壱
壱
久賀の西の国、紫原のとある街外れにひっそりと建つ旅籠
もっとも旅籠とは言っても飯盛女のいる多くの旅人でにぎわうようなものではなく近隣の住民もほとんど存在を知らないような処だ。隣の家に住んでいる老夫婦が古い家を宿として提供しているのだがそれも離れほどの広さしかない。またそこは旅人がおとすれることはまずないと言えるほど目立たない場所にあり、山裾の竹林に今にも侵食されそうになっている。
当然そんな場所に旅人が止まることなど稀だ。泊まる客はおしなべて何らかの「訳有り」だった。
そんな旅籠に珍しく客がいた。
「そうか……落ちたのか」
配下の忍の報告を受けながら青年は暗い表情になった。
男らしく整った造作はよく日に焼け、鍛え抜かれているとわかる体やふとした時の武術を骨の髄まで叩きこまれているとわかる体の動かし方から彼がただ者ではないということはすぐわかる。
意志の強そうな濃い眉に見る者が見れば闘志を内包していることが分かる静かな瞳が彼を武人と物語る。
彼は西の大国を統べる大海淳隆の次男、淳真だ。
彼は久賀と伊篠の戦の状況を自ら確かめるなどと周囲に言い、少数の側近達とともに旅にでていた。当然次男とはいえ後継者となる可能性もないわけではなく、補佐としての修行も積んでおり、父や兄をはじめとする周囲からは軒並み反対された。
しかしそれでもこうして旅に出ているのは彼が全く折れず、周囲が根負けしたという結果である。
もっとも彼は齢十八にして大海の中で敵う者などいないなどと言われるほどの優れた武人であり、手合せした天下無双の武人、空絶に『大海の暴龍』といわしめ、天下の武人達にさえ恐れられている。
そのため反対されたとは言っても安全面からではなかったのだが。そうして彼は気ままというには物騒な旅を始め、久賀と伊篠の戦の状況を紫原で探っていた。
伊篠は広大な領地を誇る東の大国の一つである。領地は草原地帯が多く、国に住む人々の多くは放牧をしている。年中強く乾いた風が吹き人々の生活は厳しい。そんな生活に耐え抜いているためか伊篠の民は屈強で特に馬の扱いと弓の扱いに長けている。
伊篠の城主というと厳しい生活を送る民を顧みず、好戦的でろくな策も立てずに数で戦に勝ちにいくような男なので敵味方ともに彼を恨むものは多い。
しかし彼がまだ敵からも味方からも討たれていないのは彼が恐ろしく強いからだ。
また彼が容赦ないことも有名で刃向かう者は一族郎党ことごとく滅ぼされ、娯楽と称して町に火を放ったことも一度や二度ではないという。
対する久賀はというと決して大国ではないが気候が穏やかで民にとっては住みやすく、険しい山の上に立つ城は難攻不落と聞く。
紫原と伊篠という大国の隣にありながら一度も併合されていないのは地の利もさることながらひとえに代々の城主の知略のおかげであるらしい。
現在久賀の城主は六年前に家督を継いだ久賀佳廉で、歳若くもその知略は先代を上回るそうだ。その知略は群を抜き、『久賀の天狐』という二つ名を持つ。彼の存在は近隣大国の武将達に恐れられているほどだ。また武芸に優れているばかりか雅で容姿端麗と、まるで物語の中の人物のような男らしいが残酷な指示を部下に下すこともいとわない面も持ち合わせているという。
国を護るためならどんな事もするという噂まで聞いている
それでも彼は下剋上の憂き目に遭うことはなく国を平穏に治めている。もっとも彼の事だから不穏な動きが配下にあれば即刻叩き潰しているのだろうが。
しかしなぜか彼の治める国の民の評判はすこぶるいい。
厳しい税をかけることも強制的に兵役をかけることもしないが、どんな小さなことでも国のためになることをしたら取り立てられ、褒章を与えられるため民はこぞって彼の目に止まろうとする。
