永劫の放浪 ~凍てついた涙と、一握りの温もり~
「大いなる喪失」の後、かつて光と歌に満ちていたエルフの森は、深い沈黙に包まれた。精霊たちの声は聞こえず、聖なる植物たちは枯れ果て、空は常に鉛色の雲に覆われているかのようだった。まるで、森全体がフィリアンネ自身の凍てついた心を映し出しているかのようだった。
フィリアンネは、変わり果てた故郷を、ただ茫然と見つめることしかできなかった。失われた力では、森を再生させることも、ライエルが命と引き換えに封じた『影』の脅威に立ち向かうこともできない。ライエルが最後に託した「星々の歌」の意味を探す気力さえ、今の彼女には残っていなかった。
彼女に残されたのは、胸元で微かに温もりを放つ、ライエルが遺した月涙花のペンダントと、終わりのない絶望、そして、何も守れなかった自分自身への、消えることのない罪悪感だけだった。
フィリアンネは、静かに、誰に告げるでもなく、沈黙の森を後にした。当てもなく、ただ、この凍てついた心から逃れるように。彼女の終わらない冬が、ここから始まった。
***
それから、どれほどの時が流れたのだろうか。百年か、三百年か、あるいは千年近くか。エルフにとって時間は悠久の流れだが、フィリアンネにとっては、それはただただ長く、色彩のない、空虚な「時間の砂漠」を歩むような日々だった。
彼女は、人間の国々を渡り歩いた。王朝が興り、滅び、新たな文明が生まれては消えていく。その繰り返される営みを、フィリアンネは感情を凍てつかせたまま、ただ傍観していた。美しい山々や、豊かな森、きらめく湖を目にすれば、かつての故郷とライエルの面影が蘇り、胸を抉るような激しい痛みに襲われた。そんな時は、ただ人気のない場所で、嵐が過ぎ去るのを待つように、じっと耐えるしかなかった。
短い命を、それでも懸命に生きる人間たち。彼らの放つ、喜びや悲しみ、怒りや愛といった、色鮮やかで激しい感情の「染み」は、フィリアンネにとって、あまりに眩しく、そして痛々しかった。時には、偶然出会った人間から、思いがけない親切や、純粋な優しさを向けられることもあった。忘れかけていた温もりに触れ、凍てついた心が、ほんの一瞬だけ、緩みそうになる。
例えば、旅の途中で病に倒れた時、見ず知らずの老婆が、自分の食料を分け与え、献身的に看病してくれたことがあった。老婆の皺だらけの手の温かさと、その心から発せられる、見返りを求めない慈愛の光(柔らかな金色の染み)に、フィリアンネは戸惑い、そして、忘れかけていた涙を流した。
またある時は、森で迷子になった人間の子供を見つけ、つい、放っておけずに村まで送り届けてあげたことがあった。子供が、別れ際に、拙い手つきで作った草の花輪を「お姉ちゃん、ありがとう!」と笑顔で渡してくれた。その無垢な笑顔と、感謝の気持ちを示す純粋な光(キラキラとした黄色い染み)に、フィリアンネの心は強く揺さぶられた。
しかし、そうした温かい出会いは、必ず「別れ」という名の痛みを伴った。短い命の人間たちは、あっという間に彼女の前から去っていく。その度に、ライエルを失った時の、あの根源的な喪失感が蘇り、彼女の心を再び深く傷つけるのだ。
(もう、誰とも関わりたくない……。心を動かしたくない……)
フィリアンネは、ますます心を閉ざし、他者との間に見えない壁を築いていった。孤独と諦念。それが、彼女を永い時間から守るための、唯一の鎧となっていた。
そんな彼女にも、時折、奇妙な癖があった。人間たちの街で、流行り廃りを繰り返す、不可解な「流行」を目にすると、つい足を止めて観察してしまうのだ。人々が熱狂する甘味、奇妙な形の衣服、意味の分からない言葉遣い……。
(……全く、人間というのは、不可解な生き物ですわね……)
内心で呆れながらも、その無邪気で、ある種滑稽でさえある熱狂の中に、自分が失ってしまった「生の実感」のようなものを、無意識のうちに探していたのかもしれない。
また、どういうわけか、単純な道で方向感覚を失い、目的地とは全く違う場所に出てしまうことも、稀にあった。
(あら……? おかしいですわね……この道は、先ほども通ったような……)
永い時を生き、自然の声を聞けるはずのエルフとしては、ありえない失態。それは、深い心の傷が、彼女の本来の感覚を鈍らせている証拠なのかもしれなかった。そんな時は、誰に見られるでもなく、小さくため息をつき、自嘲めいた笑みを浮かべるのだった。
涙も枯れ果てたかのように思われた、永い、永い放浪。フィリアンネの心は、深い雪の下で春を待つ種子のように、ただ静かに、時が過ぎるのを耐え忍んでいた。
***
どれほどの年月が過ぎ去ったのか。フィリアンネ自身にも、もう定かではない。ただ、風の吹くままに歩き続け、彼女はいつしか、古都セレネフィアと呼ばれる、人間の都市の近郊にたどり着いていた。
その日、彼女は疲れ果て、雨露をしのげる場所を探していた。そして、街のはずれにある、打ち捨てられた古い屋敷の敷地へと、引き寄せられるように足を踏み入れた。蔦が絡まり、庭は荒れ放題。ここにもまた、失われたものの残骸があるだけだ。フィリアンネは、重い足取りで、荒れた庭を歩いた。
その時だった。
崩れた石壁の隙間、瓦礫の下から、健気に顔を覗かせている、一輪の白い花が、彼女の目に飛び込んできた。
星の形をした、可憐な花。
周囲の荒廃にも負けず、春の淡い光を一身に受け、凛として咲いている。
(……あ……)
フィリアンネは、息を呑み、その場に立ち尽くした。
星見草。人間の土地でそう呼ばれる花。しかし、彼女の目には、それが故郷の庭園で愛した「月涙花」の面影を強く宿していることが、瞬時に分かった。清らかな気配、星屑のような純白。
数百年間、凍てついていたはずの心の湖に、激しい衝撃が走った。堰を切ったように、忘れていたはずの感情が、濁流となって押し寄せる。ライエルと共に月涙花を育てた日々の記憶。彼の優しい笑顔、温かい声、失われた聖域の輝き……。
「……ライエル……っ!」
枯れたと思っていた涙腺から、熱い涙がとめどなく溢れ出した。嗚咽が漏れるのを、止めることができない。永い、永い間、心の奥底に押し込めてきた悲しみが、この小さな花の姿をきっかけに、一気に噴き出したのだ。
どれほどの時間、彼女はそこで泣き続けたのだろうか。
やがて、涙が少しだけ収まった時。フィリアンネは、改めて、目の前の星見草を見つめた。
瓦礫の下から、それでも懸命に咲こうとする、小さな、しかし力強い生命の輝き。それは、絶望の闇の中に差し込んだ、一筋の光のように見えた。ライエルが最後に託した「希望」という言葉が、この花の姿を借りて、今、彼女の前に現れたかのようだった。
(……この花を……守らなければ……)
それは、衝動であり、啓示であり、そして、彼女自身が再生するための、最初の小さな一歩だった。
フィリアンネは、震える手で、そっと星見草の周りの瓦礫を取り除き始めた。そして、この場所に留まり、この花を守り育てることを、強く、強く、心に誓った。
永い冬の時代を経て、フィリアンネの心に、ようやく、春の訪れを告げる、小さな小さな、希望の光が灯った瞬間だった。この古都の片隅で、彼女の止まっていた時間が、再び動き出そうとしていた。




