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津雲異聞伝

作者: カムクラ

定食屋「風間(かざま)食堂」の朝は早い。

早朝五時、風間一家は一斉に起床し、朝食の準備やその日の開店準備を始める。両親や成人してから手伝いではなく本格的に店で働く様になった長男が忙しく作業する中で、一人学生服に着替え、朝食も食べずに家を出た者がいた。

次男坊、風間 松二郎(しょうじろう)である。

まだ学校へ登校するには早い時間、松二郎は自分の通う学校とは反対の方向へと足を向けていた。車通りの多い(と言ってもまだ早朝なので、走っている車は無いが)表通りに面する実家から少し入り組んだ路地を行き、車通りも人通りも少ない裏通りにひっそりと建つ一軒の古ぼけた店。

骨董品店「津雲(つくも)()」。

徒歩でも数分と経たずに着くそこは早朝故に未だ表のシャッターは閉まっていたが、気にする事なく裏口に回ると、松二郎は勝手口の扉に一言二言声をかけ、カタリと鍵が開くやいなやさっさと中に入った。


家主はまだ寝ているらしく、雨戸が閉まったままの家の中は暗かった。松二郎は勝手知ったるといった様に雨戸を開け、台所に立ち、朝食を作り始める。これは松二郎が中学二年の時からの習慣で、朝食はこの「津雲屋」に来て作り、食べるというのが彼の日常であった。

「む……来ていたのか」

「おぉ、おはようさん」

「あぁ……おはよう……」

最初に起きてきたのは、背が高く線の細い男だった。見た目は二十代前半で、緑青(ろくしょう)の着流しを身に纏い、立ってはいるもののまだ眠いのか瞼が引っ付いては離れてを繰り返している。若干寝惚け気味だ。

「…顔洗ってこいよ」

「あぁ……」

ふわふわと浮いた様な返事をし、寝ぼけ眼のまま男は洗面所へと消えていった。それとすれ違い、今度は藤色の着物を着た女が現れる。

「おぉ、もう来ておったか。毎日毎日よく飽きぬ事よ」

「アンタが毎日作れっつったんでしょ」

「はてそうだったか?とんと覚えておらぬ」

「アンタねぇ…」

言い返すのも疲れ、松二郎は大きく溜息をつく。すると女は至極楽しそうにニタリと…そう、ニタリと、意地の悪そうな笑みを浮かべた。

こちらも男同様、見た目は若いのだが…口調が妙にジジ臭い。意地の悪そうなこの女こそ、家の表で営まれる骨董屋「津雲屋」の店主・津雲 (たかむら)である。

店主の篁、常に彼女と共に在る従業員の男・佐吉(さきち)の二人とは、松二郎がまだ小学校に上がる前からの付き合いであり、近所の者は「津雲屋」を知りこそすれ、二人とここまで仲が良いのは松二郎唯一人だけであった。

「まぁもう直ぐできるんで、座ってて下さいよ」

「あい、分かった」

「篁、包帯を取り替えるぞ」

いつの間にか洗面所から戻り、すっかり覚醒した佐吉が、真っ白な包帯を持って再び現れた。佐吉の言葉に篁はあい、と頷き、二人で居間に移動する。

それは三人にとっていつもの光景であった。というのも、篁は顔は右目、そして身体の四肢の所々を包帯で覆っているのだ。これは松二郎が二人に出会った時から既にそうだったのである。それは病気によるものなどではなく、ある意味"怪我"を覆い隠すモノであった。

しばらくして、焼いていた鮭が人数分焼き上がる。皿に盛り付け、松二郎は佐吉を呼んだ。

「なぁおい、包帯巻き終わったか?飯できたけど」

「少し待て、これで最後だ」

居間を覗けば、丁度左腕に巻いているところだった。留め具で包帯を留め、終わったとばかりに立ち上がる。

「何をしている?早く飯を運べ。私と篁を待たせるな」

「いや、少し待てって言うから待ってたんだろうが」

「ならさっさとしろ」

「何この理不尽」

言いつつ皿を渡せば、佐吉は何も言わずに皿を持って行く。本日の献立は焼き鮭と卵焼きにプチトマトを添えて、あとは味噌汁に白米、そして沢庵と至ってシンプルだ。

「ほんに(まつ)は料理が上手よなァ、上手」

「どうも。今日は簡単だけど」

松二郎が朝食を作る様になる前は、普通に篁が台所に立っていた。今でも昼・夕は基本的に篁が作る(時々昼食を松二郎が作る時もある)。料理をしない代わりにその他の家事や力仕事をやるのが佐吉の役割なのだが、仮に佐吉が台所に立てば、津雲屋が爆発するだろうと言えるくらいには彼は料理が下手だ。以前佐吉が台所に立った時、手を滑らせた佐吉が持っていた包丁が居間にいた松二郎の頬を掠めて壁に刺さった事がある。それ以来、松二郎も篁も断固として佐吉を台所には立たせない様にした。佐吉は渋ったが、命の危険には替えられなかった。

