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生命機関とその主義運動  作者: yakutawa
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資本を超えた生命主義

資本主義には資本主義そのものを売る事こそ、最大の敬意の払い方である。



資本主義とは個別化を測るだけの間違った道理、見方である。


商売というもので、人格も人道も形成されない。


というよりも商売よりの人格・行動パターンしか形成されえない。


現代社会での政策、資本流通の機能性・流動性、これらはただ複雑化して停滞し、在るべき未来への統制を計れないでいる。


そのような現状だが、そもそも資本主義経済する事がそんなに難しい訳が無いと断言しておきたい。


我々人間という生命体が生命活動を行う上で、資本主義というもの自体、一主義・一主張に過ぎない訳であり、私達が想像した主義主張を、断片的に行使しているに過ぎない。


そこに生贄も自滅も破壊も競争も奪い合いもいらない。


自分勝手と自由は混同してはらない。


自由と文化の中で中立で解放されているべきだ。


資本主義で経済して行くという手法で、未来に対してより平和的・調和的な活動を行うという趣旨で、一つの機能として考えれば良いのである。


だが愚かなことに、他者からどう権益を奪い取るか?と悪案する輩がいる。


資本主義社会では個人の主体性だけで商売・取引きが可能である。


私達は地球上にいて、資本主義運動という主義主張の中に自動的にいて、個人間の中で生活・食いぶちに充てられる賃金を取引できる。


例え地震が来ようが、台風がやってこようが、環境を汚染しようが、資本主義では資本主義よりのルールと法律が形成されるのだ。


だがそれで自らを懸命に守る事を出来る訳ではない。


自然の摂理や猛威に資本主義運動で立ち向かっても、いくら互いの権益を計ったところで、我々の研究や生命維持活動を金利化している場合ではないのだ。


他者を蹴落とし、資本だけを得ようなどと、自然と人道の道理に反している。


1人1人の人間は他者との関係以上に、環境へと適応していく必要性がある、それが自然の掟なのだ。


そもそもそれが生き物における1番の主体性と言っても良い。


資本主義は我々をより良く保持していく為の手法として経済し、より創造的な目標へと調和的な活動をして行けば良いのだ。


我々が不安や焦りを感じるとしたら、それは資本主義という経済活動の先駆者・潮流に付いていけないからではない。


最大のネックは私達の生命維持に関する、生命活動の支障にこそ不安や焦りがあるのだ。


もしお金欲しさに焦っているのなら、それは物事を比較的になり過ぎる依存的な神経症を起こし、良し悪しと本質的な生命活動というものを混同しているに過ぎない。


生命力に対する目覚めと気付き


先程も言ったが、我々は生命体として、生命維持の為の活動を行うことが最大の主体性である。


例え現実が何かしらの欲望や野望に満ちた抽象的な主義主張や世界観であったとしても、生命感・生命活動という分野で括ることが出来る。


生き物にとって生きる行為、生きていようとする行為全てが生命観であると言うことは言うまでもない。


我々は生命体という、事実・真実・現実があるにも関わらず、自分自身を社会的・人間的・文化的・比較的な、ステータス化を行い過ぎて、本来的な生命のあり方まで裁き除けてしまっている。


全ての事を一つの概念で括ることが出来る文化・社会を操作・作用している側の筈の我々が、なぜ意地汚くも、万物の瑣末な一部を侮蔑、比較、執着する必要があるのか。


神様と万能性、この概念に違いがあるように、また、同義であるかのように私達は万物の事象を観念・概念化し括る事も分ける事も出来るのだ。


つまり資本を用いた主義だろうが、何かしらの理念に基づいた主義主張、政策だろうが全機能的でないと何の意味も無いと言うことだ。


世界中の文化力を結集させた力を発揮したとしよう(というより発揮すべきなのだが)、その力が想像を絶することはお察し出来るだろう。


私達は私達という力、人間ならば、全人間力とでも言おう。それをがっちり発揮することも無く、寧ろ人間同士の比較戦争競争が生命活動の本体になってしまっているのだ。


正に命を懸けた活動ではあるが、何もそんな事をしなくても、我々は充分すぎるほど自然界の営みの中で適応し命を守り育むという重大な基本活動をしているのだ。


一体何故、障害者や老人に子供、これら完全な人間同士、同生物種でなぜ一時的で不毛な小機能な活動、つまり資本主義活動に命を費やす必要があるのだろうか。


福祉に競争を成り立たせる必要があるだろうか?


