序
序
「佳廉様!やはりここはお逃げくださいませ!」
家臣の常になく緊迫した声が鼓膜を打つ。
どこか遠くで鬨の声がとめどなく上がっている。
鋼のぶつかり合う鋭い音と石火矢の火種が爆ぜる音
風を切り裂いて飛ぶ矢の音に砲弾が長屋を破壊する音
興奮した馬のいななきや硬い蹄の音
鼻につく火薬のにおいに斬られてうめく兵の声
戦場からはまだ遠いというのに
すべてが鮮明に容易に感じ取れる、感じ取れてしまう。
「いまさら戯言を。我が逃げてどうすると言うのだ」
落ち着いた佳廉の声が家臣を少し落ち着かせる。
城主はいつものように平静だった。
城を大国の軍勢に幾重にも包囲されているとは微塵も感じさせない。
いつも身にまとう濃紺の戦装束に豪奢な鎧をまとい、二口の得物を佩びている城主は状況にそぐわないほど優雅に歩を進めている。
その曇りなき眼にはわずかな恐れさえ浮かぶことはない。
ただ作り物めいた白い端麗な面差しが凛と引き締まっている。
「あなたが生き残れば国は滅びませぬ!今からでも遅くは……」
「くどい」
歩む城主は家臣を軽く睨み、家臣は息の詰まるような心地を覚え自然に顔を俯けた。
「……は」
「事が起こる前に重臣や親族はすでに逃がしたではないか。臣下や血が絶えねば国が完全に滅びることはない」
そう言って微笑んだ佳廉は他国でも智将と名高い武将だ。
佳廉はこの戦がどうしようもなく勝てない戦とすでに悟った時点で被害が最小限になるように考え付くすべての手をもうすでにうっていた。
家臣は小さく嘆息し、力ない声音のまま真摯な瞳を城主に向けた。
「あなたを失えば国は立ち直りませぬ!せめて影武者を立てればよかったではありませんか」
その言葉にさえ城主は立ち止まることなく小さく笑った。
「くどいと言っておろう?我が囮でなければ、何の意味もないことがわからぬか」
状況は一瞬たりとも一定ではない
これはもう覆ることのない負け戦
犠牲を最小限にするには最小限になるようにしなければならない
相手は邪魔な臣下や民を皆殺しにすることもためらわないような相手なのだ
「田辺よ、そなたが今ここにいるのもそのため」
この厳しい戦が始まる前まで初孫が生まれるのだとこの上なく嬉しそうだった忠誠心篤い、父の代からの重臣に佳廉は厳かに伝えると重臣は俯けていた面を上げた。
その顔にもはや恐れはなく誇りと誉に輝いている。
城主は一瞬にも満たない刹那、柳眉を悲しげに寄せたが再び肩で風を切って歩くころにはその表情は元のように他を寄せ付けない冷然としたものとなっていた。
佳廉は最小限の兵とともに最後の戦場に向かう。
相手は隣国の大国、伊篠
いくら策を弄しようも膨大な数の前ではほぼ通用しなかった
しかし本来数だけでは策に勝つことなどできない
佳廉には伊篠の中で別の勢力があるように思えて仕方がなかった
確実に何者かが伊篠の城主を隠れ蓑に動いている
しかし久賀を反撃不可能まで追い詰めてからその影はなりを潜め、どれほど忍達を放とうと特定することは不可能だった
ここで散ることに悔いはない
しかし音に聞こえた知将である自分が手も足も出ずにここで散ることだけが無念だった
残された民や臣下を思うとひきつれるような気持ちが胸を覆った
佳廉はゆっくりと首を振った。
ふとすると情に支配されそうになる。こみ上げるような感情を奥歯で噛みつぶし心を静めた。凪いだ心でただ目の前の戦いを見つめる。
沈めていた思考を引き戻し、佳廉は静かに得物を構えた。
◆
後に被害を最小限に食い止めたこの戦は奇跡の負け戦と呼ばれるようになった。
伊篠の主が驚くほどに自国の損害は大きかった。ついに美しい城を攻める多すぎる対価に焦った者達は城に火を放った。
城に放った炎は三日三晩城が燃え尽きるまで燃え続け、その広い城の焼け跡からはたった一人の屍が出てきた。
骨さえろくに残っていなかったその屍は灼熱の炎に焼かれ、熔かされてなお元はさぞや立派だったとわかる鎧を纏っていた。
民達は望みを捨てなかった。
主君は生きていると信じ、そのためか各地で目撃したといううわさが落城後しばらく後を絶たなかった。
臣下や城主の親族はすでにいずこかへと去った後で落ち武者狩りを始めようともどこへ行ったのかの見当さえ浮かばなかったという。
その智将の名は長いこと人々の口の端に上ることとなった。
人々は畏怖の念と尊敬をこめて討たれた城主の事を語った。
どんな状況でも焦ることなく
冷酷な策を眉ひとつ動かさずに臣下に命じ
戦場では風のように素早く、舞を舞うように優雅に刀を振るい
誰よりも多くの敵を屠り
容姿は息をのむほどに端麗で
誰よりも自らの治める国の事を考えていたという
久賀 佳廉という人物の事を……
今後連載していきます。
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