おそらくそれも策のうちなのかもしれないが簡単にできることではない。
兵力差などから単純に考えると伊篠が勝つ戦だろうが相手は久賀だ
どんな策を弄しているかわかったものではない。
しかし戦が始まって幾月かが経ち、ある日淳真は忍から不穏な報告を受けた。
『伊篠の中で何者かが策を練っているようです。兵の動きが、おかしい』
その報告を受けてからだんだんと戦況は久賀の不利に傾いていった。
そしてついに久賀の城が落城した。
淳真が紫原にたどりついて三ヶ月が経っていた。
久賀佳廉もさすがなもので、もはやかなわないと知れば犠牲をおさえるために最小限の兵で立ち向かい、最期まで策を練り続け、自分の首一つで収まるようにしようとしたそうだ。
考え抜かれた陣形のおかげで兵の犠牲も極端に少なく、最終的に業を煮やした伊篠が城に火を放ったそうだが家臣はおろか使用人さえいない空の城の中で一人息絶えていたという。
その死体が身に着けていた溶けた鎧から佳廉と判別されたものの身代わりである可能性も捨てきれないため伊篠の武将たちは血眼になって死んだはずの佳廉を探している。
また城にあったはずの宝はどこかに消え去り落ち武者狩りを始めようとも、もはや親族や臣下達の痕跡はどこにもなく落ち武者狩りを始めようにもできないらしい。
民は今のところおとなしくしたがっているが逆に不自然なほどおとなしいため伊篠の重臣を疑心暗鬼に陥らせているという。
ただ腑に落ちない事に伊篠の中で策を練っていた者が何者かはわからなかったというのだ。
国中で聞くような智将の上をいくような鬼才がいるならとっくの昔に噂になっていてもおかしくはないが、それを隠しおおせているのならそれは相当危ない奴だと淳真は思った。
「一度でいいから音に聞いた久賀の狐と話がしたかったなぁ」
忍をねぎらいつつ淳真は盃を傾けた。
満月でもないのにやけに月の綺麗な夜だった。
会ったことなどないというのになんだか友人を亡くしたような気分になった淳真はつい酒を飲みすぎた。
夜半酔いさましに淳真は月にいざなわれるようにふらりと外に出た。春とはいえまだひんやりとした空気が心地よかった。以外にもこぎれいに手入れされている小さな庭園をそぞろ歩き火照った体を外気に晒しているとどこかからか蹄の音が聞えてきた。
月夜とはいえこんな夜に馬を走らせるとは酔狂な、と淳真は思いつつ乱れたその音がひどく気になったので旅籠の小さな庭から塀を軽々と飛び越えて馬の蹄の音のする方へ向かうことにした。
塀の向こうは狭い道でその向こうには藪がある。
蹄の音は藪の向こうから聞こえてくるようだ。
ためらいなく淳真は薄い着流しで藪を突っ切った。生い茂っている笹や草で足を切りそうなものだが彼は器用に茂みを踏み、藪の向こうの山道に降り立った。
武士の乗るような立派な馬が山道を疲弊したようによろめきながらも走ってくる。その背に何かを乗せて。
淳真は月明かりの中目をこらした。
見えたのは涼やかでいて深い色合いの藍の衣。
うなだれた首とほどけた髪。
手綱に絡まるようにしてぶらりぶらりと揺れる腕。
何者かが鞍の上に倒れている。
もしや、と淳真は思った。
彼ではないだろうか。智将の彼の事だからやはり死んだというのは彼の影で彼自身は逃げおおせていたのでは、と。
民たちの願望なのか各地で久賀佳廉の目撃情報が相次いでいたこともあり、頭ではこんな場所で無防備に馬に揺られているわけがないと冷静に判断を下していたが、その時の淳真は期待なのか直感なのかそれを信じていた。
