40 ありがとう
もう夕方だ。オレンジ色の光が窓から差して室内に長く伸びている。
敷地内にある礼拝堂に一人座って、徐々に薄暗くなっていく部屋に敷かれた光の帯をぼんやり見つめていた。
ヴァルゴがあの女達に捕まって毛皮の工房に引き渡されていた? 殺されるために歩いていたところに、偶然王都に来ていたマリーが偶然通りかかって、偶然工房の徒弟と知り合いで、他の獣の毛皮を買って細工してまでヴァルゴを助けてくれた? 自分は特別信心深いと言うわけではないが巡り合わせが奇跡としか言いようがない。
ヴァルゴは捕まる前に逃げていたのかと思っていたが、その状況だったとするともう断頭台に首が押しつけられていたようなものだっただろう。そこまで死に近づいていたのにマリーが私のヴァルゴを助けてくれていた。
マリーへの感謝があふれて胸が痛い。
今すぐマリーの所へ押しかけて礼を言いに行きたいくらいだ。
しかし、本当にこんなことがあるものなのだろうか……
最初私はマリーをヴァルゴを連れた天使と間違えたが、フォレット伯の所のお嬢さんということで認識を改めた。しかし、やはり実は天使なのでは? 考えてみればマリエラという名前もどことなく天使っぽい。
だとするとまずいな。私みたいなただの人間は相手にされないかもしれない。
いや、馬鹿なことを考えるな。思いもよらない話に完全に脳がやられているが、混乱するな、しっかりするんだサイラス。大丈夫、落ち着け、マリーは人間なはずだ。
だがマリーが人間なのは良いとして、私は今日マリーと建国祭に行けることになって夢のようだと思ったが、まさか本当に夢ではないだろうな?
私は自分に都合の良い幸せな夢を見ていて、本当はヴァルゴはもう死んでいて、マリーなんていう女性は存在しなくて、今日眠って明日の朝起きたら全てが消えているかもしれない。
だめだ、さっきから私は頭がおかしい。理性的な自分にはそれがわかっているのだが、自分の馬鹿な思いつきに怯えている正気を失った自分もいる。
マリーとエルディが奇跡の積み重ねで私の前に現れて、私を幸せにしてくれていることが怖い。自分でつかみ取ったものなら平気だが、今の幸せが運命の気まぐれの上に成り立っているものなら、すぐに失われてしまうものかもしれない。くだらないことばかり考えてしまうのはそのせいだろう。
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、この夢が覚めるくらいならいっそそのまま永い眠りにつけますように。と祈って自室に戻った。
「あの、サイラス様。今日ちょっと目の下に隈がありますよ。なんとなく顔色も普段より青い気がしますし、体調でも悪いんですか?」
マリーが心配そうに聞いてきた。あの後結局眠ることができなかった。こんな馬鹿みたいなことマリーには言えない。
「少し悪夢を見てしまって、なかなか寝付けなくて。子どもではあるまいしお恥ずかしい話です」
本当は幸せな夢から覚めて何もない現実に戻るのが怖かっただけだが。
「ああ、すごくわかります。怖い夢とか見て一度そうなっちゃうと一晩は眠れませんよね」
「夜とか暗くて静かで怖いし余計そうなりますよね。でも全然寝られなかったなら少しお休みになります? 外が明るいと全然怖くないですし、私とエルディもいるからもっと怖くないですよ」
そう言ってマリーがカウチソファのクッションを枕のように置き換えてくれたので、お言葉に甘えて横たわった。隣の一人がけのソファにいるマリーが何か思いついたように歩み寄ってきた。
「私も夜怖くなったりするとやってもらうんですけど、ちょっとおまじないがあって」
目を閉じてもらえますか? と言われたのでそのまま言う通りにした。何をされるのか気にはなるが。
「ぎゅーっ」
!?
ぎゅっと私を抱きしめてくれた。
……エルディが。
正確にはマリーがエルディを抱えて私をハグさせてるような形だ。
「エルディってあったかくって安心感の塊みたいな子なので、エルディにハグしてもらえば安眠間違いなしですよ」
エルディはかわいいができれば君に抱きしめてもらいたかったとか、ヴァルゴを助けてくれたマリーへの感謝とか、他の昨日から考えていたくだらないようなこともまとめてぐちゃぐちゃになって感情が限界を迎えてしまって、勢いでエルディごとマリーを抱き返した。
「ありがとう、マリー。本当にありがとう」
エルディを挟んで抱き合うような形になったが、これは決して下心ではなくて純粋に感謝を込めたものだ。
「い、い、いえ、あの、そこまで感謝されるようなことでは、ない、んですが」
マリーが真っ赤になってかたまってしまった。
昨日のようにくだらないことで悩むのは私らしくないな。たとえ偶然の積み重ねで与えられた機会だとしてもそれをつかむのは私自身だ。何の問題もない。
建国祭が終わってマリーに告白したら、ヴァルゴのことをマリーに話そう。全てを打ち明けて感謝を伝えたい。私の家族との関係やそれにまつわる過去を伝えてマリーがどういう反応をするのかは怖いが、できればマリーにも私のことを知ってほしい。
私がマリーを愛しているから。




