十話 突風
馬車を降りるとすぐに焼き立てのパンの香りに鼻腔をくすぐられた。昼食はとったはずなのに、お腹がすいたように感じてしまう。
「人気というだけあって、列がなされていますね」
「私たちも並びましょう」
「僕が並ぶので、ひめ、レンさまは馬車でお待ちいただいても……」
「アレク、私は馬車で休むために街へ来たんじゃないのよ? 気遣いは無用よ」
アレクシスの手をぱっと掴み、ローレンは列の最後尾に立った。
「レンさま!」
アレクシスは顔を赤くし、しかと繋がれた手を凝視する。
「こうでもしないとアレクはわかってくれないじゃない」
「み、身のほどはわきまえております」
しばらくしてローレンたちはパン屋に入店した。おいしそうなパンを次々とトレーに乗せ、会計を済ませる。
「私が払うと言ったのに」
「僕はレンさまの騎士ですから。レンさまの手を煩わせるわけにはまいりません」
アレクシスはトレーを持つのも、トングを扱ってもくれたのだが、本音を言えば自分もやってみたかった。
「どちらで召し上がりますか?」
パンが詰まった紙袋を抱えたアレクシスが首を傾げる。
あたりを見回してもテーブルや椅子はなく、仕方なく馬車へ戻ろうとしたときだった。
「ママ、もう一個!」
「もう。そんなに食べたらおやつがなくなっちゃうわよ? それに、夜ご飯も食べられなくなっちゃうじゃない」
「あと一個だけ! お願い、ママ!」
「仕方ないわね……じゃあ、ママと半分こしましょう?」
傍らを通りすぎていく親子がパンを二つに割り、食べながら仲よく歩いていくのが目についた。
つきり、と胸の奥が小さく痛む。
「レンさま?」
アレクシスが視線を追い、金色の目に映している光景を見る。
「ううん、馬車へ」
はたと提案が止まる。
アレクシスは紙袋からパンを一つ取り出し、半分にしていた。
その気遣いに痛んだ胸が今度は苦しくなった。温かくて満たされるような、けれど二度と手に入れることのできないことへの苦しさだ。
「……ぁ」
しかし、焼き立てのパンは思いのほか柔らかかったようで、片方が潰れてしまっていた。
溢れ出たクリームを二人して見つめ、微妙な沈黙が流れる。
「あははっ」
ローレンは声を出して笑う。
「アレクったら、あなたが手にしているのは壊してもいい訓練用の木剣じゃないのよ?」
ひとしきり笑い、恥ずかしさと気まずさが混じった顔をするアレクシスから潰れたほうのパンをもらう。
「ひっ……レンさま、そちらは僕が食べますから、新しいものを」
「味なんて変わらないわ。それにせっかくアレクがわけてくれたんだから……うん、おいしい。アレクも食べてみて?」
アレクシスは一口でぺろりとたいらげてしまった。
「おいしいです」
それから残りのパンを御者に預け、二人は歩くことにした。
大通りは人通りが多く、活気がある。客を呼び込む元気な声、はしゃいで走る子どもたちの足音など、新鮮なことばかりだ。
「レンさまは、覚えておられますか? 四年ほど前にも二人でこの街を歩いたことを」
ローレンにとっては十数年も前のことだ。
――遠い昔のように感じるけれど、鮮明に覚えている。
「建国祭のときよね。あのときは……お父さまの具合もよくなくて、でも、私はどうしてもお祭りに行ってみたかったのよ」
王城から見下ろす街並みは、夜遅くまで明かりが灯り、輝いていた。あのきらめきを前にして、好奇心を抑えることはできなかった。
「王城から抜け出すことを手伝ってほしいと頼まれたときはとても驚きました。レンさまは、自分に厳しい方だと思っていましたから」
「結局は警備隊に見つかってしまって、連れ戻されてしまったのだけれどね。アレクにも悪いことをしたわ」
王だった父からは騎士を連れていくべきだったと咎められることに留まったが、アレクシスはかなり怒られたのではないだろうか。