そんな暇があるなら、競争ではなく救済というリーダーシップを計るべきである。


それこそ正しいビジネスマナーと言えるだろう。


例え政治においてもマナーはマナーなのである。


創造力や潜在意識、優先順位抜きに物事を計ろうなどと、必要な条件の編み出しが足らな過ぎるというものだ。


現実を上手く機能、操作出来ないのは見方・習慣・風潮・知識の何れにせよ問題があるのだ。


現実こそ資本・生物としての満足


我々は永遠という文化創造物の中で、現実という最大の資源を手にして、生態バランスの活動をしているに等しいのだ。


その中で個人意識が各々働いているに過ぎない。


個人にとって意識とは生物における最大の道具と言える。


この意識という舵取りの矛先が結果を決めるのであり、最終的で長期的な見方をする事が操作・作用なのである。


それら現代社会の共用部分がルールや法律、一般教養や普遍真理という機能性で運営されている。


私達にとって意味・意義・価値観とはなんだろう。


これらはとても重要である。


集団性・文化活動・学術研究など、これらの活動・意義において非常に重要な役割・機能・効能となるからだ。


更にこれらは習慣と風潮・風習となり、長期的な生活価値観となる。


全体性のバランスと全機能性の可能性


私達には全能性という能力が備わっている。


全能・万能という概念を何故我々は生み出せたのだろうか?


これほど私達の生命活動、あるいは機能に於ける重要な命題はあるだろうか?


