プロローグ 始まりはシガーバーから
そうだ、異世界ファンタジーが書きたい。シガーバーは僕の趣味です。
東京都渋谷区神宮前、表参道。一月のイルミネーションで装飾され、煌びやかな通りの喧騒を避けるように、通りに並ぶビルの地下階にバーがあった。
シガーバー・ノクターン。
葉巻の深みのあるスパイシーで複雑な香りと、芳醇なウイスキーの香り漂う、琥珀色に照らされた店内の、真紅の革張りソファが置かれたボックス席で三人の男が再会していた。彼らは学生時代からの付き合いで、再会の理由は特別無く、三人のグループチャットで新年の挨拶を交わした際、三人の内一人が
「たまには集まって食べに行こまい!」
と送ったのがきっかけでこの日、集まっていた。柔らかなジャズの音色を背景に語らっている。
「京太郎、お前さん相変わらずその髪色と目の色なんだね。まともに就職する気が無いだろう」
葉巻をぷかぷかと蒸しながら呆れたように笑うのは、楪芳太郎である。笑福亭一門の二ツ目の落語家である彼は、生まれも育ちも東京都台東区の下町で、江戸っ子らしい気風の良さと軽快な話術で場を盛り上げるのが得意だ。肩口まで伸ばした髪をハーフアップにし、片眼鏡をかけた姿は、一流モデル顔負けの端正な顔立ちを際立たせている。三人の中では唯一の喫煙者で、普段は煙管で煙草を吸っている。
「たーけ、改めて指摘されんでも、これがオレのアイデンティティじゃん。今更変えられんわ。それに、ViewTubeの収益通っとるで食っていけるし」
京太郎と呼ばれた男が、派手な水色の髪を掻き上げる。甘いマスクの目には青色のカラーコンタクト、耳元にはピアス、首元にはタトゥーが覗く如何にも派手好きな彼は乾京也という。「京太郎」は渾名だ。彼は大学院で応用物理学を専攻しながら、人気物理学系バーチャルViewTuber(VTuber)として二足の草鞋を履いている。派手な見た目は大学時代から変わっていない。そんな彼は愛知県豊橋市出身で、話し言葉の中に三河弁が混ざるのが特徴でもある。
「京ちゃん、ViewTube一本で食っていけるほど稼いでるしょや? いっそ退学したらどうだい。学費の無駄遣いだべ」
冷静に言葉を返したのは四月朔日睦だった。彼は新米考古学者として日々遺跡の発掘調査に勤しんだり、研究室で資料や発掘物とにらめっこしたりしながら過去に埋もれた人類について研究している。彫刻のように整った非常に美しい顔立ちに、知的な眼差しを宿しているのが印象的だ。ドが付く近眼であるので眼鏡が手放せない。訛った言葉が示す通り、彼は北海道札幌市の出身である。
「いいや、むっちゃん。国内トップの三ツ角大に入学したで、ダブろうが何だろうが学位は欲しい」
芳太郎、京也、睦の三人は国内の最高学府・三ツ角大学の同期で、芳太郎と睦が文系、京也が理系だったものの、教養学部の頃に意気投合した。芳太郎は落語家として修行を積む為に修士課程を終えると一足先に卒業してしまった(残りの二人は博士課程まで進んだ)が、それから五年経っても連んでいる。即ち九年の付き合いになる。
「流石にもう慣れたけどさ、やっぱり東京って都心ほど人多いよね」
睦が軽い溜息と共に心情を吐露する。
「そうじゃんね。上京したての頃は、毎日何かの祭りやっとるのかと思っとったわ」
軽い調子で京也は睦の話に乗る。
「てやんでい、」芳太郎が葉巻から口を離す。「ここいらは都心じゃねぇ、いわゆる副都心だよ。つーか、何が『慣れた』でい。今日だってお前さんらが人酔いしてきたっつーからよ、たまたま休めそうなバーがあるってぇんでここに入ったんだろうが」
芳太郎が歯切れ良く話す口から、もくもくと葉巻の煙が溢れた。どこかクリーミーな香りがして、不思議と臭くない。
「芳ちゃんこそ、『しっぽり飲むにゃあ丁度好い場処だ』とか言ったじゃん」
京也はそう言ってウイスキーを軽く呷る。
「そうだっけ?」芳太郎はとぼけた声を出した。
「いい加減なのは昔から変わってないよね」
睦は困ったように笑いながらグラスを持ち上げ、少し弄んだ。からん、と氷が硝子を軽やかに鳴らした。
