森鷗外「舞姫」(本文・口語訳・評論)5
◇本文
余が鈴索(すゞなは)を引き鳴らして謁を通じ、おほやけの紹介状を出だして東来の意を告げし普魯西の官員は、皆快く余を迎へ、公使館よりの手つゞきだに事なく済みたらましかば、何事にもあれ、教へもし伝へもせむと約しき。喜ばしきは、わが故里にて、独逸、仏蘭西の語を学びしことなり。彼等は始めて余を見しとき、いづくにていつの間にかくは学び得つると問はぬことなかりき。
さて官事の暇あるごとに、かねておほやけの許をば得たりければ、ところの大学に入りて政治学を修めむと、名を簿冊に記させつ。
ひと月ふた月と過す程に、おほやけの打合せも済みて、取調も次第に捗り行けば、急ぐことをば報告書に作りて送り、さらぬをば写し留めて、つひには幾巻をかなしけむ。大学のかたにては、穉き心に思ひ計りしが如く、政治家になるべき特科のあるべうもあらず、此か彼かと心迷ひながらも、二三の法家の講筵に列つらなることにおもひ定めて、謝金を収め、往きて聴きつ。 (青空文庫より)
◇口語訳
私が呼び鈴を引き鳴らして面会を求め、日本国の紹介状を出して東来の旨を告げた時、プロシャの官員たちは、みな快く私を迎え、公使館の手続きさえ無事に済んだら、何であっても、教え伝えようと約束してくれた。喜ぶべきことは、自分の故郷でドイツ語、フランス語を学んだことだ。彼らは初めて私と会った時に、「どこで、いつ、そのように習得したのか」と尋ねないことはなかった。
ところで、役所の仕事に余裕があるたびに、事前に役所の許可を得ていたので、ベルリン大学に入って政治学を修得しようと、入学手続きをした。
一か月、二か月と過ごすうちに、仕事の打ち合わせも済み、調査事項も次第にはかどっていったので、急ぐべき報告は作成して日本に送り、そうでないものは記録して保管し、ついには膨大な分量となった。大学では、幼稚な頭で思い描いていたような、政治家になるための特別な学科があるはずもなく、これがいいかあれがいいかと迷いながらも、二、三の法律学者の講義を聞こうと思い定めて、授業料を収め、聴講した。
◇評論
「公使」…その国家の代表として、外国に派遣される外交官の一種。(階級・席次は大使の次だが、職務はほぼ同一。なお、大使補佐のために派遣されることもある)
「公使館」…駐在国に在る、公使の事務所。
(ともに、三省堂「新明解国語辞典」第6版より)
「喜ばしきは、わが故里にて、独逸、仏蘭西の語を学びしことなり。彼等は始めて余を見しとき、いづくにていつの間にかくは学び得つると問はぬことなかりき。」
太田は、英語はもちろんのこと、ドイツ語とフランス語も堪能だったことが分かる。海外における語学力は、特に外交の場面で重要な役割を果たすだろう。太田は、日本を代表してドイツに来ている。彼の語学力は、後に彼を活躍の場へと導く。
ところで太田は、東京大学の法学部で学んでいた。法律の知識だけでなく、外国語もここまで習得していたところからすると、彼自身、やがては海外に出て、国際社会での活躍を考えていたのかもしれない。もしくは、明治憲法の制定のためにドイツの憲法を学ぶ必要があることを事前に予測し、語学力も必要であると認識していたのかもしれない。太田はしっかりと人生設計をし、計画的に学び、先を見通して必要な能力を身に付けていた。その点からも有能な人材であったことが分かる。
ベルリン大学で太田ははじめ、政治学を学ぼうとする。これについては、政治家になることを望んでいたことが、すぐ後に述べられるが、東京大学法学部で法律の体系を学び、今は明治憲法の制定に携わり、それらの知識と経験を生かしてやがては政治家として直接国の運営を行なおうと考えていたのだろう。
しかしその夢は途中で挫折し、法律研究に戻る。これまでの人生において、太田は、失敗したことがなかった。政治家になるという夢が、ベルリン大学にそのために有益な講義がないという理由で諦めることになったと太田は述べているが、これについては、やや計画倒れの感がある。西洋に行けば、何か政治家になる特効薬があるかのように安易に考えていたのではないか。政治は、地域や国を動かし、人々を幸福へと導こうという強い意志と情熱が必要だろう。そこにはもちろん知識や教養が必要でありまた土台となるが、太田にはそもそも本当にその意志があったのかが疑問に思われる。大学にそのための講座がないという理由で、政治家になることを簡単にあきらめてしまう様子からは、その意志と情熱が感じられない。太田の政治家像とは、どのようなものだったのだろうか。太田は本当は何がしたかったのだろう。勉強がよくできる、ただの秀才というだけだったのではないか。そのような疑念がわいてくる。
結局また法律を学ぶ講義を聞くことになった太田。