「時に松よ、今週の土日は暇か?」

「今週末?あー、何もないと思いますけど、なんで?」

「なに、ちと手伝ってもらいたい事があるのよ」

沢庵をポリポリ食べながら篁が言う。そう言われればだいたい頼み事の察しはつき、松二郎は分かったと一つ頷いた。

食後、食器を片付け、洗い物も済ませ、表のシャッターを開けるなどして過ごし、少しばかりのんびりとしていれば良い時間帯になる。

「松二郎、七時半だ」

「あ、もうそんなん?じゃあそろそろ行くわ」

「早に行け。そして早に帰って参れ」

「道中に気を付けろ」

「何も無いって…。そんじゃま、行ってきます」

二人に送り出され、松二郎は家を…ではなく、津雲屋を出た。


松二郎の通う高校は実家や津雲屋から徒歩約二十分程度の場所にある。校門を潜れば既に野球部などが朝練をしており、松二郎の他にも登校している生徒が何人も見えた。自分のクラスへ行けばクラスメイトがちらほらといる。

適当に挨拶をして、松二郎は自分の席についた。

「あっ、松ちゃんいたいた。おはやっぷー」

「イタい。寄るな」

「朝っぱらから厳しいお言葉ご馳走様です・・・。ま、それは置いといて、なァ聞いた?最近ここいらで送り狼が出るって話」

そう話しかけてきたのは1年、2年と同じクラスでそれなりに親しくしている友人、服部(はっとり)保長(やすなが)だ。別のクラスに行っていたらしく、戻ってくるなり一直線に松二郎の下へとやってきた。

「最近って事は短期間で何人もやらてるのか?一人なのか複数なのか知らんが随分軟派な野郎だなオイ」

「いやいや松ちゃん、そっちの送り狼じゃなくて。なんかガチな方」

「ガチって何だよ」

「犬なの。マジで。犬が後からついてくんの。でなんか急に突進して体当たりしてきたり、酷いと牙剥いて襲いかかってきたりするだって。怖ぇー」

あまり怖がっている様には感じない声で保長は自分の両腕を抱える。

「しかもさぁ、ただの犬じゃないんだよ!男の人なんかは襲い掛かられたら振り払ったりするじゃん?でもその時には既にいないんだって。足音も無く!消え去るんだって!」

「あーハイハイ、分かったからあんま大声出すんじゃねぇよ」

保長を適当にあしらいながら、松二郎は心の中でこの事かと思っていた。

このこと、というのは、今朝方篁が言った「手伝ってもらいたい事」の話だ。誰から頼まれたかは知らないが、篁は今週末にこの"送り狼"と対峙するつもりらしい。人を襲うという凶暴な犬の退治に自分も駆り出されるのかと思うと……

「…怪我だけはしたくねぇな」

「え?あぁうん、そうだよねぇ。犬の牙って痛いよねぇ。猫も痛いけど。あ、牙とか無いけど馬も痛いよ。俺昔ファミリー牧場に行って馬に人参スティックあげた事あんだけど、勢いで指ごと噛まれちゃってさぁ。もうギャン泣きだったよ」

「至極どうでもいい」

「酷い!」

酷いよー松ちゃんが俺に冷たいよー、などと保長は嘆くが、この頭の軽い友人は一々リアクションが大袈裟なのが常である為周囲の人間はあぁまたか、とこの現状をただ傍観するか無視するかのどちらかである。因みに最も近くにいる松二郎は無視を決め込む。

「グスン……いいよいいよ。松ちゃんの好きな人は隣のクラスの加藤さんだって言いふらしちゃうもんね」

「いや違ぇし誰だよ加藤さん」


本日も特に変わった事無く学校を終え(因みに帰宅部である)、松二郎は真っ直ぐ家に…ではなく津雲屋へと向かった。表のシャッターは開いている為普通に表から入ると、(はた)きを持って商品棚を掃除している佐吉に会う。