「そういやあ、京太郎。お前さん、こないだあたくしが出た寄席に来とくれたね」
芳太郎は思い出したように口遊むと、葉巻を咥えた。
「うん、行った。よく気付いたな?」
京也はその問いに首肯する。寄席には大勢の観客がいたにも拘らず、自分に気付いたことにきょとんとした顔になった。
「そんな派手髪で来たら厭でも気付くよ」芳太郎はぷかぷかと葉巻を蒸しながら言う。「共演した噺家の方から『お前の知り合いか』って訊かれて恥ずかしかったんだからね。他人の振りしてやりたかった」
一度浅く吸い込み、煙を口の中で転がし、細く吐き出しながら京也の事を軽く睨め付けた。
「いやあ、オレ、そんなに目立ってた?」
京也は芳太郎の視線に構わず喋る。
「芳ちゃんの演る『時そば』は異次元の面白さじゃん。十八番ってやつ?」
彼の言う通り、芳太郎の噺の十八番は『時そば』である。
「お前さんねぇ、そうやって褒めて煽てて丸め込もうったってそうはいかないからね」
芳太郎は閉口した。
「ねえ、京ちゃん。俺さ、この間の生放送観たよ。ナントカ・ホライゾンって話の……」
そう話す睦の声はとろんとしていた。彼が酔ってきた合図だ。酔うと眠くなる質なのだ。芳太郎がそんな様子の彼を気遣って、テーブルに備えてあるディナーベルを鳴らし、水を頼む。
「ナントカホライゾン……」京也が顎に手を遣って独りごちると、あっと思い出した顔になって「イベント・ホライゾン?」と睦に訊き返した。
睦は渡された水をごくごくと飲むと、やや蕩けた眼差しを京也に向け、
「あ、多分それ。異世界に行けるかも知れないんしょ?」
と、幾分力の抜けた声で返事した。
「イベント・ホライゾン? 何だいそりゃ。それに異世界って?」
芳太郎は葉巻を灰皿に休め、少し眉をひそめて懐疑的な視線を京也に呉れるとウイスキーを呷った。
「物理学用語だって。日本語で言うと『事象の地平面』って意味で、ブラックホールの周囲にある『逃げられん境界』って言うか?」
京也は酒をぐびっとひとくち飲むと、そのままブラックホールや宇宙物理学についてぺらぺらと語り出した。宇宙物理学は彼の専門ではないが、生放送で何度か触れたことがあるので一通りの知識は持っていた。
「待て、分からん」
芳太郎からストップが掛かった。門外漢の彼からしたらちんぷんかんぷんな話である。
「京ちゃん、口頭で説明されると京ちゃん以外、俺たち誰も分からないしょ? したっけ、アーカイブみんなで観るべや」
睦が幾らか眠気が抜けてすっきりした顔で提案した。
「そうだよ。それで済むじゃあねぇか」
芳太郎も賛成の構えだ。
「ちぇっ、放送でのオレは普段とテンション違うで、見せるの恥ずいんだけどな」
京也は穿いているサルエルパンツのポケットからスマートフォンを取り出しながら、不平を言う。
「何を恥ずかしがる仲なんだい、あたくしたちゃあ。そろそろ十年来だぜ」
「そうそう。それに、もう大学内でも有名だべ?」
芳太郎と睦が口々に観念するように迫る。
「今見せるって!」
京也の手元のスマートフォンにはViewTubeアプリの、京也自身のチャンネル『フィジックス・デコード』の画面が映し出されていた。チャンネル登録者数は五十万人ほどいる。京也の指がスマートフォンの画面をなぞっていく。
「むっちゃんが観たっていう、イベント・ホライゾンの放送のアーカイブは……これじゃん?」
タイトルはこうだ。
【謎多きブラックホール】イベント・ホライゾンの先には異世界が⁉︎【異世界ファンタジー】【VTuber解説】
「胡散臭いねぇ〜……」
VTuberとしての京也のアバター、『キョウ』──実物の京也より数割増で男前に描かれたイラストだ──が、RPGの勇者として現れそうな装束に身を包んだイラストがあしらわれたサムネイルと、動画タイトルを見た芳太郎が沁み入るように苦言を呈した。京也が芳太郎を軽く睨んで、
「これ、リクエスト回だで。『胡散臭い』とか言ったらリスナーに失礼だら」
と、動画配信者の顔をした。
芳太郎は「悪い悪い」と言いつつも悪びれた様子は無く、いつも通り調子良く腕を組んで笑った。