私達は紛れもなくその全能や万能を創造し、意識したのである。


知ったから発し、発したから広がったのだ。


広がれば、知った人の分、その概要と能力の可能性を手にしている訳である。


神・理想・理念・調和・整理・整頓・逆算・平和・完全・充実・永遠・研究・達観・生命・文化・創造・思想・歴史と、これらは1人1人に内包されている。


私達はこの機能性を大いに活用すること事が出来る。


これらは、広量な視野、条件的考慮・逆算、生命と文化の調和という最大の境涯を各個人が得れるのだ。


そもそもその位の意識・権限があっても何の支障もないだろう。


我々は生きて生き抜く為に存在しているのだから。


私が根幹にしている主義主張はここである。


この観点から世の中を見ると、本質的に大切なものが分かる。


生き物にとって、更に人間にとって価値観や定義ほど重要なものはない。


ましてや存命に関わる事ほど、切に重要なのである。


その価値観の優先順位こそ、我々が要する基本活動である。


資本主義社会には資本主義社会の風潮や習慣、考え方がある。


存命主義は現実において在るべき手順である。


はっきり言って、どんな主義もこれが基盤なのである。

後付けや結果がそれにより良く適しているかどうかで主義主張を言い放っているに過ぎないのだ。


その根本的な意識・存命思考を後回しに放置して資本主義活動に意識を向け精を出してしまえば、本末転倒となってしまう。


当然なのだがこれが非常に危険である。


お金イコール命と言うとんでもない変則方程式になりかねない。


こうなっては個人の人格と精神状態が崩壊的になるだろう。


道徳は単純に今ある命に基づいて感覚を働かす。

だから体得感を真近に即効で感じ取ることが出来るのである。


殆どの人間が道徳と常識を前提・同義くらいに使ってしまっていることだろう。


そもそも道徳自体は其の通りの事ばかりなのだが、資本主義・法治国家の前提では勝手が全く異る。


そうなると個人的に培った道徳・一般常識・教養と言われるものは資本主義・法治体制に反していることの方が多くなる。また優先順位の在り方すらも変動と崩壊が生じる。


法則性が生じたり、法律・経験的反応・自己流などと言った人為的作用が働く。


自由と空間を埋め尽くしたつもりでも、直ぐに自由と空間が広がっている。


私達は整理の尽きないほどの空間に居る為、自由を持て余し闇雲に物事を行うのである。


行動自体の基本的な意義が分からないから、躁鬱となってしまう人がいるのである。


生命体にとって、更に我々人間にとって、価値観は重要な道標となり、生命活動の作用性、機能性は目標へと向かうようになる。


元来どの生き物にも本能がある訳である。


そこに二次的に文化・主義・集団性が調和を創り、平和・未来へと繋がっていくのである。


その活動に大義を覚えるのは非常に健全で正しいことなのである。


私達は自然の法則的な空間の中で生きているのである。


資本はその法則の一つで、主義とは手段である。

託すものを履き違えれば、其れ相応の自然の摂理が自ずと働く訳である。


私達は私達を裁かなくても、常に自然の摂理に晒されている訳である。


資本で幾ら欲望を果たそうとしても、自然の摂理は更に先を行った現象を起こすことだろう。


果たして資本主義でその自然との調和を計る事が出来るだろうか?


もっと真当な道の見通し・パラダイム・道徳はないだろうか?


どう考えてもある。


人は文化人として・自然人として、独特で特有の文化を創造してきた。


そもそも、我々は創造性という機能を持っているのである。


その力をそのまま投影させた概念こそ神さまなのだと思う。


少なくても創造することによってその大半が、目安にはなる。


重要なのはその目安の効果性である。


目安とはとどのつまり、現象化と事象化である。


その現象・事象の一貫した行程が統合されたものを完成と呼んでいる訳だ。

統合性・完成度の原理は逆算と調整、調和と整理によってもたらす。

その条件から編み出された必要な分の知恵こそ我々の問題解決法の鉄則なのである。


今直ぐには変えれないから全ての事柄が仕方なくなる


資本主義で生命の尊厳を真に尊重することが出来るだろうか?

例えそのやり方で出来ても、嵌まり切らないのが現状だろう。


生命というものに、合理的な尊重をもたらせれないのは、生物としての罪かもしれない。

遺伝子の繰り返しと同じ位、進化の無いことである。


ましてや人間は文化をこよなく愛しているのに、野望と欲望と自己満足のための手法を何処までも肯定している。

集団性の中での計り競い合いが、個人の枠組という小さな見方が全能性を抑制するのだ。


個人と集団と形式を理性的・合理的に統制・操作・法制するだけの与えられた自由を常に我が物にせんがために、その習慣を断ち切ることもせず、そこから一歩這い出るのではなく(もちろ理性的・合理的にだが)自由と模索で錯綜し、結局焦りに飲み込まれるのである。


行動は煽りから行うのではなく、理性や合理性から行うものである。


知ってるから行える、知るために行う、知りながらの行動にしか知恵は伴わない、知合合一されていないと目安にしかならない。


そもそも我々は生き物であるという、最大のがあるのに、なぜその矛先が資本活動を通した貢献なのか?


だが資本主義をどう思うのは勝手だが、その主義様式意外の集団性で統制されている所は殆どない。


言ってしまえば、資本主義ならではの礼節を知らない分、野性的な価値観の世界になる。


どの枠組みにも回り込んだ上で働き掛けれるということである。


それは善悪のどちらにもだ。


私達は生命体である。


だからこそ、命を生きているという最大の権利を活用しているのである。


それが決して大袈裟なことは無い。

単純で大切な物、それは命である。


・私が言いたいことは、資本主義に限らず、人は生命力という根源の元がある。

と言うことは一つの主義・主張に拘る必要がなく、生命という実現されている自身の最大限の尊厳・命題における保全こそ、肝要だと言うことだ。



私達は空間を感じ取る事が出来る。


条件や内訳、目標や規定、これらを編集し総合的・設定的に考えてバランスを取る事が出来るのである。


作用させるべきものが何かを察し、目的を達成させられるわけだ。



人間という生物は多文化である。


それこそ、地球上の全人類を合わせても足りない位にだ。

実際問題この位開けた発想が出来ないと、世の中そのものが只々、窮屈である。


それ以上に我々の生命活動として何より全人類的な平和・文化・未来の創造的な活動の方が重要であり、緊急性を考慮してもそう考えて行く方が肝要・命題なのである。


現社会というものは、生命力の本流に触れているのかどうかすらわからない。


生命に於ける道理こそ本質であり、真理であり、永遠である正に命題・本流なのだ。


生きる事が間違うことはない。


生きる上での方法が間違うのだ。


・全人類的な活動で文化を創造してはならないのか?


