森鷗外「舞姫」(本文・口語訳・評論)9~エリスの家
◇本文
人の見るが厭はしさに、早足に行く少女の跡に附きて、寺の筋向なる大戸を入れば、欠け損じたる石の梯あり。これを上ぼりて、四階目に腰を折りて潜るべき程の戸あり。少女はさびたる針金の先きを捩ぢ曲げたるに、手を掛けて強く引きしに、中には咳枯れたる老媼の声して、「誰たぞ」と問ふ。エリス帰りぬと答ふる間もなく、戸をあらゝかに引開けしは、半ば白みたる髪、悪しき相にはあらねど、貧苦の痕を額に印せし面の老媼にて、古き獣綿の衣を着、汚れたる上靴を穿きたり。エリスの余に会釈して入るを、かれは待ち兼ねし如く、戸を劇しくたて切りつ。
余は暫し茫然として立ちたりしが、ふと油燈の光に透して戸を見れば、エルンスト、ワイゲルトと漆もて書き、下に仕立物師と注したり。これすぎぬといふ少女が父の名なるべし。内には言ひ争ふごとき声聞えしが、又静になりて戸は再び明きぬ。さきの老媼は慇懃におのが無礼の振舞せしを詫びて、余を迎へ入れつ。戸の内は厨にて、右手の低きに、真白に洗ひたる麻布を懸けたり。左手には粗末に積上げたる煉瓦の竈あり。正面の一室の戸は半ば開きたるが、内には白布を掩へる臥床あり。伏したるはなき人なるべし。竈の側なる戸を開きて余を導きつ。この処は所謂「マンサルド」の街に面したる一間なれば、天井もなし。隅の屋根裏より窓に向ひて斜に下れる梁を、紙にて張りたる下の、立たば頭の支ふべき処に臥床あり。中央なる机には美しき氈を掛けて、上には書物一二巻と写真帖とを列べ、陶瓶にはこゝに似合はしからぬ価高き花束を生けたり。そが傍に少女は羞を帯びて立てり。
(青空文庫より)
◇口語訳
人に見られるのが煩わしく、早足で行く少女の後について、教会の筋向いにある大きなドアを入ると、欠け損じた石の梯子がある。これを上って、四階目に腰を折ってくぐるくらいのドアがある。少女が錆びている針金の先を捻じ曲げたのに手を掛けて強く引くと、中からしゃがれた老女の声がして、「誰だ」と問う。「エリスが帰りました」と答える間もなく、ドアを荒々しく引き開けたのは、半ば白くなった髪と、悪い顔つきではないが、貧苦の跡を額に刻んだ顔の老女で、古いウールの服を着、汚れた上靴を履いていた。エリスが私に会釈して入るのを、彼女は待ちかねたように、ドアを激しく閉て切った。
私はしばらく茫然と立っていたが、ふとランプの光で透かしてドアを見ると、エルンスト・ワイゲルトと漆で書いてあり、その下に仕立物師と注がついていた。これが死んだという少女の父親の名なのだろう。家の中からは言い争うような声が聞こえたが、また静かになってドアは再び開いた。先ほどの老女は自分の無礼なふるまいを丁寧に詫び、私を中に迎え入れた。ドアの中は台所で、右手の低い窓に、真白に洗った麻布をかけてある。左手には粗末に積み上げたレンガのかまどがある。正面の一室のドアは半ば開いているが、その中には白布を覆ったベッドがある。横たわる人は亡き人だろう。かまどのそばにあるドアを開けて(エリスは)私を導いた。ここはいわゆる屋根裏部屋で街に面した一間なので、天井もない。隅の屋根裏から窓に向かって斜めに下がっている梁を、紙で覆い張りしてある下の、立てば頭がつかえるところにベッドがある。中央にある机には美しい毛織のカバーを掛けて、その上には書物が一、二冊とアルバムとを並べ、花瓶にはこの部屋に似合わない高価な花束が生けてある。そのそばに少女は羞じらいながら立っていた。
◇評論
「人の見るが厭はしさに」
25歳の東洋人と16・7歳のドイツ人美少女のふたり連れは、周囲の人たちからは奇異なカップルに見られただろう。
「欠け損じたる石の梯あり」以降からは、エリスの住まいと暮らしの貧しさが見て取れる。彼女の家は「四階」にあり、「腰を折りて潜るべき程の戸」を通らないと中に入れない。「さびたる針金の先きを捩ぢ曲げたる」ものがドアノブだ。しかもこれに「手を掛けて強く引」いてやっとドアは開く。エリスの母親は「咳枯れたる老媼」で、彼女は「戸をあらゝかに引開け」る。「半ば白みたる髪、悪しき相にはあらねど、貧苦の痕を額に印せし」、「古き獣綿の衣を着、汚れたる上靴を穿きたり」。太田がいるのにもかかわらず、「戸を劇しくたて切」る無作法な母親。
