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プロローグ:雨上がりの路地裏、追放者の覚悟

 雨上がりの石畳は、古都セレネフィアの煤けた壁の色を濃く映し、湿った土と洗い流された緑の匂いを風に乗せて運んでいた。職人たちが槌音を響かせる街の一角、建物と建物の間に忘れられたように存在する細い路地裏に、その店はひっそりと息づいている。


 磨かれた小さな木製の看板には、夜空で瞬く星のように可憐な白い花の絵が添えられ、『工房「星見草」』と控えめな文字が彫られていた。


 工房の中は、外の喧騒が遠い世界の出来事のように感じられるほど静かだった。午後の柔らかな光が大きな窓からたっぷりと差し込み、空気中に漂う微かなハーブ――心を落ち着かせるカモミールとリンデンの香り――の粒子をきらきらと照らし出している。


 亜麻色の髪をした青年、ルカは、年季の入った木のテーブルに向かい、乳鉢に入れた乾燥ハーブを丁寧にすり潰していた。彼の翠色の瞳は、真剣そのものだ。


 ふと、ルカは顔を上げ、窓の外、路地を行き交う人々の姿に目を向けた。彼の目には、ただの人の形だけが映るのではない。生まれつき持つ【ハート・スコープ】の力は、他者の強い感情や心の傷を、色や形、時には音や匂いさえ伴う「染み」として視覚化してしまう。


 焦燥感を滲ませ、石畳を蹴るように早足で去る男の背中には、赤黒くささくれだった棘のような染みが、まるで心臓のように不規則に脈打っているのが見える。その棘からは、微かに鉄錆のような匂いが漂ってくるようだ。井戸端でひそひそと噂話に興じる女たちの周りには、薄紫色の煙のような染みがゆらゆらと漂い、粘つくような甘ったるい匂いを放ちながら互いに絡み合っている。


(……また、見えてしまう)


 この力は、幼い頃のルカにとって呪いそのものだった。他人の感情が濁流のように流れ込み、心をかき乱す。そのせいで、彼は故郷の貴族社会で「気味が悪い」と疎まれ、王都ではその力を利用しようとする者たちに追われ、最後には罠にはめられ、「人心を惑わす危険人物」として追放されたのだ。あの時の、冷たい視線、裏切られた感覚は、今も彼の心の奥底に、拭い去りがたい澱んだ灰色の染みとして残っている。


 時折、今も感じるのだ。どこか遠くから、あるいはすぐ近くから、自分を監視しているような、冷たい視線の気配を。王都からの追手が、まだ自分を追っているのだろうか? それとも、これは追放されたことによる、ただの被害妄想なのか……。


(でも……僕は、もう逃げない)


 ルカは、胸の中で強く、今は亡き(あるいは、姿を消した)唯一の師、エルフのフィリアンネの言葉を反芻する。

『その力は、きっと誰かの光になるわ、ルカ。闇を知るからこそ、灯せる光があるのよ』


 彼女は、この力を制御し、癒やしへと昇華させる術を教えてくれた。そして、信じてくれたのだ。この力が、誰かを救う力になる、と。


 だから、ルカはこのセレネフィアの路地裏で、この小さな工房を開いた。目立たぬように、静かに。しかし、確かな意志を持って。ここでなら、この力で、誰かの心の重荷を少しだけ軽くする手伝いができるかもしれない。そうすることで、自分の存在意義を、失われた自信のかけらを、見つけられるかもしれない。ここで、自分の居場所を作るんだ。


 ルカは、再び手元のハーブに意識を戻した。今はただ、自分にできることを誠実に続けていくしかない。


 ふと、彼は工房の入り口の扉に目をやった。そこには、フィリアンネが去る前に「これは、良い知らせを呼び込むお守りよ」と言って置いていった、古びた真鍮製の小さな鈴が掛けられている。繊細な星見草の模様が彫られた、美しい鈴だ。


 しかし、ルカは気づいていた。この工房に越してきてから、この鈴が鳴ったのを、一度も聞いたことがないことに。風で扉が揺れても、誰かが出入りしても、鈴はまるで存在しないかのように、ただ黙してそこにあるだけなのだ。


(どうして、鳴らないんだろう……?)


 些細なことかもしれない。けれど、ルカの心に、ほんの少しだけ、不穏な、そして奇妙な引っかかりが生まれた瞬間だった。

ほのぼの系、異世界×追放×メンタルケアで書いていきます。

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