プロローグ:聖女の噂と、工房の日常
忘却の森からフィリアンネを連れ帰り、路地裏に再び穏やかな時間が流れるようになって久しい初夏。工房『星見草』とその周辺は、新緑の輝きと、人々の穏やかな笑顔で満ちていた。
ルカは、工房を訪れる人々の心の染みに寄り添いながら、癒やし手としての経験を重ね、少しずつ自信をつけていた。フィリアンネから学ぶエルフの古い知恵や、自身の能力の新たな側面(魂の響きや時間の染みを感じ取る力)との向き合いは、彼の世界をさらに深く、豊かなものにしていた。
恋人となったミーナとの関係も順調そのものだ。工房で一緒にお茶を飲んだり、庭のハーブの手入れを手伝ってもらったり。そんな何気ない時間が、ルカにとっては何よりの宝物だった。彼女の太陽のような笑顔は、彼の心をいつも明るく照らしてくれる。
フィリアンネも、セレネフィアの穏やかな空気の中で、すっかり心身の力を取り戻していた。時にはルカの仕事を手伝い、時にはリラやフィンにエルフの物語を語り聞かせ、時にはゴードンと木材談義に花を咲かせる。その姿は、もはや神秘的なエルフというだけでなく、工房の温かい「家族」の一員そのものだった。
ゴードンとフィンの工房からは、以前にも増して活気のある槌音が聞こえてくる。リラは工房の庭を元気に駆け回り、シロップは陽だまりで気持ちよさそうに昼寝をしている。まさに、絵に描いたような平和な日々だった。
しかし、そんな穏やかなセレネフィアに、最近、一つの大きな噂が波紋のように広がり始めていた。
王都から、「奇跡の力を持つ」と評判の、若く美しい“聖女”がやってくる、というのだ。
彼女の名はセレスティア。触れるだけで病を癒やし、その言葉は人々の心に深い安らぎを与えるという。行く先々で熱狂的な歓迎を受け、特に、既存の神殿の権威に疑問を持つ民衆の間では、救世主のように崇められているらしい。彼女は、慈善活動と巡礼の一環として、近々このセレネフィアにも滞在するという。
「聖女様だって! すごい人が来るんだね、ルカさん!」
ミーナは、純粋な好奇心で目を輝かせている。路地裏の住民たちも、「どんな方なんだろう」「本当に奇跡を起こせるのかしら」と、期待と興味で持ちきりだ。
しかし、ルカはその噂に、一抹の、拭いきれない不安を感じていた。
(奇跡の力……? 本当に、そんな力が……)
人の心を癒やすことの難しさ、そして力の代償を知っているからこそ、簡単に「奇跡」という言葉を信じることはできなかった。
工房でその話を聞いたフィリアンネも、静かに眉をひそめた。
「奇跡、ですか……。真の癒やしとは、本人の魂の輝きを呼び覚ますこと。外から与えられる安らぎは、時に……より深い依存や、偽りの平穏を生むこともあります。……少し、気をつけた方が良いかもしれませんね」
彼女の言葉には、永い時を生きてきたエルフならではの、深い洞察と警戒が滲んでいた。
セレネフィアの穏やかな空気に、ほんの少しだけ、これまでとは違う種類の、甘美で、しかしどこか不自然な光の気配が混じり始めたような気がした。ルカは、胸の中に生まれた小さな疑念の染みを、注意深く見つめていた。




