王都の影と蠢く悪意
ルカたちが星見の丘の遺跡で『影』の存在と対峙しようとしている頃、遠く離れた王都の一角では、別の種類の闇が蠢いていた。
壮麗な貴族の屋敷、その書斎。窓から差し込む陽光も届かないような部屋の奥で、一人の男が玉座のような豪奢な椅子に深く腰掛け、指先で顎を撫でていた。有力貴族、ヴァルモン卿。艶やかな黒髪と整った顔立ちとは裏腹に、その瞳の奥には、冷たく計算高い光と、満たされぬ渇望のようなものが常に揺らめいている。
彼の前には、セレネフィアから戻ったばかりの監察官アギラルが、恭しく頭を垂れていた。アギラルは、ルカという異端な力を持つ存在のこと、そしてセレネフィアで起こり始めている奇妙な精神的な混乱について、詳細に報告した。
「……ふむ。異端の力を持つ若造と、原因不明の集団ヒステリー、か。そして、古代遺跡……」
ヴァルモン卿は、アギラルの報告を聞きながら、その唇に愉悦とも取れる歪んだ笑みを浮かべた。彼は、自身の出自――輝かしい貴族の家系の中で、唯一平民の愛人から生まれたという事実――に、長年深い劣等感を抱いていた。どれほど富と権力を手にしても、その事実は消せない。彼は常に、自らの価値を証明し、血筋の良い者たちを見返すための「特別な何か」を渇望していた。
そして、ルカのような、常人にはない特別な力。それは、ヴァルモン卿にとって、まさに羨望と嫉妬の対象だった。かつてルカを自らの手駒に加えようとして拒絶された経験は、彼のプライドを傷つけ、ルカへの歪んだ執着を増幅させていた。
(あの小僧が持つ力……あるいは、あの遺跡に眠るという古代の力……もしそれを我が物にできれば……!)
ヴァルモン卿は、アギラルの報告にあった『影』という存在にも強い興味を示した。それが人心を操り、混乱を引き起こす力を持つというなら、これほど利用価値のあるものはない。その力を利用すれば、邪魔な政敵を排除し、王国内での絶対的な権力を確立できるかもしれない。自身の劣等感を覆し、誰もが自分を恐れ、敬う存在になれる。そんな歪んだ野望が、彼の心を黒く染め上げていく。
「アギラルよ、ご苦労だった。セレネフィアの監視は続けよ。だが、直接手を出すのはまだ早い。まずは、もう少し『状況』を育ててやる必要がある」
ヴァルモン卿は、冷ややかに言い放った。
彼は、懇意にしている闇の古物商から、最近ある「曰く付きの品」を入手していた。それは、古代の呪術師が使っていたとされる、黒曜石で作られた禍々しい短剣。その短剣は、負のエネルギー、特に『影』のような虚無の波動と強く共鳴し、その力を増幅させる効果を持つという。
「我が忠実なる僕よ」
ヴァルモン卿が影に向かって呼びかけると、音もなく一人の男が現れた。顔をフードで隠し、気配を消す術に長けた、ヴァルモン卿の腹心だ。
「これを、セレネフィアへ運び、かの遺跡の近く……できれば、街の中心に近い場所に、人知れず隠しておけ。あとは、この短剣が勝手に『仕事』をしてくれるだろう」
ヴァルモン卿は、黒曜石の短剣を男に手渡した。短剣からは、触れると指先が凍てつくような、邪悪な冷気が放たれている。
「街が十分に混乱し、人々が救いを求めるようになった時……我々が乗り込む絶好の機会が訪れる」
腹心の男は、無言で短剣を受け取り、再び音もなく闇へと消えた。ヴァルモン卿は、椅子に深くもたれかかり、これから起こるであろうセレネフィアの混乱を想像して、満足げに目を細めた。ルカが、そして街の人々が苦しむ姿は、彼にとって何よりの娯楽であり、目的達成への布石でしかなかった。
***
王都で企まれた悪意は、数日のうちにセレネフィアへと到達した。ヴァルモン卿の腹心によって密かに持ち込まれた黒曜石の短剣は、街の地下水路の暗がりに隠され、そこから静かに、しかし確実に、邪悪な波動を放ち始めた。
その影響は、すぐに街に現れた。
以前にも増して、人々が悪夢にうなされるようになったのだ。それも、ただの悪夢ではない。個々人が抱える最も深いトラウマや喪失の記憶を、歪んだ形で、より鮮明に、繰り返し見せつけられるような、悪質なものだった。
工房『星見草』にも、憔悴しきった顔で助けを求めてくる人が後を絶たなかった。
ある若い女性は、恋人を別の女性に奪われるのではないかという不安が悪夢となり、現実でも恋人への猜疑心が止められなくなっていた。彼女の心には、嫉妬を示す緑色の棘が、黒い『影』の滲みと絡み合い、毒々しいピンク色の霧のような、歪んだ魅力の染みとなって周囲に漂っていた。それは、不安からくる過剰なアピールが、意図せず異性を惑わすようなオーラとなって現れたものかもしれなかった。
「ルカ様……私、どうしたら……。彼を信じたいのに、悪い想像ばかりしてしまって……。こんな自分が嫌……でも、彼に嫌われたくない……」
涙ながらに訴える彼女の姿は痛々しく、ルカは彼女の心の根源にある不安と、『影』の影響に注意深くアプローチする必要を感じた。隣で話を聞いていたミーナは、女性から放たれる妙に甘い雰囲気と、ルカへの懇願するような視線に、少しだけヤキモキしている様子だった。
またある日には、かつて大きな失敗をして仕事仲間からの信頼を失ったという経験を持つ商人が訪れた。彼は、その時の屈辱的な記憶が悪夢となって毎晩蘇り、再び人前に出ることが怖くなってしまったと語った。彼の心には、過去の失敗への後悔を示す古びたインクの染みが、『影』の黒い滲みによってさらに濃く、深く刻まれ、自信を示す光を完全に覆い隠してしまっていた。
ルカは、次々と訪れる、より深刻化した「心の染み」を目の当たりにし、自身の無力さを痛感せずにはいられなかった。彼の【心溶かし】や【染み抜き】は、一時的に症状を和らげることはできても、『影』の影響そのものを断ち切ることは難しい。まるで、汚れた水を汲み出しても、源泉から次々と汚水が流れ込んでくるようなものだった。
(僕の力だけでは……足りないのかもしれない……)
街全体が、目に見えない重苦しい空気に包まれ、人々の笑顔が消えていく。疑心暗鬼が広がり、些細なことで諍いが絶えない。かつての温かな路地裏の雰囲気は、影を潜めつつあった。
ルカは、この状況を打開するためには、やはり星見の丘の遺跡にある「何か」――『影』に対抗する力、あるいはフィリアンネが探していた「星々の歌」の手がかり――を見つけ出すしかないと、改めて決意を固める。
だが、遺跡の奥深くで彼らを待ち受けていたのは、想像を超える『影』の気配と、それに呼応するかのように脈打つ、古代の遺跡の持つ未知の力だった。




