六話 システム
階段を下りれば、冷たい石畳に迎えられる。地上とはがらりと変わる雰囲気にローレンは身震いしてしまう。
ローレンの息遣いと足音だけが響き、たまに響く水の滴る音に神経を削られる。
「――ああ、助けにきてくださったのですね」
ふいに鼓膜を打った声にローレンは振り返る。声は後ろから聞こえた。たしかに、牢には誰も入っていなかったはずなのに。
「あなたが、メイドが言っていた魔法使い? どこにいるの?」
「そうでした。俺のデータをロードしたのですから、覚えているはずがありませんでしたね。ここです、俺はここにいます」
二つ戻った牢に、アレクシスよりも年上、十六歳くらいの少年が鎖に繋がれた状態で座っていた。
さらりとした白銀の髪が僅かな明かりを浴びてきらめき、理知的な灰色の目は弧を描いている。
初めて会うはずなのに、成長した彼の薄汚れた姿が脳裏に一瞬だけよぎった。
「オープン」
少年は空中に指を向けると、そこになにかがあり、選んでいるような仕草をした。
「まさか」
「息を止めてください。データの引き継ぎをしなくてはなりません」
「……なにを、言っているの。理解ができない。あなたはいったい誰で、何者なの?」
『データを同期中』
目の前に白い枠が出たと思った瞬間、過去に戻る直前の光景が脳裏に流れた。心の底をざらりと撫でられたような感覚に、吐き気を催す。
「俺のことはバルドと呼んでください。魔法使い……もどきです。たぶん、おそらく」
「っは……はッ、ぅ」
「大丈夫です、殿下。落ち着いてください。息を吸って、そう、吐いて」
バルドと名乗った少年の通りにし、呼吸を整える。
――私を過去に戻したのは、彼……バルドなの?
「あなたを過去に戻したのは俺で間違いないですよ。正しくは、あなたが俺に干渉し、俺があなたに干渉したから、ある程度の記憶を持って戻ることができたのです」
「バルドは、心も読めるの?」
「それができたら、俺はもっとうまく立ち回れたでしょう。この状況において、あなたは多くの疑念を抱えていることは明らかですから。そのうちの一つを答えたまでです」
――ジェシカに毒を渡されたあとに私はバルドに、私の……。
かあ、と顔が熱くなったのが自分でもわかった。
あのときは極限状態であり、藁にも縋る思いだったから深く考えずバルドの提案に乗ってしまった。が、冷静に考えてみれば「人生をください」だなんて、まるでプロポーズの言葉みたいではないか。
――過去に戻っている今、私の人生はバルドにあげたことになっているのかしら!?
「顔が赤いですが、姫さま。なにを考えておられます?」
「わ、私の人生は、今……」
最後まで言葉を紡げない。しかし、バルドはローレンがなにを考えているのか、すぐに察したようだ。
「っ……あ、あれは! 俺が助かるために姫さまが必要で仕方なく……だから、ノーカン! ノーカンです!」
「の、のーかん? どういう意味?」
「俺も最後の望みだと焦燥にかられていましたので、姫さまのお心を考慮しておりませんでした。ですからこうしてやり直すことができた今、あの言葉はなかったことにしてください。姫さまの人生は姫さまのものです」
バルドの頬もつられてか僅かに染まっている。わざとらしい咳払いのあと、バルドは「オープン」と口にした。
「ところで姫さま、セーブはこまめにしておられますか?」
「せーぶ? なんの話? バルドはときどき、意味のわからないことを言うのね」
「まさか、セーブしておられないのですか!? 一度も!?」
バルドは目を丸くし、口をぱくぱくとさせた。
「今すぐ『オープン』と唱えてください!」
「お、おーぷん」
「もっとはっきりと! 聞き慣れない言葉かとは存じますが、直に慣れます。ですので、システムが開くまで繰り返しおっしゃってください」
「おーぷん、おーぷん……オープン」
何度か口にし、舌に馴染んだと思われたとき、目の前に白い枠が浮かんだ。今までの文章や選択肢が表示されるだけのものではなく、単語がいくつか縦に並んでいた。
「その様子だと、システムは解放されているようで安心しました」
「私には視界の左側に白い枠が見えるけど、バルドにも私と同じものが見えているの?」
「俺には俺のシステムが、姫さまには姫さまのシステムが見えているはずです。枠にはなんと書かれておりますか?」
「えっと……せーぶ、ろーど、あいてむ、すとーりー、しょっぷ。と書かれているみたい」
やはり見知らぬ文字のはずなのに、読むことも発語することもできる。
「では、セーブとおっしゃってください」
「セーブ」
羅列された単語の右隣に文章と選択肢が増えた。
『セーブしますか? はい・いいえ』
「この、セーブとはどういう意味?」
「進行状況を保存するという意味です。百聞は一見に如かず、『はい』を選択してください」
このシステムという中で表示された選択肢は五秒が経過しても消えることはないようだ。
「押したわ」
「次はロードとおっしゃり、『はい』を選択してみてください。そしたら、セーブした地点へと時間が巻き戻ります」
信じられないことばかりでいっぱいいっぱいだが、少しずつ不可解な現象が紐解かれていくことは素直に受け入れられる。これが魔法なのだと一言で片づけてしまえば、無理やりにでも納得できた。納得するしか、ない。
「ロード」
ローレンは指を伸ばし、『はい』を選択した。
視界がぐにゃりと歪み、視界が真っ暗になる。けれどそれは一瞬のことで、少しの気持ち悪さを抱えただけでなにかが変わった様子はない。
「押せましたか?」
「ええ」
「では、次はロードとおっしゃり、『はい』を選択してみてください。そしたら、セーブした地点へと時間が巻き戻ります」
「……え?」
ローレンは目を丸くする。
「それは今、もうしたじゃない」
「うまく機能しているようですね」
バルドはほっとしたように眉を下げた。
「ロードしたとき、姫さまだけが記憶を保持したままセーブした時点での過去へ戻ることができます。ですので、今しがたのセーブは念のため触れず、次の枠にセーブをしていってください。いくつかセーブするための枠があるでしょう?」
「セーブ。……ないわ」
今度はバルドが目を丸くした。
「セーブと言うと、セーブするか否かの選択肢が出るだけで、バルドの言う枠は出てこないわ」
「ちょっ……と、待ってくださいね。オープン、セーブ」
バルドは目を見開いたかと思えば瞑目し、なにかを考え込む。
「俺のシステムとは微妙に異なるようですが、根本は同じでしょう。しかし姫さまのセーブが一つしかないということは……」
「セーブするタイミングをよく考え、見極めなければならないということね」
「理解が早いですね」
「いちいち疑っていられないもの。このシステムに関しては、バルドだけが頼りなのだから」
――白い枠は煩わしいと思っていたけれど、これは使える。バルドに感謝しなくちゃ。
「はい・いいえの選択やアイテムは、触れなくては反応しません。ちなみに、アイテムは長押しすると説明文が表示されます。それとこれは大事なことなのですが、危機を察知したら迷いなくロードすることをお勧めします」
「だったらなぜ、こんな便利な魔法を使えるあなたは十年以上も牢に捕まっていたの?」
バルドの物言いからして、バルドは過去に戻る地点をいくつか用意できるはずなのだ。それができなかった理由があるのか、わざとそうしなかったのか。
そう後ろめたそうな顔をされては、ローレンもバルドを解放するにもできなくなってしまった。