その者は気を失っているようで馬が跳ねる度に落馬しないのが不思議なほど揺れていた。これまでよく無事だったなと思いつつ淳真は走る馬を止めようとした。するとこんなときでも密かに共にいた忍が馬の手綱を彼より早く掴んで止めた。案外疲弊した馬はあっさり止まり、淳真は馬に駆け寄った。馬からその者を降ろしてみて淳真は驚いた。
馬に乗っていた人間は血にまみれていた。
涼やかな青い着物がところどころどす黒く染まり透けるような白い肌にも乾いた血がこびりついている。
淳真は焦りつつも浅く細い呼吸を確認し、傷を探したがどれも返り血とわかってほっと息を吐いた。
彼はそっとその者を鞍から降ろし、不思議なほどの軽さと柔らかさに思わず息を呑み、腕の中におさまる者をまじまじと見つめてしまった。その者は線の細い男かと思ったが実は若い娘だった。
女にしては髪が短く衣装も戦場にいたかのような直垂だったが男にはもちえないやわらかな肌は女のものだ。
腕の中におさまる娘を見て淳真は一瞬夢と現実の区別がつかなくなったのかと思った。
気を失っているのか昏倒しているのか顔がひどく白く見えるのは月明かりのせいだけではないだろう。
少しふれた頬は驚くほど冷たく一瞬彼女は精巧な人形なのではないかと思ってしまった。
「淳真様、この方はかすが姫と思われます」
一緒にいた忍の一言に淳真は息をのみつつ瞳には彼特有の光をともした。
「かくまわれるのですね……」
付き合いの長い忍は微苦笑を浮かべつつ主の行動を先読みし、鞍以外何もつけていない馬の鞍を手際よく外して馬を解き放つ。
そして抱き上げた『彼女』の脇腹が温く濡れていることに気づいた淳真は慌てて自分の滞在している宿に急いだ。
当然ながら主の運んできた娘に淳真の目付役兼護衛役はいい顔をしなかったが、娘の正体の可能性を聞くと一気に渋い顔になった。
かすがとは伊篠におとされた久賀城の城主・久賀佳廉の妹の名だ。
かすが姫の美しさは有名で淳真の住む遠い大海の国にまで噂が流れてくるほどだった。
舞と歌の名手でありその美しさは神がかっているという。
ただ彼女は体が弱く、公の場に姿を現したことはほぼないそうだ。
その忍が彼女の顔を知っているのはその数少ない公の場に忍び込んだからに他ならない。
ただし先方の忍には気づかれていたようで決死の覚悟で逃げ切ったものの他の忍は皆捕まり、その忍自身も深手を体の各所に負って何日も死の淵をさまよった。
娘は脇腹を刺されていた。
忍でありながら医術の知識のある橒は幸い内臓に傷は達しておらず傷も命にかかわるものではないらしいが血を失いすぎているため油断はできないと判断した。
橒は旅籠の隣に住む老婆に湯と酒を貰い、娘の傷を消毒し、薬研で薬を調合し傷口に塗り、処置をした。
「姫君にはあるまじき血の匂いがします」
治療を終えた橒は淳真にそう呟いた。
「そうか。姫の影武者か」
淳真は質問というより確認するように言った。
「その可能性はありますが、男性の格好で姫の影武者をしているとは思えませぬ。逃亡のためと見るのが自然にございます」
と冷静に橒は返し、淳真は思ったことを口にした。
「お前は本物だと確信しているのか。もし彼女が偽物ならそれもより本物らしく見せる策のうちなのもしれないぞ。それとももしかすると佳廉殿の影武者だったりして?」
その言葉に橒は目を伏せた。
緩やかに流れる長い髪がふわりと揺れて彼女の優しい面差しを包む。
橒は横たわる娘を眺めて小さく微笑んだ。
見る者の心も温かくなるようなその微笑みに控えていた世話役がこっそり顔をそむけるのを気配で感じて淳真はにやりと笑った。
おそらく堅物の世話役の頬は一刷毛紅く染まっているだろう。
「誠、どうした?お前酒は飲んでなかったよな?」
にやにやしつつ淳真は振り向きもせずに言ったが世話役はその問いを黙殺した。淳真の言葉を聞いた橒が熱があるのでは、と気遣わしげに世話役の顔を覗こうとしたがそこは武士の情け。淳真は気にするな、と橒を止めた。
