マリーナの決意
マリーナは合わせていた両手をほどき、その手のひらをじっと見つめた。
前世の私のようなペンダコがある節だった手ではなく、スラリとした長い指に、桜貝のような綺麗な爪を持つ美しい手だ。もうすっかりこの手を自分のものとして見慣れてしまった。
あの時に見た、他人のもののようだった小さい手のひらは、こんなにも大きくなった。
この体に“私”の意識が宿って、もう七年になる。
夢は私とマリーナが対峙したところで、ふっと終わった。
重たい瞼を上げて、目に入ったのは、見知らぬ天幕。
現代日本の女子高生にはふさわしくない、豪奢な天蓋付きのベッドだった。
ぼんやりとしたまま体を起こし、自身の手を見た。
自分のものにしては、とても小さな手のひら。
だんだんと意識がはっきりするにつれ、その手は震え出した。
じょじょに思い出す、“マリーナ”として生きてきた十年間の記憶。
マリーナは思わず吐き気がこみ上げ、胃液で口を苦くしながらえずいた。
産まれてから今まで生きてきた確かな記憶が、二人分あるというのは、脳が壊れるかと思うほどの衝撃だった。
それからマリーナは熱を出し、一週間寝込んだ。
ゆっくり熱が引いていくのと合わせて、マリーナは自分の状況を飲み込めるようになった。
女子高生だった自分は、おそらく生きていない。
しかし“私”は、あのゲームとそっくりな世界で、マリーナとして生きている。
なぜそうなったのかはわからないが、とにかくそうなのだ。
自分はこの世界で生きていく。
マリーナとして。
転生してからしばらくは、“マリーナとして生きる”ことを深く考えてはいなかった。
とにかく目の前に広がった新しい世界が眩しくて、そこに生きることに夢中になってしまった。現代日本の女子高生として生きた記憶は持っていても、体と脳は十を数えたばかりの子供だったのだ。“マリーナとして生きる”ということに対する意識が足りてず、軽率な行動ばかりとってしまった。
そのせいで、今苦労しているのかも……と思うと、若干の後悔が滲むが、子供だったし仕方なかったと思うしかない。
けれど月日が経ち、年齢が前世の自分に、そしてゲームの開始時のマリーナに近づくにつれ、私はある命題から目を逸らせなくなった。
マリーナとして生きると言うことは、私が『災厄の魔女』になると言うことだ。
マリーナは開いていた両手をギュッと握る。
これまで何度も自問自答してきたことを再度考えた。
自分は本当に『災厄の魔女』になるべきなのか?
それを避ける選択肢もあるのではないか?
闇堕ちも、主人公たちとの戦うのも、のちの断罪イベントも、すべてが恐ろしかった。
このまま、悪役令嬢なんてならず、ただのマリーナとして生涯を終えても良いのではないか?
誰もそれを責める人なんて、いないはずだ。
けれど、私は知ってしまっている。
設定資料によれば「災厄とは千年前の黒龍の封印が脆くなっていたことが原因であり、遅かれ早かれ起こることが決まっている。マリーナはそのきっかけとなっただけで、彼女が災厄を起こさなかったとしても、いつかは他の誰かが黒い石の魔に囚われ、災厄を引き起こしていただろう」と言うことらしい。
つまりは、“私”が災厄を起こすことは回避できるが、この国が災厄に襲われることは避けられない。
私が拾わなかった貧乏くじは、いずれ誰かが拾うことになるのだ。
本当にそれでいいのだろうか?
私が保身のためにゲームのシナリオを捻じ曲げたとしたら、それこそどんな災厄がいつ訪れるのか、想像もつかない。
『もし自分がシナリオを曲げたせいで、災厄が訪れる前に眠りの神子が命を落としてしまっていたら?』
あり得ないとは言い切れない。
それは、自身が災厄の魔女となることよりも、恐ろしいシナリオだった。
目を閉じれば、すぐにでも思い浮かべることができる。
救世の聖女と五人の勇士の、あの珠玉のような素晴らしい旅路。
それは紛れもなく、あの時の私が愛した筋書き。
前世の自分が生きた証だった。
救世の聖女が目覚めない世界はあり得ない。
十五歳になり、マリーナは心を決めた。
だったら、マリーナこそが、その役割を負って見せよう。
『眠りの神子を目覚めさせるため、最高の“悪役令嬢”になってやる!』