エリスたちの貧しさは、その住まい、衣服、母親の様子などから十分に伝わってくる。貧困が、体に刻まれているような状態だ。
「仕立物師」とは、衣服の裁縫、縫い直し、継ぎはぎなどの修理をする職人のことで、エリスの父親である「エルンスト・ワイゲルト」の職業のこと。
「内には言ひ争ふごとき声聞えしが、又静になりて戸は再び明きぬ。さきの老媼は慇懃におのが無礼の振舞せしを詫びて、余を迎へ入れつ。」
この部分では、自分に叩かれて家を飛び出し、しばらく帰って来なかった娘に対する母親の叱責と、偶然出会った東洋人が自分を助けてくれそうだというエリスの説明がなされたと考えられる。だから、母親は、丁寧に詫びを入れ、太田を中に迎え入れたのだ。
「右手の低きに、真白に洗ひたる麻布を懸けたり。」
エリスが着ている服もそうだったが、貧しいなりに、きちんと洗濯はしていることがうかがわれ、この家族の清潔さが感じられる。
「中央なる机には美しき氈を掛けて、上には書物一二巻と写真帖とを列べ、陶瓶にはこゝに似合はしからぬ価高き花束を生けたり。そが傍に少女は羞を帯びて立てり。」
このエリスの部屋の様子からは、さまざまなことが想像される。
まず、素直に読んでみる。エリスは自分の部屋にあるテーブルに、貧しいながらも美しい毛織のテーブルカバーを掛けるたしなみがある人だ。しかもその上には、本とアルバム、花が飾られている。いかにも少女の部屋にふさわしい装飾。エリスは十分な教育を受けることができなかったため、その言葉には「なまり」(誤り)があり、太田から文字遣いや本の読み方を教わる場面がこの後に出てくる。彼女は、「貸本屋の小説」を読んでいるため、テーブルの上の「書物」はそれであろう。また、バレリーナであるから、その舞う姿が写されたアルバムが置かれている。「こゝに似合はしからぬ価高き花束」は、彼女のファンから送られたプレゼントだろう。以上のように私は考える。
これに対し、エリスの部屋の装飾は、彼女に言い寄っていた座長を迎え入れるためのものだとする考え方がある。エリスの家の清潔さ、父親はエリスが身を売ることを決して許さなかったことなどからすると、この考えには疑問を抱く。隣の部屋には、父の亡骸が眠っている。葬儀代のために、その隣の部屋で座長とエリスが交わるなどということは、鬼畜の仕業だ。確かに母親は、座長の言葉に従うしかないと言ってエリスを叩いたが、自分の家で娘を売ることまで考えていたのだろうか。また座長も、エリスの家でエリスをものにしようと考えただろうか。もしそうだとしたら、ずいぶんえげつない、座長と母親ということになる。この物語の雰囲気・印象が、これだけでガラッと変わってしまうほどだ。母親は、置屋の女将ということになる。
また、たとえこの家で座長にエリスを渡すとしても、ここまでの装飾をするだろうか。その必要が、母親とエリスにあっただろうか、とも思うのだ。エリスを求めたということは、既に座長は彼女を気に入っている。そういう相手に、ここまでの媚びを売る必要があるだろうか。
以上から、私は、このエリスの部屋の雰囲気や置かれたものは、ふだんからのものだと考える。「そが傍に少女は羞を帯びて立てり」という様子からは、エリスが、自分のプライベートルーム・ふだんの姿を見られた羞じらいが感じられる。「これがいつもの私の部屋なの。あなたが来るなんて予想もしなかったから、片付ける余裕もなかったわ。恥ずかしい」ということだ。
これとは別に、隣の台所に母親がいるとはいえ、初対面の見知らぬ外国人を、いきなり自分の部屋に招き入れるだろうかという疑問も残る。これがドイツの作法なのか? エリスと太田がふたりきりで話すには、そこしかなかったとも言えるが。たとえば、台所でふたりで話し、母親は夫婦の部屋に入るという形もあるが、その方が不自然か?