それよりも、個人的な資本主義が大切なのだろうか。



・どんな時間も創造中、なんとも間抜けで愛らしい資本主義・国家という枠組の中で、1人1人が地球上の空間の上で自由に想像・創造を行えるのだ。




・職場での実践における


すぐに、狭量・狭義的神経依存に陥り易い。

常識・一般世論、これらに託けても実用的となるかどうかは別なのだ。


寧ろ常識や一般性という概念に頼って、権威的目線で筋道を解説したところで、本質的な解決にはならない。


普遍的な真理に基づいてしか、物事を解決する方法はない。


丁寧さ、精確さ、法人性、文化性、これらを直面している仕組みに調和・調整的に行うことが物事を解決させる唯一の実用法である。


・資本主義社会における物産主義の手法は低い次元、従来の手法と言える。


物を創る意義と集団性の中で調和的に働く意義を履き違えて、一定の仕組みに焦点を当て過ぎている。


しかも短期性に拘り過ぎて、効果性を絞り過ぎて、


・人間性主観と生命体主観


人間は万物の一部を括るが、生命体は万物を、生命の一部として捉える事が出来る。


生きるとは全てに於いての意味合いである。


私達人間という生命体にとって大切な事は、文字通り、人間に於いて大切な事である。


言い回しは兎も角、逆に言うと人間という生命体として生命活動さえ出来ていれば良いのである。


人間にとって人間であることは、最低限・最大限の適応条件である。


この条件は個人にとっても、集団にとっても、生命全体の役割としても、重要な調和・バランスを取るものとなる。


万物・生命が活動し、その行程があり、その原理があり、そこに作用させられる自由と空間があり、その自由の中に配分、その役割・使命がある。


生命体にとって生命活動全てが生命体の対象となる。


そもそも自由なんて言うのも、この観点からきてるものと言える。


この考え方をすることによって、どの人生境涯に立とうとも我々は自由と調和をこの世に働きかける事が可能だろう。


どんな環境に置かれようが何かしらの生命活動が行える。


冷徹主義にも属すこともなく、ただ在るべき調和を感じることによって、人間的に誠実に理念という超大な生命活動全体の統合を測る事が出来るのだ。


私達人間にとって、これ程大切な事があるだろうか。


概要・概念として、これ程までに率先させるべき事柄がこの世の中にあり、我々1人1人がその具体的な調和の中にいるのだ。


これ以上にない、生命活動である。


・生命実感と感情依存


生命活動は感情との統合性が高いものである。


特に未経験な事に触れると尚更そうである。


現在の社会では競争意識が高い為、生命活動という認識ではなく、競争に於いての勝敗、資本主義という社会性ならではの効率が優先されている。


時に非人道的で非集団的な行為も容易に行うまでに。


資本主義社会というものを最高率に扱うには資源や資金でなく、集団的な未来と平和への調和である。


資本経済は生命主義・活動の資本主義部分を救済する運動である。


はっきり言ってこの活動にいいも悪いも無い。


只々資本活動があるのであって生命活動の大部分を担うことは出来ない。


文化機関の中で配分された役割があるのは重要だが、資本経済活動は専ら生活賃金の経済欲である。


調和的活動すら経済欲の内で、肝心の命題・存命に関する法律・道徳心・倫理観は無法上のものとなり、個人的感覚を病性なものへと変えてしまいかねない。


生命機関


我々とは何か。我々は何処へ。


我々は生命体という、生命を大切にするという、使命と本能が備わっている。


我々の願いは一つの根源からきている。


それは生きるということだ


生きる事に沢山の道がある必要はない。


本来私達は大切な目標に向かわないといけないからだ。


それは遍くこの世に存在している、生物共通の願いでもある。


人間の願い、個人的な願い、自分勝手な欲望、これらはどれも生命哲学の成り立ちの上で求めることが出来るのだ。


