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看板娘の涙と、最初の“染み抜き"

 工房の扉に付けられた、あの鳴らない鈴のことが、ルカの心の片隅で小さな棘のように引っかかっていた、そんな日の午後。工房の扉が、今度は控えめなノックの音と共に、ゆっくりと開かれた。


「いらっしゃいませ……」

 ルカが顔を上げると、そこに立っていたのは、見慣れない一人の少女だった。歳は十七、八だろうか。健康的な茶色の髪を二つのおさげにしていて、少し困ったような、そして深い悲しみを湛えた表情を浮かべている。白いエプロンには、うっすらと小麦粉が付いていた。


「あ、あの……ここって……その、心の、重荷を軽くしてくれる場所だって……聞きました……」

 少女は、俯きがちに、おずおずと尋ねた。声は小さく、震えている。


 ルカの【ハート・スコープ】には、彼女の胸のあたりを中心に、まるで冷たい雨に打たれて色褪せた古い布のような、粘りつくような重い灰色の染みが、じっとりと広がっているのが見えた。深い失意と、砕かれた自信の色。そして、その染みからは、時折、押し殺したような嗚咽にも似た、重く沈む音が微かに聞こえる気がした。


「はい、そうです。工房『星見草』へようこそ。どうぞ、おかけください」

 ルカは努めて穏やかな声で応え、椅子を勧めた。

「何か、お心に辛いことでも?」


 少女はこくりと頷き、小さな椅子に腰を下ろした。

「私、ミーナって言います。すぐそこの角のパン屋『こむぎ亭』で、父と一緒にお店を……」


 ミーナと名乗る少女は、指先をもじもじさせながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。先日開かれた街のパン職人コンテストのこと。自信作のハーブパンで挑戦したが、結果は散々だったこと。審査員からは「独りよがり」「基本がなっていない」と酷評され、常連のお客さんにも「いつものパンの方が好き」と言われてしまったこと……。


「……すごく、すごく頑張ったつもりだったんです……。寝る間も惜しんで、何度も試して……。なのに、全然ダメで……。もう、私にはパンを作る才能なんてないんだって……そう思ったら、悲しくて、悔しくて……」

 話しているうちに、ミーナの大きな瞳からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ち始めた。彼女の心の灰色の染みも、その涙に呼応するように、さらに濃く、冷たく、重く滲んでいく。


 ルカは、静かに彼女の話に耳を傾け、その痛みに心を寄せた。努力が報われなかった時の絶望感。自分を信じられなくなる辛さ。それは、追放された過去を持つルカ自身にも、痛いほど分かる感情だった。


「……お辛かったですね、ミーナさん」

 ルカは、彼女の涙が少し収まるのを待ってから、静かに、しかし確かな共感を込めて言った。

「頑張ったことが認められないのは、本当に悲しいことです。自信をなくしてしまうのも、無理はありません」


 ルカの言葉に、ミーナははっと顔を上げた。驚いたように、少しだけ目を見開いている。ただ否定せず、自分の気持ちを受け止めてもらえたことに、戸惑いと、ほんの少しの安堵を感じているのかもしれない。


「もし、よろしければ……」ルカは続けた。「その心の重荷、少しだけ軽くするお手伝いをさせていただけませんか? 無理にとは言いません。でも、あなたがもう一度、前を向くための、ほんの小さなきっかけくらいには、なれるかもしれません」

 彼は、フィリアンネの教え――「癒やしは、本人の心が望んで初めて起こる奇跡」――を思い出し、決して強制はしない。


 ミーナはしばらくの間、自分の膝の上で固く握りしめた拳を見つめていたが、やがて、涙で濡れた顔を上げ、小さな声で「……お願いします」と頷いた。彼女の心の灰色の染みの奥底で、ほんのわずかに、しかし確かに、希望を示す淡い黄色の光が、星の瞬きのように揺らめいたのを、ルカは見逃さなかった。


「ありがとうございます。では、少し準備をしますね。……怖がることは何もありませんから、楽にしていてください」

 ルカは穏やかに微笑みかけると、静かに立ち上がり、工房の棚から、施術に必要な道具を丁寧に取り出した。月光をたっぷりと吸い込んで浄化されたという、小さな水晶の音叉。星々の欠片を練り込んだとフィリアンネが言っていた、夜空の色をした柔らかな布。そして、柑橘系の爽やかながらも、心を落ち着かせる深い香りがする、自家製の【心溶かし】の液体が入ったガラスの小瓶。


 準備を整え、ルカは再びミーナの前に座った。

「リラックスして、ゆっくり呼吸してください」


 ルカは、まず【心溶かし】の液体を染み込ませた布で、ミーナの額やこめかみを優しく拭うように触れる。爽やかな香りが広がり、ミーナの強張っていた表情が、ほんの少しだけ和らぐ。灰色の染みの輪郭も、僅かに柔らかくなったようだ。


