第8話 まだ見ぬ君へと、交わした小さな約束
【令和2年】
夜が更け、家の中の音がすべて眠ったように静まり返っていた。
信介と美緒は、縁側に並んで座り、最後の一冊に近づいたノートを開いている。
「……ここから、字が少し変わるね」
美緒が言った。
「ああ。
父さん、誰かに話しかけるみたいに書いてる」
信介は、ゆっくりと読み上げる。
⸻
【昭和50年】
『今日は、美咲のお腹に、はっきりと手を当てた。
まだ何も感じないが、そこに“君”がいると思うだけで、胸がいっぱいになる。』
夜。
布団の中で、美咲は仰向けになり、京介はその隣にそっと横になる。
「京ちゃん……そんなに見つめたら、恥ずかしいよ」
「いや……ちゃんと、挨拶しとこうと思って」
京介は、お腹に手を当て、小さな声で話しかけた。
「……まだ、何もできない父さんだけどな。
約束するよ。
君のお母さんを、大切にする。
それだけは、絶対に守る」
美咲は、驚いたように京介を見てから、静かに微笑んだ。
「それ、いちばん大事な約束だと思う」
京介は照れたように視線を逸らしながら、日記にこう書いた。
『父になる前に、夫であり続ける。
それが、僕の出した答えだ。』
⸻
【令和2年】
信介は、言葉を失っていた。
しばらくして、ゆっくりと息を吐く。
「……父さん、俺にじゃなくて、母さんに誓ってたんだな」
美緒は静かに頷く。
「でも、それが信介につながってる」
信介は、ノートを胸に抱えた。
「……俺、やっと分かった気がする。
父さんが、なんで最後まで母さんの話しかしなかったのか」
「うん」
「俺に残したかったのは、
“生き方”だったんだな」
しばらくの沈黙のあと、信介は美緒の方を向いた。
「……俺たちも、約束しない?」
美緒は少し驚いた表情を見せ、それから静かにうなずく。
「どんな?」
「まだ先のことは分からないけど……
お互いを、ちゃんと大事にするってこと」
美緒は、信介の手を強く握った。
「……うん。
それなら、私も守れる」
縁側に、夜風が通り抜ける。
昭和50年から、令和2年へ。
言葉は形を変えても、想いは確かに受け継がれていた。
信介は、そっとノートを閉じた。
だが、その裏表紙の内側には──
まだ、誰にも読まれていない一文が、残されていることに気づいていなかった。




