ゴードンさんの苦手なものと、特製ハーブティー
その日の古都セレネフィアは、珍しく朝から霧雨が降り続き、石畳をしっとりと濡らしていた。肌寒い空気が路地裏にも流れ込み、いつもは活気のある職人街も、どこか静かに感じられる。
ルカが工房『星見草』で、乾燥ハーブの整理をしていると、隣のゴードンの工房から、いつもと違う気配が伝わってきた。普段なら、朝から木材を削る小気味よい音や、金槌を振るう力強い音が聞こえてくるはずなのに、今日は妙に静かだ。
気になって【ハート・スコープ】で意識を向けてみると、ゴードンの心の周りに、どんよりとした重たい灰色の靄のような染みが漂っているのが見えた。体調が優れない時に現れる典型的な染みだ。しかし、それだけではない。その灰色の靄の合間から、まるで静電気のように、チリチリと音を立てるような、苛立ちを示す赤い染みが時折、火花のように散っている。
(ゴードンさん、具合が悪いのかな……? それで、イライラしてる……?)
普段、少々のことでは動じない、岩のように頑健なゴードンが体調を崩すのは珍しい。むしろ、彼自身、体の不調に慣れていないせいで、どう対処すればいいのか分からず、余計に気が立っているのかもしれない。
ルカは少し心配になり、フィリアンネから教わったレシピの中から、体を温め、気分を落ち着かせる効果のあるハーブティーを用意することにした。ジンジャー、レモンバーム、そして少量のエルダーフラワーをブレンドし、温かい湯気を立てるカップに注ぐ。ふわりと、爽やかで優しい香りが工房に広がった。
「ゴードンさん、少しよろしいですか?」
ルカは、お盆にカップを乗せて、隣の工房の扉をそっと叩いた。
「……なんだ」
中から、いつもよりさらに低い、くぐもった声が返ってくる。ルカが扉を開けると、ゴードンは作業台の前に置かれた古びた椅子にどっかりと腰を下ろし、腕を組んで眉間に深い皺を寄せていた。顔色も心なしか悪い。
「あの、少し体が温まるかと思って、ハーブティーを淹れてきました。よかったらどうぞ」
ルカは努めて穏やかに声をかけ、カップを差し出した。
ゴードンは、ルカとお盆の上のカップを、訝しげな目で交互に見比べた。
「……ハーブティーだと? ……ふん、余計な世話だ」
ぶっきらぼうに言いながらも、彼は差し出されたカップを受け取った。湯気の立つカップから漂う、甘く優しい花の香りに、ゴードンの眉間の皺が一瞬、さらに深くなったように見えた。
彼は、ためらうようにカップに口をつけたが、一口飲んだ途端、顔を盛大にしかめた。
「……っ、なんだ、この妙な味は! 花みてぇな匂いがしやがって……。俺ぁ、こういう洒落たもんは好かんのだ!」
まるで苦い薬でも飲んだかのように、ゴードンはカップをテーブルに叩きつけるように置いた。彼の周りの苛立ちを示す赤い染みが、バチッと音を立てて弾けたように見えた。
「あ……すみません、お口に合いませんでしたか……」
ルカは思わず謝り、少ししょんぼりとした。良かれと思ってやったことが、かえって彼の機嫌を損ねてしまったようだ。
(やっぱり、余計なお世話だったかな……)
そう思いながら、ルカは改めて【ハート・スコープ】でゴードンの心の染みを注意深く観察してみた。すると、奇妙なことに気づいた。ゴードンはハーブティーの味そのものに強い嫌悪感を示しているわけではないようだ。むしろ、彼の心の染みは、特定の香り――おそらく、ブレンドしたエルダーフラワーの、あの独特の甘いフローラル系の香り――に触れた瞬間、まるで古い傷に触れられたかのように、歪んだ形にねじれ、冷たい拒絶の色を帯びるのだ。
(この香りが……苦手? いや、何か……嫌な記憶と結びついているのか……?)
フィリアンネは言っていた。「香り」は、時に人の記憶や感情と強く結びつき、心の奥底に眠る染みを刺激することがある、と。ゴードンにとって、この甘い花の香りは、何か過去の辛い出来事を思い出させるのかもしれない。
ルカは、ゴードンに気づかれないようにそっと工房を出ると、自分の工房に戻った。そして、今度はブレンドを変えてみることにした。エルダーフラワーは外し、代わりに体を温めるジンジャーを少し多めに、そしてレモンバームで爽やかさを加え、最後に、ゴードンが以前「いい香りだ」と言ってくれた、白檀の木片をほんの少しだけ削り、香りづけに加えた。白檀の静かで落ち着く香りが、ジンジャーの刺激を和らげ、全体として男性的な、すっきりとした香りのハーブティーになった。
「ゴードンさん、すみません、もう一度だけ……」
ルカは、新しいカップを持って再びゴードンの工房を訪れた。
ゴードンは、また来たのか、と呆れたような、面倒くさそうな顔をしたが、ルカが差し出すカップから漂う香りが先ほどと違うことに気づいたのか、少しだけ訝しげな表情を見せた。今度の香りは、甘ったるくなく、どこか森の中の寺院を思わせるような、静かで落ち着いた香りだ。
「……なんだ、またか。懲りねぇ奴だな」
文句を言いながらも、ゴードンは再びカップを受け取った。そして、今度は用心深く、ゆっくりと一口含む。
しばらくの間、ゴードンは黙って口の中の味と香りを確かめるようにしていたが、やがて、ふう、と息をついた。
「……まあ、これなら……飲めんこともない」
そう言って、彼はもう一口、ハーブティーを飲んだ。彼の表情はまだ硬かったが、眉間の皺は少しだけ和らいでいる。ルカには、彼の心の灰色の靄がわずかに晴れ、チリチリとした赤い染みが小さく萎んでいくのが見えた。白檀の静かな香りが、彼の荒れた心を少しだけ鎮めてくれたのかもしれない。
「よかったです」
ルカは、ほっと胸をなでおろした。
ゴードンは、それ以上何も言わなかったが、ルカが工房を出るまで、黙って温かいハーブティーをゆっくりとすすっていた。
***
数日後。すっかり体調を取り戻したゴードンは、いつものように工房で木材と向き合っていた。
その日の午後、ルカが工房で依頼人の相談を受けていると、ふと、自分が座っている椅子の座り心地が、以前よりもしっくりくることに気づいた。不思議に思って椅子をよく見てみると、少しガタついていた脚の部分が、綺麗に補強され、座面も磨き直されている。
(……いつの間に……?)
ルカが驚いていると、ちょうどパンを届けに来たミーナが、工房の入り口でくすくすと笑いをこらえているのが見えた。
「さっき、ゴードンさんが来て、ルカさんが留守の間にこっそり直してましたよ。『……別に、礼じゃねぇ。仕事のついでだ』って言ってましたけど」
ミーナが悪戯っぽく囁く。
ルカは、綺麗になった椅子と、隣の工房で黙々と作業を続けるゴードンの背中を交互に見て、思わず笑みがこぼれた。言葉にはしないけれど、これが彼の不器用な感謝の表現なのだろう。
苦手なもの、譲れないこだわり、そして不器用な優しさ。この寡黙な家具職人の、また一つ新しい一面を知ることができた。ルカは、修理された椅子に座り直し、人の心の複雑さと、その奥にある温かさに、改めて思いを馳せるのだった。