「僕も悪いことをしているようで……実際に悪いことではありましたが、レンさまとの見物はとても高揚していたと思います」
「今年は建国祭をやるそうよ」
「そうなのですか?」
「ええ。先代女王は国民に使うお金はないと建国祭をさせなかったでしょう? でも、もう彼女はいない。暴君からの解放と王選の開幕を祝し、三日ほどの期間で派手に開催すると言っていたわ」
ローレンはアレクシスに屈むよう促し、耳元に口を寄せる。
「マシュー卿にこっそり教えてもらった話だから、公表されるまでは私たちだけの秘密よ」
「はい、姫さま。二人だけの秘密ですね」
嬉しそうに微笑むアレクシスの顔が近く、ローレンは慌てて顔を離す。おかげで呼び方が戻っていることへの指摘も忘れてしまった。
「となると、建国祭の時期はもう間もなくですね」
建国祭は秋の訪れを告げるように行われる。本来は純粋に建国を祝い、王家をたたえる儀式だったのだが、時代が進むにつれて変化していった。
今では豊作やら健康祈願など、なんでもありになりつつある。
年に一度のお祭りなのだ。なにを願おうと、誰に感謝を述べようと、咎めるなんて無粋なことである。
「今年こそ、僕と一緒に見物へ行きませんか?」
「建国祭に?」
「はい。レンさまもご多忙であることは承知していますので、予定が空いておりましたら検討してくださると嬉しいです。ですから、今すぐに返事はいただきません」
――アレクシスって、こんな人だったかしら……?
父が健在だった幼い頃には王女と高位貴族の子息として交流は何度かあった。しかし、過去を振り返れば王選候補者同士としての印象が強い。
――いいようにジェシカに操られて、自分の意思を持っているようには思えなかったのに。
少しばかり認識を改める必要がありそうだ。
「返事はまた――」
「キャー!」
返事をしようとしたとき、すぐ近くから女性の悲鳴が響いてきた。
「姫さま、ご無礼を」
血相を変えたアレクシスの腕に包まれたと気づいたのは、すぐ横を何者かが走り抜けていってからだった。
「待てって、言ってんだろうが!」
今度は怒号に鼓膜を揺さぶられる。視界が頼りにならず、なにが起こっているのかローレンにはさっぱりわからない。
刹那、ごお、と目も開けていられないほどの突風が突き抜け、ばさばさとフードが暴れる。
「アレク……っ」
「目を閉じていてください。風に、いろいろなものが巻き上げられて危険ですので」
背中にだけ回されていた腕が頭の後ろにも添えられた。そのせいでアレクシスと体が密着し、心音が振動となってより伝わってくる。
「制止の声からかけて、慈悲は充分に与えてやったよなぁ!?」
激情そのものとも言える声は風に紛れてもよく通った。
「ぎゃっ!? や、やめっ、やめてくれぇ! 俺が悪かったからよ、だから命だけは助けてくれぇ!」
「お前が悪いに決まってんだろうが! 寝ぼけたこと言ってんじゃねぇぞ!」
「ひいぃっ!」
情けない声と苛立ちに満ちた声が響き渡る。
「アレク……アレク! もう終わったんじゃない!?」
なかなか放してもらえず、ローレンはアレクシスのローブを引っ張る。ようやく解放されたかと思えば、ローレンは目を白黒とさせた。
「この惨状は……って、血が出ているじゃない!」
あたりには小石や落ち葉だけに留まらず、看板やテーブルなど、外に出されていたものが散乱している。
しかし、ローレンはそれどころではない。現状を把握しようと周囲を見回すアレクシスの側頭部から血が出て、ローブに滲んでいたからだ。
「怪我したんですか?」
「え? ええ。早く手当てしないと。ここから神殿は……」
はたとローレンは言葉を止める。ゆっくりと顔を横へ向け、話しかけてきた人物を見やる。
「だったら俺の店に来てください。応急処置くらいはできますから」
先ほどまで口悪く、怒り狂っていたその人であった。




