体同士としては、嘆かわしいことである。
出来れば常日頃からより生命力を引き出す活動をしといた方が良いだろうが、物理的な仕組みには敵わないのも仕方ない事だろう。
攻防という悪習慣
守るという行動・攻めるという行動、これらは人類史においても、未来においても、文化的な無駄といえる。
攻防が刺激になると思い、楽しんで、高め合うと思うかもしれないが、我々自然の産物にとって、自然の変化こそ、最大の適切な刺激であり、全生命との調和的な活動になるのだ。
攻防という最早、日常的な対応術は、人間が作り出した道徳観・礼節には不要である。
対応術で重要なのは、攻防で示し合う意思の独占や優位性ではない。
道徳観・礼節を弁えて生かす文化的な調和術のみである。
粗野で闇雲な対応術に1日も未来への創造はあり得ないのだ。
疎通した分の前提と共同で通った道のり分が、創造・調和した未来へと進めるのだ。
私達は生命体であると同時に人間として自分達を認識し、人間として学び、文化を創造してきた。
機能の多様性、文化の趣向性、どれもが様々で、各個人の事柄なのだが、共有する事によって、共同体であり、共通の意識感を生み出しこの世の法則を生み出し、ルールとして、守るべきものを学んできた。
当為・常識・集中・精確・必然・真当
我々には切っても切り外せない、健全さ、趣きや拘りがある。
私達が生命を繋ぎ続けるには、どうしても生きたい、と思わなくてはいけない様に、生命を守る為の活動が最低限、必要となってくる。
しかし、生命、人には境涯・人生観というものがある。
この時々によって人は意識感が大分異なる。
この意識の異なりこそ、個人性・私的性として最も重要なところでもある。
私達は意識という情報の媒体装置の中では、当事者ならではの体系的な感覚、地図の様な連想認識が所々に点在している。
説教・演説・説明、これらは文脈の体系化が完成しているから出来るのだ。
かと言って無闇に行使する事ではない。
我を出すとは、その個人特有の意識観念を部分的に発言することだ。
理念的に考えたら、全ての人間が独自の全能性を兼ね備えている。
生物が生物として起動するにも全能性が必要といえるが、