「ほい、再生するで。よく見りん」
京也の掛け声でアーカイブ化された生放送の様子が再生される。目の前にいるよく知った人物が、近未来的な衣装を纏って顔が美化されたVアバターとして口を開く様子は見ていて少し面白い。
『どうも! フィジックス・デコード、ガイドのキョウでーす』
京也はちょっと照れくさそうに、横に九十度傾けたスマートフォンの画面右側を素早くタップした。
「ここ、動画の前フリで音声大丈夫かとか、アバターちゃんと動いとるか確認しとるだけだで、ちょっと飛ばす」
芳太郎と睦は頷く。
「多分この辺から本題」
京也が動画の早送りをやめた。画面上でアバターが喋り出す。
『「イベント・ホライゾンの向こう側には何があるんですか」だって』
大型匿名質問箱、『マカロン』に寄せられた質問だそうだ。
『まず、イベント・ホライゾンを知らないよ〜って人、プッチョヘンザ。……ああ〜、結構いるねぇ。じゃ、まず! イベント・ホライゾンについて概要を説明。オレは宇宙物理学とか天文学は専門じゃないで、本当に軽くね』
京也のお手製と思われるスライドが画面上に現れる。図解付きだ。
『さて、イベント・ホライゾンについて。これは〝事象の地平面〟という意味で、ブラックホールの周りにある〝一度越えたら戻れない境界線〟の事。要はここを越えたものは、たとえ光ですら引き返せない、宇宙の片道切符ってワケ。ここまで大丈夫?』
リスナーの反応を窺いつつ『キョウ』は話を進めていく。
『今日はちょっとSFの話に持っていこうと思います。質問者さんはイベント・ホライゾンの向こう側を知りたいんじゃん。理論上はブラックホールの中心、いわゆる〝特異点〟に向かうだけなんだわ。〝理論上は〟ね。それじゃ答えとしてたるいで、SFの話をします』
SFの定義として、「少し不思議」ではなく「サイエンス・フィクション」の話だとしてリスナーの笑いを誘う。
画面が切り替わり、ブラックホールに吸い込まれるキョウの挿絵が描かれたスライドが現れる。
『ブラックホールの向こう側をSF的に想像すると、全く違う世界が広がっとる可能性も無いとは言えんな。そう、異世界ってやつ! ブラックホールは〝ワームホール〟として機能する可能性があるとも言われてて』
専門外なので、一応調べたが詳しくは分からなかった旨が語られる。
『まあつまり、ブラックホールを通じてこの宇宙のどこか、或いは全く別の宇宙に繋がっとるかも知れんよ〜ってこと』
再びスライドが切り替わり、「異世界って何?」と書かれたスライドの端で可愛らしくデフォルメされたキョウが首を傾げている。そして、リスナーのコメントを拾いつつ「異世界」を定義する。
『今回は、オレたちが生きとるこの宇宙とは全く異なる法則や時間の流れを持つ世界の事、と定義します。例えば、ブラックホールの内部では時間の流れが変わると言われとるけど、それだけでもう異世界みたいなもんじゃん?』
キョウは、仮に「異世界」へ行けたら何をしたいかコメントを募る。そして、この放送の結論へ場面は変わる。結論、と書かれたキメ顔のキョウが描かれたスライドが表示される。
『今回の結論。イベント・ホライゾンはまだまだ謎だらけで、向こう側に何があるかは分かりません! 分からないと言わざるを得ないです。だけど、こうしてSF的な想像を膨らますことで更に楽しくなるのが物理学、ひいては科学ってもの。今度、異世界ものの魔法の仕組みとかテーマにしてみようか! 面白そうだでな!』
京也が画面の中央に指を置いて動画を停止させた。
「……っていう感じ。この後は質疑応答とサポチャの読み上げだけだで、ここまで。むっちゃんが観たのこれじゃん?」
京也は睦に視線を呉れる。睦は、
「ああ、これこれ。放送けっぱってるねぇ」と、動画に賛辞を送ってウイスキー片手に「もし異世界があったら、どんな人種がいて、どんな地域があって、どんな生活を送って、何を信仰していて……とかが気になるかな、俺は」と自身もあるかどうか分からない異世界について思いを馳せた。
「ところで睦。こないだ掘り出したっつー土器だか何だか、ありゃどうなったぃ?」
