第3話 初めて見せた涙と、ふたりをつなぐ灯り
【令和2年】
古びたノートの次のページをめくった瞬間、信介は息をのんだ。
行間の温度が、明らかに違う。
父の字は普段より少し震えていて、ページの最初には短くこう書かれていた。
『忘れたくない夜がある。』
美緒がそっと信介の横顔を見る。
「……これ、何があったんだろう」
信介は静かにうなずき、続きを目で追った。
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【昭和50年•回想】
その日の夕方、京介は仕事から急いで帰ってきた。
雨が降り始め、街灯の下はぼんやりと濡れている。
アパートの前に着くと、灯りがついていない。
美咲はいつも帰りを待ってくれているのに──珍しい。
不安が胸に湧き、京介は鍵を回してドアを開けた。
「美咲……?」
暗い台所。
電気をつけると、部屋の隅に美咲が小さくうずくまっていた。
「美咲!」
慌てて駆け寄ると、美咲は涙で濡れた目を上げた。
「ご、ごめん……京ちゃん……」
「どうした?どこか痛いのか?」
首を横に振る美咲。
震える声で言った。
「今日、大家さんに……“若いのに節約が足りない”って叱られちゃって……
私、そんなに無駄遣いしてたのかなって……
京ちゃんに迷惑かけてたらどうしようって思ったら……急に怖くなっちゃって……」
京介は胸がきゅっと締めつけられた。
そんなことで責められて、ひとりで泣いていたなんて。
そっと抱き寄せ、背を撫でる。
「違うよ、美咲。
美咲はよく頑張ってる。俺なんて……ほんとはもっと稼ぎたいのに、不甲斐ないだけだ」
「そんなことないよ……京ちゃんは、私の自慢の旦那さんだよ……」
涙声のまま、そう言ってくれた美咲の肩が、京介の胸の前で小さく震えている。
京介はぎゅっと抱きしめた。
「俺が仕事で疲れて帰ってきて、家があたたかいのは、美咲がいるからだよ。
……俺の方が、美咲に助けられてばっかりなんだ」
美咲はさらに涙をこぼしながら、京介の胸に顔を埋めた。
その夜、二人は明かりを少しだけ落とし、肩を寄せ合って座った。
美咲が落ち着くまで、京介は何も言わず、ただそばにいた。
ノートにはこう結ばれていた。
『あの夜、美咲の涙を見て、僕は決めた。
どんな小さな不安も、美咲ひとりに抱えさせない。
──この人を、一生守ると。』
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【令和2年】
「……父さんってさ」
信介がぽつりと呟いた。
「母さんを守るって、ちゃんと決めてたんだな……こんな若い頃から」
美緒はページに指をそっと触れる。
「信介、これ……すごく大事な夜だね。
二人が“夫婦になった”瞬間みたい」
信介はうなずいた。
心の奥にジンとくるものがあった。
「……今まで、親を“夫婦”として見たことなんてなかったけどさ。
こういう時間を積み重ねたから、俺が生まれたんだよな」
美緒は微笑み、信介の肩にもたれた。
「ねぇ、次のページも読んでみる?」
「……ああ。知りたい。
父さんと母さんが、どんなふうに愛し合ってきたのか」
信介はそっとページをめくる。
その先には、新婚生活の中でも特に大切に書かれた
──“美咲が初めて見せた笑顔の理由”が綴られていた。




