扉
須磨子は洋間の窓を曇りがちに見つめながら、大正九年の始まりを感じていた。
やがて重たい扉が退屈なほど当たり前に開く。弥平が血相をかいて入って来た。
「弥平!あたしのスカーフどこに閉まったのよ。あれがあるのと、ないのとは大違い。このままだとあたしはカチューシャになれないの、ただの淫売女!」
「先生の400回目の公演なのに、申し訳ないしだいです。男手集め一刻も……」
そう弥平が応えたとたん、須磨子は握っていた台本を彼めがけ投げつけた。須磨子の凶暴な声はジャングルの奥地に住む女人族そのものだ。そう躊躇しているうちにも、また一層甲高い声が近所両隣へ響き渡る。弥平が顔を上げると、生まれて初めて見る、極限上に立つ女がいた。
須磨子は弥平が去ると同時に着物の帯を整えると、すっかり乱れた髪を直そうとする。その時なにやら床に手紙が転がっているのに気付いた。どうやら何度も土下座をするうちに、弥平の印番転からこぼれ落ちたものらしい。
手紙にはこんなことが書かれてあった。
『貧しいけどあなたを生みます。今年は冷夏で米もたいして出来なかったけれど。対露の戦争も起こりうる雲行き。あなたが、ただ元気に育ってくれることが願いです。ただ健やかに、それだけが願い。周りからどんなに馬鹿にされてもいい。わたしはあなたを幸せにするため、あなたを産みます。
あなたがあなたらしく一生懸命胸を張って生きていて欲しい、それが唯一の幸せなのです。わたしはあなたを生みます。世間の冷たさに負けないよう、沢山泣いた後は笑ってください』
刹那の時が柱時計から告げられた。須磨子は嗚咽しながら、すでに若干湿っている手紙を机の上に置いた。
「丑三つ時」に弥平は、雑役仲間に叩き起こされた。なんでも須磨子先生が道具部屋に来るようにというのだ。弥平は離れの道具部屋に行き、今度こそ暇を出されるのかと肩を震わせる。夜冷えのせいではない。いつの間にか全身を大波に打たれたような、武者震いに変わっている。
弥平は今度もおそるおそる道具部屋の納戸に手をやった。だが須磨子は彼に、意外なことを言った。なんでも人形の家の小道具を引っ張り出せというのだ。
弥平は言われるがまま人形の家でも使ったクリスマスツリーを、引っ張り出したテーブルの上に置いた。埃が盛んに舞う。やっと落ち着き始めた弥平はいつもの機転を利かせ、一旦母屋へ戻来る。そしてお節料理の残りを並べ出した。
「須磨子先生、今年はこの借りを返すつもりで頑張ります」須磨子は微笑を浮かべ「あの件はどうにかするから大丈夫よ。今夜は日頃世話になっている弥平へお礼をしたく呼んだのよ」
二人は席に座り、箸を持ちながら、とくに会話の方を味わったようだった。
「あれエビが動いたわ、弥平見えんかった?」
「クリスマスツリーとかいうやつにびっくりしているんでしょう。それより須磨子先生、今年はロシア革命何年目とかいいやつで世間を騒がせていますが、あちらさんに負けずに、うちらも本番に乗り込んで賑やかに一花あげましょうぜ」
「でも大丈夫かしら」
「任しておいてください。この弥平、先生のためならば渦中の栗だって拾います」
「頼もしいわ」
ガスランプの青白い灯りが二人の瞳を盛んに照らしていた。まるで舞台照明のようではないか。ひそやかな正月の正夢を浮き出させる。
「去年は座頭と銀座のクリスマスツリーを見て来ましたが、それはそれは、きれいでしたよ」
「人間の背丈八人分ぐらいあるやつでしたっけ」
弥平は明るく答えながらも、やはり須磨子が持つ腹底を気がかりにしていた。
その日、弥平は興奮のあまり寝ることもできなかった。朝になって庭掃除をしていると、番頭が弥平に声を掛けてきた。
やがて二人は一緒に歩き出して、事務所の扉を閉めた。
事務所は仕事始めのためか、やけに殺風景に感じた。
「お前に、ヒマをだす」
弥平は目を濡らしながらも、まぐれ連勝の関取がついに土が付いたときのように仕方がないと素直に思えた。
「やはり先生に嫌われたんですね」
だが弥平は意外な返事を耳にすることになった。
「うちも経済的に厳しくなるんだ。それに……今までお前にはふせておいたんだが三日前、須磨子先生は首吊りをしたんだよ。
離れの道具部屋で……。」
了