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森鷗外「舞姫」(本文・口語訳・評論)6

◇本文

 かくて三年(みとせ)ばかりは夢の如くにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教に従ひ、人の神童なりなど()むるが嬉しさに怠らず学びし時より、官長の善き働き手を得たりと(はげ)ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなく(おだや)かならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。余は我身の今の世に雄飛すべき政治家になるにも(よろ)しからず、また善く法典を(そら)んじて獄を断ずる法律家になるにもふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ。

 余は(ひそか)に思ふやう、我母は余を()きたる辞書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。辞書たらむは猶ほ堪ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。今までは瑣々(さゝ)たる問題にも、極めて丁寧にいらへしつる余が、この頃より官長に寄する書には(しきり)に法制の細目に拘(かゝづ)らふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹の如くなるべしなどゝ広言しつ。又大学にては法科の講筵を余所(よそ)にして、歴史文学に心を寄せ、漸く(しよ)()む境に入りぬ。 (青空文庫より)


◇口語訳

 こうして三年ほどは夢のように経ったが、時期が来ると隠しても隠し切れないのは人の好みであるようだ、私は父の遺言を守り、母の教えに従い、人が神童だなどと褒めるのが嬉しくて怠けずに学んだ時から、官長がよい部下を得たと励ますのが喜ばしくて怠らずに勤めた現在まで、ただ受動的、器械的なじんぶつとなって自分では気づかなかったが、今二十五歳になって、ずいぶん長くこの自由な大学の風に当たったからだろうか、心の中が何となく不穏となり、奥深く沈んでいた本当の自分が、次第に表面に現れて、昨日までの本当の自分でない自分を攻めるようだった。私は自分が今の世の中に雄飛すべき政治家になるにもふさわしくなく、また十分に法典を暗記して裁断を下す法律家になるのもふさわしくないことを悟ったと思った。私が心で思うには、自分の母親は私を生きた辞書にしようとし、自分の官長は私を生きた法律にしようとしたのだろうか。生きた辞書となることはまだ我慢できるだろうが、生きた法律となることは我慢できない。今まではこまごまとした問題にも、とても丁寧に答えていた私が、このころから官長に提出する文書には、むやみに法制の細目に拘泥すべきではないことを主張し、いったん法の精神さえ把握すれば、入り組んだすべてのことは竹を割ったように簡単に解決できるはずだなどと大きなことを言った。また大学では、法律学者の講義は聞かず、歴史や文学に関心を持ち、次第にその面白みが分かるようになった。


◇評論

「好尚」…それをよいものとして好むこと。また、その好み。

(三省堂「新明解国語辞典」第6版)

 「時来れば」とは、自我の目覚めの時期ということか。青年期には、思考や行動の主体としての「自分」という存在への意識が高まり、それらを統括する自我が目覚めてくる。太田は「今二十五歳になりて」やっとこの意識が浮上してきたわけだが、それは、「自由なる大学の風に」当たったからだと振り返る。

 手記を書き記す現在から考えると、あの時の自分は次のようだったと太田は言う。

 「渡航して3年が経ち、西洋の大学の自由な雰囲気を体験した自分は、それまで自分の「好尚」・「まことの我」に気づいていなかったように思った。自分の「好尚」は、「歴史、文学」であり、「まことの我」は能動的、主体的な自分だと思った。」

 なおここで注意しなければならない点がある。あくまでもあの時は、自分が本当に好きなものは歴史や文学であり、本当の自分は能動的で主体的だと「思った」という点だ。本文の文末が、「に似たり」、「と思ひぬ」となっている点に注意する必要がある。つまり、先ほど「自我の目覚め」と述べたが、太田の本性は、相変わらず「所動的、器械的」であり、「昨日までの」「我」はそのままなのだ。また、太田は結局、政治家や法律家になるしかない。「歴史、文学」への興味は、あの時一時のものだった。

 「自我の目覚め」の定義づけにもよるが、現在は、「所動的、器械的」な「まことの我」を見抜いたとも言えるし、主体性を獲得できなかったという点においては、自我にまだ目覚めていないとも言える。


 端的に言うと、太田は、調子に乗ってしまったのだ。「高校デビュー」ならぬ、「西洋デビュー」。ちょっと自由な風に当たって、西洋かぶれしてしまった。一人前の顔をして、官長に意見する自分がカッコいい。法律の細目にこだわるなど下らないことだ。もっと文学や文化を尊重し享受すべきだ。それが教養というものだ。

 このように太田は、その時には思っていた。しかしそれこそが、自分の仮の姿だったと今は分かっている。「まことの我」は、変わっていない。「所動的、器械的」なのが、自分の本性だ。


 この太田の生意気な態度は、官長の逆鱗に触れることになる。

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