「それもこの方が目覚められた時はっきりするでしょう。あのような雰囲気を持たれる方は国中探しても見つかりますまい」
と橒はかすがを見つめたまま静かに告げた。
「そうか、それなら目が覚めた時が楽しみだな」
と楽しそうに淳真は頷き、
「それと…こちらを御覧になりましたか?」
橒は投げ出された彼女の手をそっと持ち上げる。
「ああ。胼胝だな。相当やってるみたいだ」
彼女の手は姫らしく滑らかで白かったが、見る者が見ればわかる胼胝やら切り傷やらがあった。
その事に言われる前から気付いていた淳真は暢気に笑い、苦労性の世話役は嘆息した。
「淳真。いまさら捨てろと言っても聞かないのでしょう」
ずっと黙って主と忍とのやり取りを聞いていた世話役の誠二郎が口を開いた。
夜中だというのに完璧に袴を着けて正座しているまじめを絵にかいたような男が淳真を切れあがった目で呆れたように見ている。凛とした風貌は険しいが決して威圧的ではない。
誠二郎は淳真が生まれた時から兄弟のように過ごしてきたため主の事をよくわかっていた
特に一度決めたことは梃子でも変えないということはここ十五年で痛いほど
「今捨てれば本物だろうが影武者だろうが伊篠の奴に捕まるだろ」
嫌悪感もあらわに淳真は返した。
彼女がかすが姫の影武者、もしくはかすが姫本人だとしても遅かれ早かれ嬲られて殺される事は明らかだった。
当然大海家の二男として取るべき行動などは無意識のうちに叩き込まれていたが、それ以上に無用に人を死なせるのはしのびない、という思いと長年興味を抱いていた久賀の家の者に会えたかもしれないという期待が彼の胸にはあった。
「わたしは淳真の身の安全の方が大事です。決して気を抜いてはなりません」
世話役は主の内心を知った上で忠告し、気ままな主は笑いながら頷いた。
橒によると彼女の治癒力は高いらしく普通では考えられない速さで傷は癒えているそうだ。
ただ夜になるとひどくうなされて東雲という名を呼ぶらしい。
東雲とは誰なのだろうか。
国に残してきた側仕えか友人か。
はたまた許婚か恋人だろうか、と情報を集めつつ淳真は考えていた。
そして三日後、彼女は目を覚ました。
「……。」
静かに深い色の目を開き、天井を見つめる彼女に淳真は柔らかく微笑みかけた。
「かすが姫か?」
と静かに柔らかな声で問いかける。
彼女は枕の上で首を動かし、ぼんやりした目で枕元に座っている淳真を見るや否や転がるように起き上がると枕で淳真を殴ろうとした。
「おわぁっ!ちょっと待てって。俺は大海淳真!」
慌てて振りあげられた枕を受けととめつつ内心で彼女の反応の速さに舌を巻いた。人並み3倍以上に鍛えている淳真だから受け止められたものの、そんじょそこらの武士くらいでは反応できないうちに殴られていたような凄まじい一撃だった。淳真はそれ以上に目を覚ました彼女の持つ雰囲気の違いに驚いていた。
眠っている彼女は精巧な作り物のようではかなく見たが、目覚めた彼女はそんな雰囲気を一掃していた。
容貌が変わったわけではない。眠っている彼女のその面差しは整っているが神がかった美しさなどと大げさに言われるほどではなかった。しかし目覚めた彼女は清らかで見る者をハッとさせるほど麗しく感じられる。彼女の持つ雰囲気もまた清冽で巫女や斎宮だと言われたなら疑いもせずに信じてしまったかもしれない。さらに何かを喪った者の持つ特有の翳りが彼女の雰囲気をより謎めいたものに変えている。
淳真は彼女の変化に驚いて内心口笛を吹く。一方彼女の突然の暴挙に誠二郎は目つきを鋭くする。
これは影武者の可能性が濃いか……?