 次に、ルカは月光水晶の音叉を手に取り、軽く打ち鳴らした。

 キィィーン……

 澄み切った、清らかな音色が、工房の静寂の中に響き渡る。ルカはその音叉を、ミーナの胸のあたり、灰色の染みが最も濃く澱んでいる中心部へ、そっとかざした。


 音叉の清浄な波動が、染みに触れた瞬間。灰色の染みがびくりと震え、表面がさざ波立つ。染みの奥から、くぐもった、押し殺されたような悲しみの響きが漏れ出してくる。ミーナが小さく息を呑む。


 ルカは集中力を高め、音叉の波動を送り込み続ける。同時に、もう片方の手に広げた星屑の布で、波動によって表面に浮き上がってきた染みの断片――特に、自信喪失を示す冷たい澱や、悔しさを示す煤けた赤色の部分――を、そっと吸い取るように触れていく。布に吸い寄せられた染みは、その色と重さを失い、淡い影のように消えていく。


 ルカは慎重に、染みの全てを取り去ろうとはしない。失敗の経験や悔しさも、彼女の成長の糧となりうる。彼が取り除くのは、彼女をがんじがらめにし、前へ進むことを妨げている、過剰な重さや、負のエネルギーだけだ。


 施術を進めるうちに、ルカ自身の心にも、ミーナの深い失意が流れ込んでくるような感覚があった。自分の無力さを嘆く声、報われなかった努力への悲しみ…。それは、彼の能力の代償の一つだ。胸が締め付けられ、軽い頭痛を感じる。しかし、ルカはそれに耐え、目の前のミーナの心に集中し続けた。


 やがて、ミーナの胸元を覆っていた重苦しい灰色の染みは、その色を大きく薄め、範囲を狭めていった。冷たい泥のようだった質感は、春霞のように淡く、軽やかになり、悲しみの響きも鎮まっていく。そして、その向こう側から、パン作りへの純粋な愛情を示す、温かな黄色い光が、以前よりもずっとはっきりと、優しく輝き始めていた。


「……終わりましたよ、ミーナさん」

 ルカは、そっと音叉を置き、優しく声をかけた。彼の額には、うっすらと汗が滲んでいる。施術による精神的な疲労は確かにあるが、それ以上に、目の前の少女の心に光が戻ったことへの安堵感の方が大きかった。


 ミーナは、ゆっくりと目を開けた。その瞳は、まだ少し潤んでいたが、先ほどまでの深い絶望の色はなく、どこか呆然としたような、それでいて、憑き物が落ちたかのようにすっきりとした、不思議な表情を浮かべていた。

「なんだか……胸のつかえが、取れたみたい……。すごく、軽いです……」


「心の重荷が、少しだけ軽くなったのかもしれませんね」

 ルカは微笑んだ。

「さあ、仕上げに温かいお茶でもいかがですか? エルフに教わった、特別なハーブティーなんです」


 ルカは、疲れた体に鞭打って立ち上がり、エルダーフラワーとカモミールをブレンドした、心がほぐれるというお茶を淹れた。ミーナも、「あ、ありがとうございます……」と、まだ少しぼんやりしながらも、カップを受け取った。

「そうだ、これ……よかったら……」

 彼女は、持ってきた紙袋から、少し歪んだ形をした小さなパンを取り出した。

「コンテストには出せなかった、試作品なんですけど……」


 ルカは礼を言って受け取り、一口かじってみる。ハーブの香りが豊かで、素朴で、とても優しい味がした。そして、そのパンの温かさが、疲れたルカの心にもじんわりと沁みた。

「……美味しいですよ、このパン。すごく、優しい味がします」

 ルカの素直な感想に、ミーナの顔が、ぱっと輝いた。彼女の心の黄色い光が、まるで朝陽のように、力強く輝きを増す。

「本当ですか!? よかった……!」


 これが、ルカにとって、セレネフィアでの最初の本格的な「心の染み抜き」となった。そして、ミーナにとっても、この工房『星見草』と、不思議な力を持つ青年ルカとの、忘れられない出会いとなったのだ。


 帰り際、ミーナは工房の扉に掛けられた鈴にふと目を留めた。

「そういえば、ルカさん。あの扉の鈴、前はここを通るたびに綺麗な音がしてた気がするんですけど、最近、全然鳴りませんね? どうしてかしら?」


 ミーナの何気ない一言に、ルカは再び、あの鳴らない鈴のことを思い出した。やはり、何かあるのかもしれない。ミーナの言葉は、ルカの心の中の小さな謎を、より確かなものへと変えた。

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