聖女の仮面が割れる音
ツチヤの古びた四畳半アパートは、かつてない熱気に包まれていた。
狭い部屋の三方から、ツチヤを突き刺す視線が飛ぶ。
「……ツチヤさん。私、さっき言いましたよね? 『誰にも渡さない』って」
サキちゃんが、ツチヤの隣に座り直す。その距離は、もはやパーソナルスペースを完全に無視していた。
彼女の手には、いつの間にかツチヤが脱ぎ捨てたパーカーが握られ、なぜか愛おしそうに整えられている。
「サキさん、君は目を覚ますんだ! こんな男、俺が一番よく知っている。情けなくて、無能で、俺がいないと何もできないドブネズミなんだよ!」
宮川が叫ぶ。その声は嫉妬に震えている。
「あら、それを言うなら私の方が適任よ。私、看護師よ? 弱ったおじさんを管理して依存させるなんて、専門中の専門なんだから」
ジュジュが不敵に微笑み、ツチヤの首筋に冷たい指先を這わせた。
その時だった。
サキちゃんが、フッと低く笑ったのは。
「……管理? 依存? ……笑わせないでください。あなたたちは、ツチヤさんの『上辺』しか見ていない。宮川さんは彼を叩くことで自分を確認し、ジュジュさんは彼をカモにすることで優越感に浸っていただけ」
サキちゃんが立ち上がり、二人を冷酷な目で見下ろす。その瞳には、職場で見せていた慈愛の光など微塵もなかった。
「私はね……ツチヤさんが深夜、誰もいないオフィスで『死ね』と呟きながらコードを打っている姿を、ずっと影から見ていたんです。彼が絶望して、酒に逃げて、それでも翌朝ボロボロの体で出社してくる……。その『壊れかけの命』が、愛おしくて堪らなかった」
「……えっ、サキさん……?」
ツチヤが震える声で尋ねる。
「ツチヤさん。私、あなたのPCのログも、SNSの裏垢も、全部把握してますよ? あなたが誰にも見せない呪詛を吐くたび、私の胸はキュンとしたんです。ああ、この人は私にしか救えない。私がこの人を完全に折って、私の腕の中でしか息ができないようにしてあげなきゃって」
サキちゃんが、ツチヤの頬を両手で包み込む。その手は、凍るように冷たく、そして力強かった。
「……宮川さん。あなたはもう、ヒトミ(偽物)ですらない。ジュジュさん、あなたの『お礼』なんて、私が上書きしてあげます。……ツチヤさんを攻略できるのは、現実で彼の闇を一番長く愛してきた、私だけなんです」
サキちゃんの背後に、どろりとした黒いオーラが見えた気がした。
清楚な聖女の皮を被った、「重度の独占欲モンスター」。それがサキちゃんの正体だった。
「……さあ、ツチヤさん。どっちが食べたいですか? 病院の栄養食みたいな冷たいご飯か……それとも、私が一生かけてあなたを甘やかす、毒入りの愛か」
サキちゃんがキッチンから持ち出してきたのは、ツチヤが愛用していた、油ぎった「包丁」だった。彼女はそれを優雅に指先で転がし、宮川とジュジュを威嚇する。
「ひっ、……あ、あはは……。……しっちゃか、めっちゃか、どころじゃないぞ、これ……」
ツチヤは、新しい人生の門出に、とんでもない地獄のヒロインを召喚してしまったことに気づいた。
だが、
サキちゃんに抱きしめられたその感触は、狂おしいほどに安心感を与えてしまうのだった。