「む、帰ったか」

「ただいま。なぁ篁さんは?」

「篁なら奥で茶を飲んでいる」

「ども」

「…帰りは何も無かったか」

「帰り?いや、特に何も無いけど」

「そうか。ならいい」

それだけ言って、佐吉は再び叩きをかけ始めた。何故か帰りの様子を気にする彼を不思議に思いつつ、松二郎は津雲屋に上がり居間に入った。すると佐吉が言っていた通り、饅頭を添えて茶を啜る篁の姿が目に映る。

「おお、よく帰ったな松よ、大事無いか」

「え、いやまぁ…大事無いです、けど」

「左様か、それならば良い。もうちと寄りやれ、ホレ、主にこれをやろ」

そう言って篁は卓の上に置いてあった饅頭をすいと差し出した。それは有難い事なので素直に礼を言って受け取るが、佐吉といい篁といい今日はやけに帰りの安否を訊いてくる。これに松二郎は今朝の自分の予想に確信めいたものを感じつつ、篁に尋ねた。

「佐吉からも同じ事訊かれましたけど、何でそんな帰りの事心配してるんです?」

「なァに、最近ちと野良犬がそこらを歩き回っておると聞いてなァ。主が襲われはせぬか心配しておったのよ」

「まさかとは思うけど、今週末の用事ってソレですか」

「ほう、送り犬の話は主の耳にも届いておったか」

「今朝友達に聞きました」

「左様か。主の言う通り、今週末は送り犬の退治をする。話を聞けば無差別らしい故、主には餌になってもらう」

「…言い方がなんかなぁ。せめて囮って言って下さいよ。まぁ囮でもあんま良い気はしないけど」

「ふ…まぁ許せ。我や佐吉では囮にはなれぬ故、主しか適役がおらぬのよ」

「なんとなく分かりますけどね」

「ほんに主は聡い子よなァ」

よしよしと頭を撫でる篁の手を、松二郎は払う事はしなかった。少し気恥ずかしくはあるものの、幼い頃からされてきたそれは嫌いではないからだ(背後からの佐吉の視線が痛いが)。

「…今回の送り狼退治って誰からの依頼なんです?やっぱ被害者?」

「否、今回は誰の依頼も無し。しかし近所である故なァ、ボランティアよ、ボランティア」

結局篁の頭を撫でるソレは佐吉が松二郎を押し退けた事により終わった。押され転げた松二郎が話を変える様に尋ねると、篁は否と首を振る。

「たかが犬ころ一匹、金を貰う事でもないわ」

「…ソウデスカ」

犬は犬でもただの犬ではないのだが、と言ったところで無駄だと悟り、松二郎は転げたまま小さく溜息をついた。


ーーーー送り犬とは。

別名送り狼とも呼ばれ、その話は全国各地に存在する。

基本的には夜に山道を歩いていると後ろをついて歩き、転ぶと食い殺されてしまう、という妖怪として知られているが、転んだ際に「転んだ」様に見せず、「ちょっと疲れたんで休憩しますよ」という体裁を装って尻をつけば襲って来る事はない。

また、各所によって送り犬のとる行動の言い伝えは異なっており、山道を抜け無事に家に帰り着いた際に一声かける、草履の片方を投げて寄越すなどすればそのまま帰って行く、などの話や、山中で産気付きそのまま子を産んでしまった女性を野犬から守り、動けない女性の為に女性の夫をわざわざ引っ張って連れて来たという話も存在する。

正直、悪い奴なんだか良い奴なんだか、よく分からない妖怪である。いや、基本的には悪いのだろうが。


「…っていうのが俺の送り狼に関する知識なんだけど」

「ふむ、きっちり合っておる」

「送り犬などよくある話だ。知らん方がおかしい」

「これ佐吉、その様な事を言うでない。現代の若者にしてはよく知っている方よ。まぁそれもこれも、全て我らの影響であろうが、なァ?」

「…そのとーりですね」

やってきた週末、土曜の午後八時。津雲屋の二人と松二郎は住宅街の中にある広めの公園に来ていた。津雲屋からは然程遠くない距離である。

「そろそろ八時か…。ふ、戌の刻に犬退治とは、なかなか洒落の効いた事ではないか。やれ愉快、愉快」

「ねぇ、マジで俺一人で歩くの?てか俺で釣れるの?」

「囮は一人でなければならぬ上に人でなくてはならぬ。誰かが送られている所を見つけたのであればそこを捕らえるのが最も楽であるがわざわざそれを探すのは骨が折れる。それに、一般の者に見せる事ではない故になァ」