芳太郎が異世界よりもそちらに興味を示すと、睦はグラスを置いて答えた。
「ああ、あれね。古代の祭祀用みたい。模様特徴的で、雨乞いの儀式に使われてたんでないかって説が有力」
「雨乞いねぇ。古代の人間も今のあたくしたちと変わらないね。必死に生きてたっつーかよぉ」
芳太郎がしみじみ言うと、睦は小さく頷いた。京也は芳太郎におもねるように
「あのぉ、芳ちゃん。ブラックホールの向こう側は異世界かも知れないって話は……」
と言うが、
「興味無いね」
の一言で一蹴されていた。
「なんで! あったかどうかも分からん古代の話と、あるかどうかまだ分からん異世界の話は似たようなもんだらー!」
京也はこう唱える。しかし芳太郎は
「そうは言うけどね、古代のものは何某かの痕跡が残ってるだろ。異世界? あんなら持ってきやがれってんだ」
というように、飽くまで異世界の存在については否定的だった。
それらの遣り取りをジャズの調べが包み込む中、バーのカウンター席から何かで床を軽く叩く音が響いた。
「楽しそうだね」
三人が声の方に目を向けると、そこには一人の男性客がいつの間にか座っていた。彼の目元は長い前髪で隠れており、手にしている杖が僅かに揺れている。三人は、彼がこの杖で床を叩いていたのだと得心がいった。彼は盲目なのだろう、と。
身形は最低限の身嗜みしか整えられておらず、高級そうなのに皺くちゃな背広を着た彼は物乞いのようで、場違いな気さえしたが、表情や身のこなしにはどこか気品が感じられる不思議な男だった。
「なんでい、お客さんかい」
芳太郎が小さく眉を上げる。
「そんなところさ」
男はにこりと微笑み、手慰みに愛用しているだろう杖を撫でた。
「すみません。自分たち、ちょっと盛り上がりすぎていたかも知れません」
睦が素直に頭を下げると、男はううん、と首を振った。
「いや、楽しい話を聞かせてもらったよ。僕は……そうだな、化野涙とでも名乗っておこうかな。化ける野の涙って書いて化野涙。君たちは?」
その問に三人は顔を見合わせた後、芳太郎が口を開いた。
「あたくしは楪芳太郎。それでこっちの短髪眼鏡が睦。そっちの水色頭が京太郎さ」
「京太郎じゃなくて京也! 乾京也!」
京也が不満を以てして自ら名乗り直す。
「どっちだって良いじゃねぇか」と芳太郎がからから笑うのに対し、京也は「良くない」と言って譲らなかった。
「そうかい。芳太郎君、睦君、京太郎君……」
涙と名乗った男は三人の名前を反芻するように呟くと、手に持っていた杖をソファのアームレストに立て掛け、ウイスキーの入ったグラスを傾けた。
「京太郎じゃなくて京也です。で、化野さん──アンタ、何者だ?」
京也がストレートに訊ねると、涙はウイスキーを味わうようにして飲みながらゆっくりと答えた。
「僕は……しがない物書きだよ。何か刺激的な話が聞けないかと思って、ここに」
彼の答えには、何か含みがあることを三人は感じ取っていた。
「物書きということは、作家さんで」
睦が確認すると、涙は控えめに頷いた。
「てことは、化野涙っていうのは筆名?」
京也が身を乗り出す。
「そういう事になるだろうね」
涙は何故か否定も肯定もしなかった。そして、このようなことを言い出す。
「君たち、異世界はあるのか無いのか論じていたね」
「論じていたってほどじゃあないですよ」
芳太郎が曖昧に笑って誤魔化すと、涙はふっと微笑み少し間を置いてから静かに話し始めた。
「もし、異世界は〝ある〟と言ったら、君たちはどうする?」
前髪で遮られて見えない筈の彼の瞳が、愉悦を湛えたようだった。
その言葉に三人はきょとんとした表情を見せる。異世界はある? そんなまさか、と心の中ではありっこないと思っているのだ。
「旦那、本気で言ってるんですかい」
芳太郎がからかうように笑うが、涙は表情を崩さない。
「異世界……『オルドネール』という名前の世界があるんだ」
その声には、奇妙な説得力があった。冗談のように聞こえる筈の言葉が、何故か耳にこびり付いて離れない。
「オルドネール……?」