普通の姫君ならあんな反射神経で急に殴りかかってくるわけがない
それに顔や雰囲気はかすが姫でも彼女は体が弱いと聞いている……が、なにせあの久賀佳廉の身内だ。どんな真実を隠しているかわかったものではない。
一瞬でそう判断を下し、誠二郎は身構えつつ静観することに決めた。
枕を掴んでいた彼女の手から力が抜け、急に動いたために腹の傷がひどく痛んだのか、彼女は不意に布団に突っ伏して痛みに呻いた。
「おいおい、大丈夫か?俺はあんたを伊篠につきだす気なんてないから安心してくれ。死にかけてたあんたを拾ったのも俺だよ」
淳真がそう言うと彼女は呻きつつ、突っ伏した格好のまま首だけ上げて淳真の顔を見つめた。その瞳に一瞬だけ走った色を読み取ることは淳真にはできなかった。ただそのまま彼女が痛みを殺しつつ礼を取ろうとするので慌ててとめただけだった。
するとかすがは一瞬場にそぐわないほど凪いだ瞳で淳真を見たが、誰も気づかない刹那のうちにその表情は痛みをこらえるものへと変わった。
「申し訳、ございません…私はおっしゃる通り、久賀の君主佳廉の妹、かすがと申します」
かすれた細い声だったがその声の音は凛と涼やかな響きを持っている。
「その言葉を信じる証を持っているか」
淳真は内心胸を躍らせつつ彼女の反応を見ることにした。
「いいえ。ございません。私たちは…戦に敗れ、逃亡中の身でした。身分を明かすような物は持っていないのです」
伏したまま彼女はかすれた声でつづけた。
「佳廉殿もお前達と一緒だったのか」
気になっていたことを淳真は問いかけた。必ずしも真実が返ってくるとは思いもしていなかったし、病床の彼女に聞くのはためらわれる話だったが気づいたころには口に出してしまっていた。
「いいえ……兄は、城に残りました」
伏せられた顔には言いようもない悲哀が浮かんでいる。
「そう言えばお前は舞の名手だと聞いている。傷が治ったなら一度舞ってくれないか」
自分で聞いておいて淳真は話を逸らした。自分が考えの足らずなことを後悔した。すると彼女は突然そんなことを言い出した淳真に訝しげな表情を向けつつも緩く頷き体力が尽きたのかまた瞼を閉じ眠りに落ちた。
「どうだ?」
かすがの枕元にいる忍に淳真は姫に布団をかけてやりながら問いかけたが答えは聞くまでもないとわかっていた。
「間違いございません。この方はかすが姫です」
穏やかな忍は過去に垣間見た彼女を思い返しながら頷いた。
「やっぱりそうか」
「この方の瞳を見て確信いたしました。どんな人間もまねしようとしてまねできるものではありますまい。こればかりはどんな忍にも不可能でございます」
その言葉に淳真は納得したが、誠二郎は軽く首を振った。
「相手は久賀に属するもの。どんなまやかしをしているのかわかったものではない。もう一度この方があなたに手を上げた時は私が切り捨てます。いいですね?」
彼は眉間にしわを寄せたままきつい口調でそう言い、
「……俺は刺客に刺されて死ぬほど弱くねぇよ」
淳真は不敵に口端を吊り上げた。若者特有の傲慢さと強さに裏打ちされた自信をためらいなくひけらかす淳真に誠二郎はきりきりと眉を吊り上げ、咎めるような瞳を向けただけだった。
その日の夕刻、再び起き上がったかすがと淳真は食事を摂った。
もっともかすがは粥を少し啜っただけだったが。
「深手を負っていたのは賊に襲われたからか?」
食事が終わってから淳真はつい気になっていたことを問いかけてしまった。
聞いてしまってから彼女に辛いことを思い出させるようなことを聞いてしまった自分に内心で舌打ちする。本当に自分は人を気遣う力がつくづく欠如している気がする。
「はい」