我々は生命体として生命活動している、だからこそどんなに高い願いでも欲望でも望めるのだ。


そしてそれらを超越し総括した生命の在り方も感じ、望むことが出来る。


我々は人という生物である。他の生物とは違うのだ。


だが生命がある同士である事には変わりない。


そしてその生物の大切な願いも知らない。


だからこそ、その生物を学ぶのだ。


我々は生命全体の一部でしかない。


生命全体を観察すれば調和させる原理と、調和する為の原理・理論を解読出来る。


或いはもう既に会得しているのかもしれない。


なぜなら既に人間という生命体としての万物に対する存在・調和を成しているからだ。



死に対する哲学や趣向手法は、調和に対する不明瞭な答えだ。


生命機関に対する不調和である。


死とは不調和である。


では訪れる事なく死を乗り越える事が出来るか。


それもまた摂理上、不可能な話だ。


だが、生命体の性質上、死は何の意味も為さない。


生命体にとって、生命活動全てが能動的であるからだ。


生きる事は本能である。


当然ではないか。生物・生命体なのだから。


人なら人らしくあろうとする能動性も当然の生命活動である。


これは欲張りでも、開き直りでも、吹っ切れる事でも何でもない。


生き物が自分自身に生命を感じない事こそ不調和なのだ。


生き物にとって生きる事は、絶対の性質・認識・確信・意義・当為として完全の事である。


生命主義とは、どの場合・条件においても個人に必要な権益であり、尚且つ総括的な視点に立ち、秩序に関する優れた視点を抽出する、最大の機能だ。


生命あっての秩序であり、生命無くして何も始まる事はない。


現実は利益という個人的で欲望のままの世界かもしれない。


だが、それでも生命始まらずして成り立つ欲望があるだろうか。


生命主義という視点はこの様に、本来の生命に於ける可能性を身に感じ取ることが出来る。


生命主義は資本主義世界以上の秩序、理想の在り方、調和的・全機能的な技法を編み出す事が出来る。


資本主義という、生命と資本の同一化を計るような主義運動は、その本来の生命の尊厳に傷を付け、楽しみ面白ろ遊ぶ様なものだ。


人間同士の世界では、常に誤った統一化を計り、常に同一でない価値を常識化し、常に調整不足を訴えているのだ。


資本主義世界とは簡単に言うとそんなものだ。


資本主義世界は経済する事が理念である、だからこそ利益を優先する。


生命主義とは生きる事が理念である。


だからこそどんな手段も選ぶ。


だが、やり方で効果が変わるから問題が生じるのだ。


資本主義世界ではお金にまつわる幾つもの契約や交渉の手順が要する。


言ってしまえば資本主義世界とは資本に於ける法律を作り、資本との調和を計って、遍く経済していく運動なのだ。


その在り方がそもそも、生命活動を支え切れないのである。


更に生命力を能動的に機能させづらい理由でもある。


私達は自然・地球・現象の中にいるに過ぎない。


どれだけ平和と普通の生活を持て余そうが、これらは現象の中で起こっているのだ。


更に私達は進化して環境に適してきた生物である。


生物として自然の中で調和的に生きようとする事が重要なのは言うまでもない。


どの生物もそうである。


特に人間は感情・精神の状態で左右されて、時にはその内面性により自滅しかねない。


自然が私達に、破壊という現象をもたらす限り、我々の最高の未来など実現しない。


私達がそれに対し、一丸となって立ち向かわなければ、このまま一生資本主義運動・世界で報われない死を迎える事となるだろう。


私達の長期的で、広大な生命力を資源、資本としてだけ見るならそれは有限性と不完全さを結論する事になってしまう。







































































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