主でなくてはならぬのよ、と言い、篁はポンと松二郎の肩に手を置いた。

「案ずるな松二郎。お前はただ歩いていれば良い。今日現れなければ明日やるまでだ」

「え、コレ捕まるまで俺夜歩かされる感じ?」

松二郎の問いに、佐吉は答えず目を逸らす。つまり「Yes.」である。

「…お前が奴から傷を負わされる前に、私が奴を捕らえる。だから案ずるな。ただ歩いていろ」

「頼むぞ佐吉ぃ…」

ただの人間である我が身の事を思うと、松二郎は囮が不安で仕方がなかった。と言っても、襲われる事自体は然程恐れておらず、犬に対する恐怖よりも松二郎は「怪我したら嫌だなぁ」という思いの方が強いのだが。

「そろそろ良かろ。行け、行け。後の事は我らに任せよ。あぁ、決して転ぶでないぞ」

「はいよ、取り敢えず家に向かって歩きますわ」

最後にヒラリと手を振って、松二郎は公園を後にした。


時期はそろそろ春一番が吹いた頃であるが、しかし流石に夜は冷える。一応コートは着てきたものの、ひやりと頬を撫でる夜風に、松二郎はブルリと肩を震わせた。

歩きながら、件の送り犬について考える。

そもそも、送り犬は先に言った通り山中に現れる妖怪であり、各所に話が存在するとはいえこんな住宅地に現れる話は聞いた事が無い。何故わざわざ山から降り、こんな人の多い住宅地で人を襲う様になったのだろうか。それに今回の送り犬は、本来ならば転ばなければ襲って来ない所を、お構い無しに襲いかかると聞く。

「…何か、人間に強い恨みでも……うん?」

一つの仮説が浮かび上がった時だった。背後に気配を感じ、佐吉か篁が、何か伝え忘れたのかと思って振り返る。しかし、そこには佐吉の姿も、篁の姿も無かった。

「グルルルル……」

「…マジか」

釣れた。まさかたった一日では釣れないだろうと高を括っていた松二郎だったが、その甘っちょろい予想は大きく外れた。中型犬と言うよりは少し大きく、かと言って大型犬と言うには少し首を捻ってしまいそうな…そんな微妙なサイズの犬が、一定の距離を保って松二郎の後ろをついて来ていた。犬を見てまず思った事は、恐怖や焦りよりも「雑種か…」という冷静な感想であった。

案外普通の犬だった為に特に恐怖心を抱く事無く、佐吉が何とかするだろうと軽い心持ちで、松二郎は再び歩き始めた。

「俺について来ても何もないぞ」

道中、そんな風に話掛けてみるも、当然の事ながら反応はない。

歩き続けて十数分、遠目に灯りで照らされた「風間食堂」の暖簾が見え、この状態では無事送り届けられてしまいそうだ…。と、そう思った矢先だった。

「バウッ‼︎」

「え、ちょっうわっ!?」

今の今まで静かについて来ていた送り犬が、突然松二郎の背に向かって押し倒す様に飛びついて来たのである。倒れる際に受け身を取り仰向けになったのはいいものの、犬が牙を剥き出して自分にのしかかっている事にギョッとした。そして何より驚くべきは先程まで普通の犬にしか見えなかった送り犬が、身の丈二メートル程に巨大化した上二つだった眼を六つに増やし、最早犬とも狼とも言えぬカタチに変わっていた事だ。ただついて来るだけの時は感じなかった凶悪かつ鋭い瘴気も持っている。急な変化に松二郎の余裕は一気に崩れた。こけたこけないお構いなしとは聞いても、姿が変わるとは聞いてない。

「ちょ、待て、待てって!佐吉!?佐吉さーん!?」

咬み付きにかかって来るのを辛うじて避ける。なかなか来ない佐吉の救助に、松二郎は些か焦りを覚えた。倒れたまま攻防を繰り返せば圧倒的にこちらが不利。しかし犬…いや、狼だ。狼を退かす力も、狼ごと上体を起こせるほどの腹筋も持ち合わせてはいない。狼は前足で上手く松二郎の体を押さえ付け、今にも喉笛を咬み千切らんとしていた。

