穏知代の歌は魂を抜く
「抜魂の歌声」をご存知だろうか。そう、その歌声を聞いた全ての生物が動きを止め、膝をつき頭を垂れ、体は震え嗚咽が止まらず、己の罪を悔いている内に魂が召されるという、あの「抜魂の歌声」だ。
一度も聞いたことが無い故にただの噂だと思っていた透手輝馨だったが、噂の歌声の持ち主が乙外穏知代ではないかという説を聞き、俄然興味が湧いた。
乙外穏知代。ここ移粒町の自警団に所属している女性で、同じく自警団員の馨も勿論存在を知っている。というか、団員は12人しかいないので必然的に何度も組んだことのある相手である。
この麗しい女性が「抜魂の歌声」の持ち主だというのだ。興味が湧くのも当然だろう。
だって考えてほしい。榛色の髪をおだんごにまとめ上げ、透き通った水色の目をし、落ち着いた優しい声をした、穏やかな女性が、魂を召させてしまうような歌声を持っているのだ。そんなの……そんなの、聞いてみたいに決まっている!!
ああ、それはきっと、天にも昇るような歌なのだろう。魂を浄化させるような歌なのだろう。子守歌のように、優しく、穏やかに。
穏知代は人前で歌ったことがない。歌いたがらない。当然だ。自分の歌声で人の魂を抜いてしまうのだ。人前で歌おうなんて勇気は出ないはずだ。しかし、悲しいことに、彼女は歌うことが好きらしい。たまに無意識で鼻歌を歌いかけ、はっとした表情をしたかと思えば口を覆って寂し気に微笑むのだ。なんといじらしいことだろう。
なので馨から穏知代に歌を強請ることはしない。それが紳士というものだろう。
***
機会は唐突に訪れる。それは、町外れに族が出たとのことで、馨と穏知代が出向いた時だった。
「が……っ、」
想定よりも人数の多かった族。多勢に無勢とはまさにこのことで、馨は族に殴られてしまう。
(まずい!ここでボクが倒れてしまったら、穏知代にヘイトが移ってしまう……!)
穏知代も戦えるが、完全後方支援タイプだ。自他共に認める運動音痴のため、この人数の族を相手に逃げ切ることは不可能だろう。
馨は脇腹を押さえながらなんとか持ちこたえる。とにかく穏知代を守らなければと穏知代の方を向けば――、覚悟を決めたような表情をしていた。穏やかな彼女のこんな表情は、初めて見た。硬い表情の穏知代はしかし、迷う事なく馨に告げる。
「透手輝さん、私の合図があるまでしっかり耳を塞いでいてください」
「――!」
その一言で馨は察した。穏知代は、歌う気だ。
馨も真剣な表情で頷くと、両耳に人差し指を入れた。しっかりと隙間を開けて。
なに、馨の前髪は長い。センター分けをしてサイドに垂らしているので耳は隠れる。しっかり耳が塞げているかなんて、穏知代から見れば分からないだろう。細い紫色の目をカッと見開いた。
(穏知代の歌を聞けるまたとないチャンス……、みすみす逃すわけがない!!!!)
穏知代は馨が耳を塞いだと思ったようで、どこからともなく取り出したマイクを両手で握った。その仕草すらも可愛麗しい。
マイクを口元へと持っていく。桜色の唇がそっと開かれる。皆傾聴せよ。女神の美歌のその時よ――!
「おーイぇモとウィコーグ♪」
――ビクンッ 体が一瞬痙攣した。
「……?……!?!」
歌を聞いたその瞬間に。脳内の信号を書き換えられている、それは、無視されているような、意思の、感覚。不規則に、激しく、体の波長が乱される、変則的に。
「イケつーおぐオくーうきスクツ♪」
大地が揺れた。地震!!?――いや違う、自分の目が激しく震えているのだ!凄まじい眼振に耐えられず、体がガタガタと震えているのだ。
想像の揺れに、馨は思わず膝をつく。とんでもない頭痛に、耳ごと頭を押さえつける。
「えっとどイネっータカガダラク♪」
ついには五臓六腑が踊り出した。あまりの気持ち悪さに嘔吐きそうだ。
馨は大きな勘違いをしていることに、穏知代の歌声を聞いて初めて気が付いた。
「抜魂の歌声」、それは、「美しすぎる昇天の歌声」ではなく、「壊滅的な堕獄の歌声」であるということに!
歌っている穏知代はとても穏やかな表情をしているのにここではないどこかを見つめ、普段の声からは想像もつかないアレな音がその顔から発されているところも異様さを際立たせていて脳をバグらせる。族はすでに全員意識を失っていたが、歌うことしか考えていない今の穏知代はそれに気づく様子も無かった。穏知代を止めようにも、歌をもろに聞いてしまった馨はすでに自分の意思で動くことはできない。
つまり、穏知代の気が済むまでこの地獄は続くということだ。
(く……っ!こんなことなら止めればよかっ……)
馨は穏知代の歌を聞いたことを後悔しかけ……はっとした。
そう。穏知代の歌は聞けたものではない。そのことを誰よりも穏知代自身が自覚している。でなければ人前で歌を自重するような配慮なんてしないはずだ。
無意識に鼻歌を歌いかけ、はっとした表情ですぐに歌を止めた穏知代の顔を思い出す。手で口を覆って、寂しそうに微笑んだ彼女。そんな彼女が今、何のしがらみも無く自由に歌っている。
(いや、後悔なんてしない。するわけがないだろう。だってほらウップ、穏知代の最高の笑顔を見られたじゃないかオェッ。歌だって、彼女の歌を生で聞けた数少ない男になれたということだウェ。これ以上ない誉じゃないかオロロロロ!!)
馨は体を蹲らせたまま、決意を固めた。
(穏知代のためにも、魂を抜かれるわけにはいかない……!オェ!仲間の魂が彼女の歌声のせいで抜けたと知ったら、穏知代はきっと、二度と歌わなくなってしまう……ウプッ!女性を悲しませる行為は、男の汚点だ!!……ォオ”エ”ェ”!!)
***
2時間後。好きなだけ歌ってすっきりした穏知代の意識が現実に引き戻された。族達が倒れ伏す中、馨が木にもたれて穏知代を見ていた。――驚くことに、耳を塞いでいないではないか。穏知代が思わず目を見開く。
「透手輝さん……!?その……、ずっと私の歌を聞いていたのですか!?」
穏知代が馨に駆け寄る。顔は生気が無く青褪めて……青を通り越して紫にも見えるが……明らかに調子が良くなかったが、しかし意識はちゃんとあった。
「ありがとう、穏知代さん。とても良い歌声だったよ。しかし、ボクは族に殴られた腹の傷が酷いようだ。情けないが、後のことは頼んでもいいかい?」
「勿論です!しっかり休んでください」
眉を八の字にして、水色の目が気遣うように馨を見つめる。
(これは……なかなか役得じゃないか……)
それを見届け、馨の意識はブツリと切れた。
その後、馨の目が覚めるまで半月ほどかかったらしい。
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