第6話 春の知らせと、父が書けなかった一行
【令和2年】
夜。
実家の縁側に、虫の声が控えめに響いていた。
信介はノートを膝に置いたまま、しばらく黙り込んでいる。
「……この辺りから、空気が変わるな」
美緒が隣でそう言った。
「うん。
父さんの字が、ちょっとだけ慎重になってる」
信介はページをめくる。
そこには、昭和50年の春の日付が記されていた。
⸻
【昭和50年】
『最近、美咲が少しだけ疲れやすい。
朝、顔色が違う日がある。
心配だが、余計なことは言わないでおこう。』
京介は、いつもより早く仕事を切り上げて帰宅した。
夕暮れの台所で、美咲は椅子に腰掛け、湯呑みを両手で包んでいる。
「おかえり、京ちゃん」
「……今日は早いな。大丈夫か?」
美咲は一瞬だけ迷うような表情を見せ、それから小さく笑った。
「うん。大丈夫」
だが、その声には、どこか決意のようなものが混じっていた。
数日後。
春の雨が静かに降る午後。
美咲は、京介の前に正座した。
「京ちゃん……話があるの」
京介は姿勢を正す。
「うん」
美咲は、少しだけ息を整えてから言った。
「もしかしたら……赤ちゃん、できたかもしれない」
一瞬、時間が止まったように感じた。
「……え?」
京介は言葉を失い、美咲の顔をじっと見つめる。
「まだ、ちゃんとは分からないけど……
でも、体が、いつもと違うの」
沈黙のあと、京介は立ち上がり、美咲の前に膝をついた。
「……ありがとう」
それだけ言うと、声が震えた。
「俺……ちゃんと父親になれるかな」
美咲は、驚いたように目を見開き、それから優しく笑った。
「もう、なってるよ。
だって、こんなに真剣な顔してる」
その夜、京介は日記を開いたが、
そこには、たった一行しか書けなかった。
『今日は、言葉が追いつかない。』
⸻
【令和2年】
「……父さん」
信介は、その一文を指でなぞった。
「この先、いっぱい書いてきた人なのに……
この日は、書けなかったんだな」
美緒は静かに言う。
「それだけ、大きな出来事だったんだよ」
信介は、ノートを閉じ、しばらく考え込んだあと、ぽつりと言った。
「俺さ……
父さんが、俺の誕生をどう受け止めたのか、
ちゃんと知れてよかった」
「うん」
「……だから、ちゃんと向き合おうと思う」
美緒が、信介を見る。
「何と?」
信介は、少し照れながらも、まっすぐに言った。
「俺たちのこれからに」
縁側の向こうで、夜風が庭木を揺らした。
時代は違っても、
誰かを想って悩み、守ろうとする気持ちは、確かに受け継がれている。
信介は、再びノートを開く。
次のページには──
昭和50年、父が“父になる覚悟”を書き始めた日々が、静かに続いていた。