「ウェイトウェイト!いや妖怪に英語は通じないか…ってうわっ!危ねぇ!」

狼が再び喉笛に咬み付きかかるのを、寸前の所で鼻を押さえて阻止する。が、狼の息と唾液が首筋に掛かり思わず身を震わせた。まさかここまでとは思っておらず、思わず脳裏に走馬灯が駆け巡りかける。

あ、これ俺死ぬかもしれない。


「そこまでだ、犬」


その時、狼の唸り声の上から聞き慣れた声が降った。その声がすると共に、松二郎にかなりの圧力をかけていた狼の重みが蹴り飛ばされる事によって一瞬にして退かれ、走馬灯を見ていた松二郎はハッと我に返る。そのまま上体を起こすとそこには狼の尻を蹴ったために足を上げた状態の佐吉が立っていた。

「お、遅ぇよ佐吉!」

「お前ならば大丈夫だろうと踏んで、送り犬がどんなものなのか少しあそこで見ていた」

そう言って佐吉が向けた視線の先は、すぐそこの民家の屋根の上だった。いやしかし、謎の買い被りによって自分はピンチに陥ったのかと、松二郎は緊張の糸も解けて深く溜息をついた。

「意外と普通の犬だな」

「いやお前、どっからどう見ても普通の犬と違うだろ!」

「私には犬も奴も同じにしか見えん。おい、何時迄も座ってないでこっちに寄れ」

「お、おう」

佐吉が伸ばした手を掴むと、そのままぐいっと引き上げ立たされる。その時振り返って狼を見ると、突然蹴飛ばされた事に混乱し、狼は突如現れた第三者に狼狽えていた。「下がれ松二郎。ここからは私の役目だ」

「俺何も聞いてないけど、どうするんだ?」

「犬には首輪を付ける。当然の事だ」

そう言って佐吉が取り出したのは紐が繋がれた少し大きめの輪だった。輪を取り出すと同時に狼が再び襲いかかり、咄嗟に反応できなかった松二郎を抱えて佐吉が後ろに飛び避ける。二人が避けた事により、狼の動作に少しの間が空いた。

佐吉はそれを見逃さなかった。ぺいっと松二郎を放り、素早い動きで狼に首輪を付ける。抵抗する間も無く付けられたソレから抜け出そうと狼は躍起になって暴れるが、それは佐吉が許さない。紐をぐいっと引き、暴れるのを押さえ付ける。それはどこからどう見ても人ならざる怪力の成せる技であった。

囮は松二郎しか出来ない。松二郎はただの人間。散々強調した理由はこれにある。


佐吉は人間ではない。

言うなれば送り犬と同じ、妖の類である。時代が進むに連れて人の世を歩く事が困難になった妖達は、方や人の来ぬ山へ逃げ住み移り、方や人間を装い、人間に紛れて生活をしてきた。佐吉は後者である。固より人間と近しい姿の妖であるため、佐吉は人の世に紛れる事を選んだ。

綱引き合戦の様に紐を引き合う両者。そんな中で、街灯の光に当てられ佐吉の額で何かがキラリと光った。

「なぁ、篁さんどうしたんだ?」

「知らん。行くところがあると言っていた。篁が来るまでこいつを抑えるのが私の役目だ」

前髪を分けて突出する二本の銀は、佐吉という男が一体何者であるかを指し示している。

「逃がしはしない」

銀角の鬼……それが佐吉の正体だ。


暴れていた送り狼の動きが鈍った所で、今まで何処へ行っていたのかようやっと篁が姿を見せた。佐吉が抑える狼を見てニタリと笑う。

「うむ、松二郎、佐吉よ、ご苦労であった。そのままにしておれ。この程度の小者ならすぐに終わろうて」

そうして、篁はシュルリと、己の右目を隠す包帯を取り始めた。

今更な話だが…佐吉がそうである様に、人間でないという事は篁にも言える。包帯が外され、右目が姿を現す。開眼したソレは佐吉の角と同じ様に街灯の光を反射させ、鏡の如く佐吉と松二郎、そして押さえ付けられた送り犬を写した。いや、その目は鏡そのものなのだ。

右目に鏡の力を宿し、人の形を成すモノ。篁は雲外鏡と呼ばれる、鏡の付喪神なのである。そしてその眼には、悪しきモノは吸引し封じる力があり、鏡に封じる事は即ち封じられたモノの死を意味する。