かすがは表情を変えないまま頷く。やはりその瞳からも表情からも彼女が淳真の問いに対して何を思っているのか、この物事に関してどう思っているのかさえわからない。
「相手が多かったのか」
「ええ。腕の立つ家臣たちも数には勝つことができませんでしたが、忍がその命に代えても私を逃がそうと……」
そう言いつつからかすがは静かに唇を噛んだ。
その時の恐怖がよみがえったのだろう。
もしかするとうなされて呼んでいたのはその忍の名だったのかもしれない。
淳真は少し前の自分を内心ひどく罵りつつも表面上は余計なことを言わずにただ彼女をみつめた。
「深手は負いましたが忍のおかげで逃げる事ができたのです」
俯いて小さな声で境遇を語る彼女を淳真はなんとかして慰めたくなったがこんな時どうしていいのかわからない。
恐らく彼女は戦の顛末を知らない。敏い彼女の事だから悟ってはいるだろうが実の兄が死んだことなど知りたくはないだろう。
自分の帰る場所がなくなったことなど知りたくもないことだろう。
淳真は迂闊に何かを口走って彼女に残酷な真実を知らせたくなかった。
「かすが姫、手に胼胝があるのはなぜだ?」
しかし気になったことはすぐに聞いてしまう性格だ。そんな野次馬の内面を淳真はいつもより疎ましく思った。
「この胼胝は刀稽古によってできたものです。兄とは教養や礼儀作法や乗馬を教わる時もずっと一緒でした。しかし刀の本格的な稽古をするのは兄だけで私は護身術程度でした。それが幼い私は悔しくて護身術を極めようとしたのです。それに目を留めた指南役が、筋がいいといって私にも密かに刀の稽古をつけてくれたのです」
予想とは裏腹にかすがは懐かしそうに微笑みながら語った。
その変化に驚きつつ淳真はほっとした。
「しかし、そのことは父の知れる所となり私は怒られましたが刀の稽古を続けることは許されました……恐らくいざという時自分の身を自分で守れた方がよいと判断したのでしょうね。そのかわりそのことを秘密にするように強く言われ、父は私の体が弱いという偽の情報をそれとなく流したのです」
過去をただ懐かしんでいた声が少し暗い色を帯びた。
「なるほど。事実と反することを流すことで真実を隠したのか」
そのことを少し残念に思いつつ淳真は柔らかく笑った。
「ところでかすが、行くあてがないなら俺の所に来ないか?」
自分で思っていたよりするりとその台詞は流れる。
背後で焦ったように息をのむ世話役の気配がする。
「淳真様!」
普段敬称など付けないくせに、今敬称を使ったということは落ちたとはいえ一国の姫の前で家臣が主を呼び捨てにするのはよくないと思ったからだろう。それ以上に自分の立場を弁えて物を言えと釘をさすためか。
立場くらいわかってるっての、という目を向けるが世話役の眦はつりあがったままだ。
さしずめあの智将の血縁、もしくは関わりのある者に自分の周りをうろつかれるのは危険すぎると言いたいのだろう。
それに関しても同意見だが自分はそこまで弱いつもりはないし策にはまるほど頭が働かないわけでもない。
これは後で一刻は説教されるな、と覚悟しつつ驚いてポカンと目を見開いているかすがに笑いかける。
ここでこんな間の抜けた反応を返してくるならまだそこまで気を張る必要もないのに、と思いつつこれも油断させるための策ならどうしようときりのない疑念が胸の中にたまる。
「別にこれから頼れる家臣の元に行けるとかいうあてがあるならそこまで案内するし」
屈託なく笑って言うとかすがはやはりポカンとしたままの表情で淳真を見つめた。
「なぜですか?亡国の主の縁者などにかかわってどうされるというのです。敵方に突き出して金子にするならまだしも」
