一話 助けにきてくださいね
この足音が聞こえるたびに、悔しくてたまらなくなる。けれどそれを表情に出してしまえば相手はなおさら愉悦に顔を歪めるだろう。
だからローレンは表情を消し、顎を引く。じゃら、と鎖の音が響いた。
「ローレンお姉さまと二人で話がしたいの。今日も席を外してくれないかしら?」
「一度や二度は看過できましたが、これ以上はなりません」
か細くて弱々しい、思わず願いを叶えてあげたくなるような声音が鼓膜を撫でる。
「ローレンお姉さまはこの夜が明けてしまえば、処刑されてしまうのよ!? お願い、最後に話をさせてほしいの! これが、最後なのよ……っ」
職人が何日もかけて縫いあげたであろう美しいドレスが汚れることもいとわず、彼女は汚い石畳に崩れるように座り込む。
「お、お立ちください!」
牢屋番はぎょっとし、あたふたと手足を動かす。
顔を両手で覆い、肩を震わせる彼女を健気に思ったのか、先ほどまで難色を示していた牢屋番は「五分だけですよ」と言葉を残し、牢を出ていった。
「もういないよ、ジェシカ。だからその白々しい演技をやめたら?」
しっかりと扉の閉まる音を聞き届けてから、ジェシカは立ちあがった。もちろん金色の目は涙に濡れておらず、可愛らしい顔は綺麗なままだ。
「このドレス、お気に入りだったのに。これじゃあもう着ることができないわ。ローレンお姉さまったら、本当にひどい人なんだから」
「あなたが勝手に膝をついたんじゃない。本当に、罪を被せることがお上手ね。それに姉と呼ぶのは止めてと言ったはずよ」
「そうね。もう姉と呼ばなくていいんだったわ。王になるために王選候補者を殺害しようとしたあなたを」
泥水を吸った裾を揺らし、ジェシカはころころと笑った。
「ジェシーの勝ちよ。アレクさまが王太子となり、ジェシーを王太子妃に選んでもらうの」
「お優しいアレクシスなら、あなたが泣きつけば首を縦に振るでしょうね。本当はあなたが殺そうとしたことも知らないで」
「殺そうとだなんて! あなたの侍女がアレクさまのお飲み物に……」
「真実ならもう知っているから。あなたが侍女を丸め込み、利用したことくらい」
ジェシカは頬に手を当てて、眉を下げた。
「アレクさまにはちょっと我慢してもらうだけのつもりだったのよ。でも、本当に死んでしまうんじゃないかと怖かったわ」
命をなんだと思っているのか。それを問いかける意味はもうない。ジェシカが「勝ち」と言うように、ローレンは負けたのだから。
「早くしないと牢屋番が戻ってきてしまうわね。今日はあなたにこれを渡したくて、わざわざこんな汚い場所に足を運んであげたのよ」
甲高い音を立て、ジェシカが投げたなにかが石畳を転がり、ローレンの足に当たって止まった。
紫色の液体が入った親指サイズの小瓶だ。
「飲めば死ねるわ」
「なに?」
「前女王の悪政に苦しんだ民たちは王選に注目していた。その娘であるあなたが正々堂々と勝負せずに、暗殺を企てたことでヘイトは高いわ」
「気味が悪い。あなたにも良心の欠片が残っていたのね?」
「だって、民衆の前で見世物にされるようにして処刑されたらアレクさまが悲しむでしょう? そうしてアレクさまの心にほんの少しでもあなたが残るなんて、絶対に許せない。ジェシーだけを想い、考えていてもらわなくちゃ」
少しでも期待した自分を殴りたい。
ジェシカは王たる資質がないし、政治などもってのほかだ。だからローレンが消えた時点でアレクシスが立太子することは確定している。
ジェシカのことを想う暇などなく、民を想わなくてはならないことをわかっているのだろうか。
「そういうことだから、ジェシーは失礼するわね。早くあなたが飲んでくれることを、祈ってるから」
「あら、私が死ぬ瞬間を見届けなくていいの?」
「苦しみもがく姿なんて、気持ち悪くて見てられないもの」
どうやら用意された毒は即効性のものではないらしい。
「牢屋番には残りの時間、一人にしてあげてほしいと頼んでおいてあげるから、それまでに飲んでちょうだいね。ローレンお姉さま?」
忌々しい足音が遠ざかっていき、扉の向こうへと消える。
「――」
ローレンは小瓶を拾いあげ、僅かな光源に透かしてみる。
そうすると走馬灯のように過去が頭の中を巡った。
始まりは大神官が授かった神託だ。王のいなくなったエタンセル王国の次期王にふさわしい人物が、ローレンとジェシカ、アレクシスの三人というお告げである。聞いた話では名前が降ってきたわけではなく、夢に見た三人の子どもの姿が瓜二つだったらしい。
「そちら、飲むのですか?」
「っ!?」
するりと耳に入ってきた男の声にローレンは目を見開き、きょろきょろと狭い視界を見渡す。
向かいの牢。今までそこには誰も収監されていなかったはずだが、瞬きのうちに座る青年がいた。
ローレンと同じように手足には枷がはめられ、鎖で繋がれるだけでなく、色白の肌には似合わない、首輪のようなものまでつけられている。
――いつの間に……いや、まるでずっとそこにいたかのような。
体は薄汚れ、ざっくばらんに伸びた銀色の髪はくすんでいる。
「そんなものを飲んで死ぬつもりなら、あなたの人生。俺にくださいませんか?」
灰色の目にまっすぐ見据えられる。
目の前の状況を満足に咀嚼できていないというのに、話が勝手に進められていて少し腹が立つ。
「飲むなんて言っていないじゃない。あなたは何者なの? いつからそこに?」
「俺はずっと、ずっとここにいましたよ。誰も気づかなくなり、ついぞ忘れ去られてしまいましたが」
頬はやつれ、健康状態はあまりよろしくないようだ。それでも端正な顔立ちをしていることはわかる。
「妹に奪われた人生を、取り戻したくはありませんか?」
「ジェシカのことを言っているの? それなら、彼女は私の妹じゃない。あの子が勝手に姉と呼んでいただけ」
「なるほど。では、ジェシカに奪われた人生を――」
「だから、いまさらなにができるって言うの? 話は聞いていたんでしょう。私は負けたの。いまさら、なにが」
「オープン」
唇を噛みかけたとき、淡く白い光が視界を掠めた。四角い枠は青年の眼前に浮いていて、ローレンは目を見開く。
「もしかしてあなた……魔法使いなの?」
「なにができるかと言われたら、俺が大事に大事にとっておいたセーブデータを、ロードするくらいです」
「なに……言っていることが理解できないから、もう一度説明してくれる?」
「そろそろ五分が経過します。今すぐ選んでくださると助かります」
ちらりと扉のほうへと向けられた視線から、なにを懸念しているか汲みとることは容易い。
「選ぶって」
「乗るか、乗らないか」
「っ……ああ、もう。わかった、乗る! 乗ったらどうにかなるのよね!?」
そう答えた瞬間、青年の口が挑戦的に弧を描いた。
「権限付与。ローレン・ルフェーブル、あなたにサブ権限を与えます」
わけのわからないことばかり言う。
「時間がないので、今は最低限の付与しか叶いませんが」
けれど、無性に心が期待に踊るのは、なぜだろうか。
「このセーブを……ロード」
ぐにゃりと視界が歪み、ひどい耳鳴りがした。
「初めは不愉快かと思いますが、すぐに慣れるでしょう」
遠のく意識、手放す直前に聞こえた。
「――俺はずっとここにいますから。必ず、助けにきてくださいね」