ーー骨董屋「津雲屋」は表の顔であり、その正体は妖でありながら妖を退治する…同族殺しの宿命を背負った異端の祓魔師なのだ。

妖は"同族"と"祓う者"の匂いに敏感だ。故に今回、囮になれるのは純粋な人間の松二郎だけだったのである。


「手を緩めるでないぞ」

「愚問だな」

篁は送り狼をじっと見つめ、ブツブツと呪文を唱え始めた。すると右目が反射していた光が一層強くなり、ざわりざわりと吹くはずのない風が立ち始める。

狼は力尽きたのか抵抗する様子は無く、ただ弱々しく、まるで人が泣く様にクゥクゥと高く痛々しい鳴き声を上げていた。見た目こそ変わらないが、先程までの凶悪さは見る影も無い。佐吉に押さえ付けられながらも、必死に逃れようとしてガリガリ爪音を立て後退ろうとする。これで終わりだ、家に帰れる…。そう思い、松二郎は小さく一つ溜息をつこうとした……が、突然今の今まで吹いていた風が止み、一息つくことは叶わなくなる。

「は?」

「篁?何故止める、早くこの犬を封じろ」

「いや…ヨイ。佐吉、その送り犬を放しやれ」

「なっ…!?何を言っている篁!」

「よいからホレ、放しやれ」

頑として聞かない篁に、佐吉は渋々ながらも狼を放す。放された狼はそのままくたりと座り込みんだかと思うと、脱力する様に元のサイズに戻りまたクゥと小さく鳴いた。

「おぉヨシヨシ。手荒くしてすまぬなァ。これに懲りたなら、もう悪さをするのは止めよ。なぁに、主を咎める者はもうおらぬ。静かに山に帰りやれ」

幼子に言い聞かせる様に、宥める様に、篁は犬を抱き、背を撫でながら語りかけた。何故急に篁がその様な行動に出たのか分からず、二人は頭に「?」を浮かべるばかりである。そうしているうちに、篁は徐に口を開いた。

「妖には思念により生まれたものが数多く存在するが…この犬はその類よ。この送り犬は人間に恨みを抱いた犬の思念。しかしその恨みの、何たる哀しきことか」

「…どういう事だ?」

「送り犬は本来山に現れる妖である事は知っておろう。しかしこの犬は山の生まれではない。そうよなァ、"保健所"と言えば分かるか?」

「まさか、捨てられた犬の思念体って事ですか?」

「左様。全てではないが、それが最も多かろう。この犬は…人によって殺される事を恐れておる」

先程からクゥクゥと鳴き続ける送り犬は、本当に泣いている様に思えた。

「来る前に近所で被害に合うた者の家を何軒か回ってみたが、どこも犬を飼った事のある痕跡が見受けられた。松よ、主の家でも昔犬を飼っていた時期があったであろう」

篁の言う通り、松二郎の家では彼がまだ幼い頃に柴犬を飼っていた事があった。松二郎が物心ついた頃には既に老犬で、特に病気も怪我もせず老衰で亡くなったのだが。

「ありますけど…、でもウチは捨てるとか、ましてや虐待なんてした事無いですよ!」

「それは我もよぉく知っておるわ。アレは実に賢い犬であったなァ…。まぁそれはよい。恐らく犬の匂いのみを辿り、あとは見境無しだったのであろ。中には捨てた虐めたをした者もいたであろうがなァ」

いつの間にか、送り犬は鳴き止んでいた。佐吉に押さえ付けられた痛みがまだ残るのか足取りは覚束ないが、四本の足でゆっくり立ち上がる。

「人間とは自分勝手な生き物でなァ、主が怒りに任せて襲うのも無理は無い。我が代わりに主に謝ろ。我の謝罪では物足りぬであろうが、これで許してはくれまいか」

慈しむ様に、篁は送り犬を撫でた。言葉を話さない犬が、何を思ったのかは分からない。しかし、送り犬は篁の頬を舐めたかと思うと、パッと光を放ち一瞬にして消えてしまった。