かすがの言葉に淳真は先刻彼女に久賀の事を隠そうとしたことがまったくの無意味だったと悟った。
もう彼女は自分の置かれている状況など知っているのだ。
普通の深窓の姫ではない。
兄と張り合うように刀稽古を学んだように様々な知識も身につけたように国のためにあろうと頭脳を働かせていたのだろう。
確かな情報があるわけではない……しかし『知って』いるのだ。
その上で淳真の行動に疑問を抱いている。
「うーん。あんたが佳廉殿の妹だからかな」
淳真は不謹慎だと思いつつ隠さずに本音を返した。意味がわからないと言いたげにかすがの瞳が揺れる。
「兄とあなたに面識はないはずですが?」
橒が淳真を見つめ誠二郎が呆れたように額を覆う気配がする。
「うん、会ったことない。噂とかしか知らない。けど俺は前からあんたの兄さんに会ってみたかったんだ。俺よりいくらか年上なだけなのに一国の主として民を護って、国を護るために手を汚すことも厭わなかった人に」
そう言ってしまってからその台詞は彼女の心の傷をえぐったかとひやりとしつつ彼女を見るときつい眼差しとかちあって思わず息をのむ。
その目が湛えていたのは苛烈な光。
怒りかと思ったがそんな単純なものではない複雑で激しい感情。
初めて見る色に淳真は思わず見とれる。
しかしそんな瞳とは裏腹に彼女は静かな声を出した。
「申し訳ございません。私は明日ここを出ます。お礼は後日いたしますがこのような現状であります故、確約はできません……お礼など信用できないと思われるのなら私を今夜中に伊篠に引き渡して金子に変えなさいませ」
感情の凪いだ、それでいて背筋が伸びるような声に淳真は何も言えなくなった。
明らかに自分の言ったことが悪いとわかり、一刻も早く謝りたいと思うのに彼女の声音はそんなことさえ許してくれない響きを湛えていた。
そこに踏み込む力はあったが今踏み込んでは行けないと感じた。
「大海の若君、兄は必要とあればどんなに非道なこともしてきました。あなたの聞いた噂以上の事もです。噂とは当てになりません。忍達の手によっていかようにも変えられるものなのですから。国の内外を問わず我らの一族のしてきたことを知る者がどれほど我らに恨みを持っているか知らないでしょう。そのような者と関わった結果あなたに害が及んでは、あなたの一族の治める民に顔向けができません」
人の上に立つからには相応の行動をなさいませ、とかすがは締めくくり、この場で首をはねるならはねろとでも言いたげなほど深く礼をする。
女にしては短い髪がパサリと前に垂れて白い首がのぞく。
「おいおい。勝手に決めるなよ!そんな怪我した奴を俺がほっとくと思うのか?」
そう言って淳真はかすがの顔を上げさせた。
かすがの顔に浮かんでいたのは呆れたような表情。先刻自分の言っていたことを聞いていたのかと言いたげな顔だ。
「さっきは悪かった。俺が不謹慎だった。国を護るってのは生易しい事じゃないよな……俺の親父だって人に言えないことしてるし俺もしたことある。俺らはまだ島国だからましだがあんたのとこは陸続きだし、紫原と伊篠に挟まれてるし大変だったんだな。だがな、安心しろよ。あんたは俺と関わっても大丈夫だぞ。なにせ俺は簡単に害されたりしないからな!」
そこで呵々大笑と笑う淳真。対するかすがはあっけにとられた。
自信家なのか豪傑なのかはたまたただのうつけ者なのだろうか
とかすがは半ば本気で思ってしまった。
まだ彼に言いたいことはいろいろあったがなんだか言い返す気力が失せてかすがは結局こう言った。
「では傷が治るまでお世話になります」
案の定淳真は渋い顔をしてえぇー、と不満げな声を出した。