第5話 妻の胸に芽生えた、小さな決意
【令和2年】
夕方の光が、障子越しにやわらかく部屋を染めていた。
信介はページをめくる手を、ほんの一瞬だけ止めた。
「……次、美咲さんの話みたいだ」
美緒は静かにうなずく。
「今までずっと、京介さん目線だったもんね」
信介は頷き、ゆっくりと次の行を読む。
そこには、いつもより少し整った、丁寧な文字が混じっていた。
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【昭和50年】
『今日は美咲が、めずらしく長い時間、黙っていた。
夕飯のあと、日記を書いている僕の隣で、何かを考えている顔をしていた。』
その夜。
ちゃぶ台を片付けたあと、美咲は湯呑みを両手で包み込み、ぽつりと言った。
「ねぇ、京ちゃん」
「どうした?」
「私ね……この家を、もっと“帰りたくなる場所”にしたい」
京介は少し驚いた顔で美咲を見る。
「今でも十分だよ」
「ううん。
京ちゃんが疲れて帰ってきたとき、
“ああ、ここに帰ってきてよかった”って、もっと思ってほしいの」
美咲の声は穏やかだったが、その瞳には強い想いが宿っていた。
「お味噌汁の出汁とか、部屋の匂いとか……
そういう小さなことでいいから」
京介は、ゆっくりと笑った。
「美咲は、もう十分すぎるくらいやってるよ」
「でもね」
美咲は少しだけ視線を伏せ、続けた。
「京ちゃんが、私に“守る”って言ってくれたみたいに、
私も京ちゃんを守りたいの」
その言葉に、京介は何も言えなくなった。
ノートには、こう記されている。
『この人は、僕に守られているだけじゃない。
僕を守ろうとしてくれている。
それに気づいた夜だった。』
⸻
【令和2年】
信介は、深く息を吸った。
「……母さんも、父さんを守ろうとしてたんだな」
美緒は静かに言う。
「夫婦って、どっちか一方じゃないんだね」
「うん……
俺、母さんのこと、もっと知りたくなった」
ノートの次のページには、
“美咲が初めて書いた、短い一文”が貼り付けられていた。
それは、京介の日記とは別の紙だった。
『今日も、京ちゃんが無事に帰ってきますように。』
信介は、その一文を見つめながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「……俺たちもさ」
「うん?」
「こういう関係でいられたらいいな」
美緒は、静かに微笑んだ。
「もう、なってると思うよ」
信介は照れたように視線を逸らし、
それから、また次のページをめくった。
そこには──
昭和50年の春、家族が増える予感が、そっと書き始められていた。