「これは…成仏?したんですかね」

「さて、なァ。我は封じる力はあれど陰陽道の様に祓う力は持たぬ故、あの犬が消えた理由は分からぬ。が、もう人は襲わぬであろ。夜は冷える、そろそろ帰るとしよう」

しゃがんでいた足を立たせ、篁は踵を返した。風間食堂の方を見れば、店はもう灯りが消えており、家の方の灯りが付いている。

「あーあ、何か俺マロに会いたくなっちゃったよ」

「マロとは何だ」

歩きながら言えば佐吉が反応する。

「ウチにいた柴犬の名前だよ。黒柴だったから額に麻呂眉みたいな模様があってさ。みんなしてマロって呼んでたんだ」

篁が言っていた通り、マロは賢い犬だった。特に父の言う事をよく聞き店が開いている間は看板犬として店先で座っていたものだ。

「食堂に犬とは…どうなんだ?」

「さァ?俺が小学校入ってすぐに死んじゃったし、よく分からん」

ただ、常連客などには良く可愛がられていたのは確かだった。

「次に生まれて来る時は優しい飼い主に会えるといいな」

「…そうだな」

「…お前さ、もしかしてさっき無理に押さえ付けてたの気にしてる?」

「煩い黙れ」

「痛っ!殴る事ないだろ!」

何はともあれ、今日は一件落着。

何だかマロの夢でも見れそうだ、と思いながら、松二郎はその日を終えた。


翌日。

日曜日で学校は無いが、津雲屋に行く事は変わらない。今日も今日とて開店準備に忙しい家を出て、欠伸を噛み殺しながら松二郎は数分の道を歩いた。津雲屋に着き、いつも通り勝手口から入ろうと声をかける。

「…あれ?」

しかし、普段はすぐに開く筈の戸な開かない。もう一声かけて、やっとカタリと鍵が開いた。不思議に思いつつも扉を開けると、今度はそこに家主が立っていて更に驚く。

「うわっ!?どうしたんですか?普段はもう少し遅く起きるのに」

「いや、やけに家鳴りが騒いでいると思うてな。しかし、マァ…そういう事か」

家鳴りとは人の家に住みつく妖怪で、音を鳴らすなどの悪戯 (つまりポルターガイストである)をするが、家神として家を守るとも言われている。普段松二郎が来た時に勝手口の鍵を開けているのは、この家鳴り達だ。

そういう事とはどういう事だ、と思ったが、篁が己の後ろを見ている事に気付き、その視線を追う。そして、松二郎の疑問は解消された。

「お前…ここにいたのか」

「ワンッ」

そこにいたのは、昨晩成仏したと思われていた送り犬だった。元気に尾を降り、昨日までの凶悪さは何処へやら、最早本当にただの犬だ。

「人に恨みを持ちながら、今一度人と触れ合わんとするか。まぁ我は人間ではないが。ふむ…その心意気、買うてやろうではないか。今日より主の名前はサチよ、サチ。津雲屋の看板犬として励むがよかろ」

篁が言うやいなや、送り犬ーーサチは、ワンと一鳴きしてからまだシャッターの閉まる店先へとかけて行った。

「…サチってなんか雌っぽくない?あいつ多分雄ですよね」

「雌だろうと雄だろうと関係無い。アレはサチで決まりよ」

「なんでサチなんです?」

「サチは"幸せ"と書く。なに、思い改めた彼奴の今後に幸多かれと思うてなァ。やれ、なんとまァ我の優しきこと」

「自分で言ったら駄目でしょ…」

その後、起きてきた佐吉にシャッターを開けるのを任せ、佐吉がサチの存在に驚いたのは言うまでもない。

こうして、津雲屋には新しく、看板犬としてサチが加わったのであった。


数日後、木曜日。

昼休みになった途端、弁当箱を持って大音量でやってきた保長に、松二郎は耳を塞いだ。

「松ちゃん松ちゃん!ねぇ聞いてよ!」

「うるっせぇ!そんな大声出さなくても聞こえるっつーの!」

「あぁごめん。でさ、この間話した送り狼の話覚えてる?」

「あぁ、覚えてるよ」

今近所で飼われてるし、とは言わない。

「なんか先週まで騒がれてたのに、パッタリ出なくなったんだって。何処行ったんだろうねぇ」

「…さぁ、何処だろうなぁ」

今頃店先で日向ぼっこでもしているであろうサチを思い浮かべながら、松二郎は弁当を開けた。

妖怪ものを書きたいなーと思って書いたものです。一応短編として書きましたが、またいつか設定を変えてかかもしれません。今の所書くかどうかは未定ですが。


なんだか書きたいものがいっぱいあって困っちゃいます。どれから書けばいいのやら。


ここまで読んで下さり、ありがとうございました。皆様の存在がカムクラの糧となります。もぐもぐ。

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