エピローグ:それでも明日を攻略する
一ヶ月後。
ツチヤ(49)は、いつもの駅前のベンチに座っていた。
スーツ姿ではない。少し草臥れたパーカーに、安物のジーンズ。手元にあるのは、あの「純米大吟醸」ではなく、再び一番安い日本酒の紙パックだ。
結局、ツチヤは会社を辞めた。
宮川の不正を暴いた英雄……とはいかなかった。不法侵入まがいのデバッグとSNSの誤爆、そして勤務中の飲酒。会社側も彼を置いておくわけにはいかなかったのだ。
だが、不思議と後悔はなかった。
「……あー、美味い」
喉を焼く安い酒の味が、今は心地よい。
ツチヤはスマホを取り出した。画面には、サービス終了が決定した『幻想のアルカディア』のアイコンがある。
ログインすると、誰もいない広場に自分のキャラ「しゃけ」が立っていた。
ほどなくして、一人のキャラが近づいてくる。ジュジュだ。
中身が欲深な看護師だと知っても、このドット絵の姿には愛着があった。
『しゃけ様、本当に最後だね』
「ああ。……ジュジュ、お前も元気でな。あんまり患者をカモにするなよ」
『……ふふ。少しは反省してるよ。じゃあね、最強の騎士様』
ジュジュのキャラが消える。
続いて、画面の端にいたヒトミのキャラも、運営の凍結処置(宮川の解雇に伴うものだろう)によって、霧のように消えていった。
ツチヤは、アプリをアンインストールした。
「……さらば、俺の数百万。さらば、俺の虚構」
「ツチヤさん、やっぱりここにいた」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこにはサキちゃんが立っていた。
彼女は会社帰りなのか、以前よりも少し晴れやかな顔をしている。
「サキさん。……わざわざ、どうしたんですか。俺、もうただの無職のおじさんですよ」
「知ってます。……でも、ツチヤさんに返さなきゃいけないものがあったので」
サキちゃんが差し出したのは、一本のチョコレート。
あの日、地獄のようなオフィスでくれたものと同じだ。
「これ……」
「これ、内緒ですよ? ……ツチヤさん、次の仕事、決まったんですよね。今度は派遣じゃなくて、小さいけどアットホームな開発会社だって」
「……ええ。サキさんの紹介がなきゃ、無理でした」
「ふふ。……今度は、夢の中じゃなくて。現実で、私の勇者になってくださいね?」
サキちゃんが小さく笑い、歩き出す。
ツチヤはその背中を追いかけようとして――不意に、激しい痛みが肩に走った。
「……痛たたた! ……くっ、五十肩が……」
「もう、台無しですよツチヤさん!」
サキちゃんが噴き出すように笑う。
夢の中の聖女のように完璧じゃない。現実のサキちゃんは、少しだけ口が悪くて、とても温かかった。
ツチヤは、痛む肩を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。
数百万を失い、職を失い、それでも彼の手には「明日」という名の新しいクエストが残されていた。
夜空を見上げると、月が綺麗だった。
もう、夢を見るための酒はいらない。
現実が、どんなにしっちゃかめっちゃかな地獄でも。
「……よし、行くか」
49歳、ツチヤ。
彼は今日、偽物の呪詛を捨て、本物の一歩を、地獄の先にある光へと踏み出していった。