睦が低い声で問い返すと、涙はウイスキーを口に含み不敵に笑った。
「君たちは想像したことも無いだろう。赤い月と青い月が浮かぶ空の下で、剣と魔法が当たり前にある世界を」
「赤い月と青い月?」
京也は興味をそそられたように眉を上げた。
「そう。エルセールとシエラと呼ばれる月だ。その世界では、君たちが今持っている知識やスキルも、違う形で役に立つかも知れない」
涙は挑戦的な口調で語る。
「そんなん、まるで漫画とかゲームの世界じゃん!」
京也はそう言いつつも、大きく身を乗り出して涙の話を聞いていた。
「例えば? どんな風に役立つんです」
芳太郎が噛み付くように訊き返すと、涙は滑らかに答えた。
「例えば、芳太郎君の言葉の力、睦君の鋭い洞察力、京太郎君の理論的な思考。そういうものは、ただ日常を生きるだけでは埋もれてしまう。しかし、言葉の力で人を操ったり癒したり出来るだろう。遺跡に眠る古代の知識を解き明かすことも出来るだろう。魔法の理論を解き明かすことも出来るだろう。三人とも、異世界で生き抜くには十分すぎる才能を持っていると思うよ」
「旦那、あたくしらについてどこで知ったよ」
芳太郎は咎めるように迫った。
「さあ?」
涙は芳太郎の問い掛けを軽くいなした。
「でも、流石にフィクションですよね?」睦が言う。「化野さんは作家さんな訳ですし、これまでに書いた小説の設定……とかではないんですか」
そう言って肩を竦めると、涙は挑戦的に笑う。
「フィクションだと思うなら、それでも構わないよ。だけど、試してみる気は無いかい? 実際にその世界を覗いてみようってことさ」
涙の発言に三人は顔を寄せ合う。
「どーするよ。完全にヤバい人だら」
「薬でもやってんのかね」
「ここ、バーだし酔っ払ってるだけだべ」
京也、芳太郎、睦はまさか聞かれていまいと思って好き放題に言う。涙は、
「君たちが望むならすぐにでも見せてあげよう」と言うと、どこの国の言葉でもない未知の言語で何かを唱えた。
三人が一様に涙の方を向くと、涙はひとこと「ついておいで」とだけ言って席から立ち上がり、杖で床を叩きながら歩き出した。三人は荷物をまとめてコートを着ると、彼の後をカルガモの雛のようにぞろぞろとついて行く。途中、涙は杖をつきながら手探りでレジカウンターの位置を確かめると、カルトンの上に涙を含めた四人の会計額より多い金額を乗せ、三人をバーの入り口へ誘った。
やがて、杖はバーの扉にかつん、とぶつかる。
「この扉を開けば、そこはもう異世界だよ」
三人は唖然としながら涙の顔を見つめる。
「本気かい?」芳太郎が怪訝な顔をする。
「嘘だと思うなら、扉を開けてみると良い」
涙の平然とした物言いに、芳太郎は言葉を詰まらせる。涙は明らかに三人を挑発していたからだ。芳太郎は安い挑発に乗りたくない気持ちと、扉の向こうが気になる気持ちとで板挟みになっていた。
「アンタがそこまで言うなら開けるわ」
京也が重たい木製の扉に手を掛ける。
「お、おい、京太郎⁉︎」
「京ちゃん⁉︎」
京也が扉を開くと、その向こうに広がっていたのは──彼者誰時の表参道の薄闇ではなかった。
燃えるような太陽、広い青空、焼け付く砂地。奇怪な岩山が点在する、果てしない荒野。
「……昼間? てか暑っ」
京也は思わず目元に手で庇を作った。乾いた風が吹きすさび、気温はせいぜい摂氏五度くらいしかなかった一月の表参道とは対照的に、摂氏四十度を優に超えていそうだ。
「うわ、凄い風。まさか、アフリカのサバンナ……」睦が目を細め外を見渡す。荒涼とした大地がどこまでも続いているように見える。どんなメディアでも見たことの無い景色だった。睦は息を呑み「ではないみたいだね」と現実離れした光景に頭を抱えた。
「化野の旦那、これが旦那の言ってたオルドなんとかってぇ異世界なのかい? にわかには信じ難いけど……」
その時だった。涙は明確な意思を以て三人を扉の外へ突き飛ばした。
三人は目を白黒させて涙を見る──何故彼は自分らを突き飛ばしたのか、彼の目的は一体、ひょっとすると盲目というのは嘘で……と三者三様に思考を廻らせていると、涙は与えられた玩具に飽いた子供のような声音で言った。
「四の五の言ってないで、さっさと入ってくれないと困るんだよね。君たちが異世界がどうとか話してたから、折角上げ膳据え膳してやったっていうのに」
「てめぇ! 何しやがんでい!」
咄嗟にしては見事な受け身を取った芳太郎が、涙に向かって怒声を浴びせる。
「何……って。異世界を目の当たりにしても入るか入るまいかいつまでも悩んでいる迷える仔羊の背中を、ちょっと押してあげただけだよ?」
かかか、と涙は嗤う。
「押したんじゃなくて、突き飛ばしたじゃんか!」
京也も倒れた状態から何とか上体を起こし、芳太郎に続いて怒鳴った。
「……」
睦は一応、柔道有段者なので辞めた今でも受け身の取り方は身体が覚えていた。服に付着した砂を払いながら、涙をきっと睨んでいた。
涙は表参道のシガーバーから、自らもしっかりとした足取りで荒野に降り立った。やはり盲目の振りをしていただけだったらしい。そして、高らかに声を上げる。
「改めて、ようこそ『オルドネール』へ! 君たちがこれから冒険を始める舞台だよ」
「……はあ?」
三人は困惑する。涙はそんな彼らに構わず続ける。
「この世界での僕の名は、『ルイ・ベリヴェール』。ルイと呼んでくれて構わないよ」
「はあ……」
三人がまだ事態を飲み込めずにいると、「あれ?」と化野涙もとい、ルイ・ベリヴェールはきょとんとした。
「世界中の男子って、人生で一度は躓きを覚えて、現実世界よりも技術も知識も劣った〝異世界〟という新天地で自分の強さ、特別さを誇示したいと望むものだと思ってたんだけど」
ルイは三人を異世界に送り込むことで、三人が喜び勇んで冒険を始めるものだと考えていたため、何か齟齬が生まれたようだった。
「嬉しくないの? 異世界だよ?」
ルイが三人を問い質す。
「嬉しいっていうより……」睦は言い淀む。
「化野の旦那、いや、ルイか? 話が急すぎてついていけねぇ」
芳太郎がはっきりと言い切る。
「じゃあ話について来てもらわないと! ここは『ペリュスの荒野』。オルドネール西部に位置する、遺跡が多く眠る地で……」ルイは三人の背後に向かって顎をしゃくる。「魔物がうようよいる危険地帯」
三人がルイの示した方向に目を向けると、一メートルほどの大きさで棘を持った、百足のような虫の群れが三人目掛けて蠢いていた。
「ひっ⁉︎」睦が悲鳴を上げる。「北海道であんな大きな百足見たこと無い!」
「馬鹿野郎、東京にもいねぇよ!」
「愛知にもいねぇわ!」
思い掛けない方向に話題が転んだことにルイは笑いを噛み殺しながら、三人に少しだけ知識を授けてやることにした。
「あいつらは『スケイルワーム』。見ての通り群れで行動する虫だよ。もたもたしてて良いの? ヤツら、毒持ちだよ」
ほらほら、とルイは三人にこの場から逃げ出すよう急かす。
「毒⁉︎」一も二も無く芳太郎が駆け出す。身軽な彼は五輪選手に匹敵するほど足が速い。砂地に足を取られながらも疾風の如く走る。
「待って、芳ちゃん! そっちに何があるか分からんのに走り出いたら……!」
ためらう京也の腕を睦が引き、芳太郎が駆け出した方向へ追い縋るように駆け出す。
「考えるのは後! 毒あるって聞いたしょ⁉︎ 咬まれたらどうするの⁉︎ 行くべ!」
三人が慌てふためく様子を見たルイは腹を抱えて笑い、
「ま、毒があるって言っても、咬まれた所がめちゃくちゃ痒くなるだけの弱い毒なんだけどね」
と、呟いた。逃げ出した三人の耳には既に届かないだろう。
そうしてバーと繋がっていた扉を閉めると
「健闘を祈る!」
そう言い残して蜃気楼のようにその場から姿を消した。
ここまでご閲読いただきありがとうございます。初投稿で緊張しています。「異世界ものを書いてみたいな」と思って書き始めた作品です。異世界ファンタジーにクトゥルフ神話要素も盛り込んで、やりたい放題に書きます。連載終了時に「やりたいこと全部やった」と言えたらと思っています。クトゥルフ神話の知識があるとより楽しく読める作品だと思います。良かったら引き続きよろしくお願いします。