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森鷗外「舞姫」(本文・口語訳・評論)4

◇本文

 余は模糊(もこ)たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、(たちま)ちこの欧羅巴(ヨオロツパ)の新大都の中央に立てり。何等(なんら)の光彩ぞ、我目を射むとするは。何等の色沢ぞ、我心を迷はさむとするは。菩提樹下と訳するときは、幽静なる(さかひ)なるべく思はるれど、この大道 (かみ)の如きウンテル、デン、リンデンに来て両辺なる石だゝみの人道を行く隊々(くみ/″\)の士女を見よ。胸張り肩 (そび)えたる士官の、まだ維廉(ヰルヘルム)一世の街に臨めるまどに()り玉ふ頃なりければ、様々の色に飾り成したる礼装をなしたる、(かほよ)少女(をとめ)巴里(パリー)まねびの(よそほ)ひしたる、彼も此も目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青(チヤン)の上を音もせで走るいろ/\の馬車、雲に聳ゆる楼閣の少しとぎれたる(ところ)には、晴れたる空に夕立の音を聞かせて(みなぎ)り落つる噴井(ふきゐ)の水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てゝ緑樹枝をさし()はしたる中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多(あまた)の景物 目睫(もくせふ)の間に(あつま)りたれば、始めてこゝに来こしものゝ応接に(いとまな)きも(うべ)なり。されど我胸には(たと)ひいかなる境に遊びても、あだなる美観に心をば動さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物を(さへぎ)り留めたりき。 (青空文庫より)


◇口語訳

 私は功名心をぼんやりと抱き、また自己抑制に慣れた勉強力を持って、あっという間にこのヨーロッパの新大都の中央に立った。何と強い光・鮮やかな色彩だ、自分の目を射ようとするのは。何と輝く光沢・色つやだ、自分の心を迷わそうとするのは。「菩提樹の下」と訳すと奥深く物静かな場所であるように思われるが、この目の前に広がる髪のように真っすぐに続くウンテル・デン・リンデンに来て道の両側にある石畳の歩道を行く紳士・淑女のカップルたちを見よ。胸を張り肩を怒らせた立派な士官が、まだウィルヘルム一世が街に面した窓に姿を現す頃だったので、さまざまな色彩に飾りつけた礼装をしているのや、美少女がパリ風の装いをしているなど、あれもこれも目を見張らぬものはなく、車道のアスファルトの上を音も立てずに走るさまざまな馬車、雲にそびえる高層建築の少し途切れたところには、晴れた空に夕立のような音を立ててみなぎり落ちる噴水の水、遠望するとブランデンブルク門越しに見える緑樹が枝を交差させている中から、半天に浮かび出ている凱旋塔の神女の像など、このたくさんの景物が目の前に集中してあるので、初めてここに来た者がそれらの景物にどう対応していいかわからなくなるほど急かされる気持ちになるのももっともだ。しかし自分の胸には、たとえどのような場所に行っても、浮ついた美観に心を動かすまいという誓いがあり、自分を襲うかのような外界の事物を常に遮り止めた。


◇評論

 「余は模糊(もこ)たる功名の念と」以降の部分からは、今まさに太田が、西洋の都市とそこにある文物に取り囲まれ、圧倒されるさまが描かれる。現在形で書かれることにより読者は、まだ22歳だった太田が、リアルタイムで西洋の風に吹かれているように感じることができる。ここで彼は、遠い日本に残してきた母親のことなど、すっかり忘れているだろう。

「功名」…手柄を立てて有名になること。(三省堂「新明解国語辞典」第6版)

 ここで太田を駆り立てているのは、功績によって有名になるぞという意気込みだ。そしてそれが自分には可能だと自負している。なぜなら、自分には、これまで続けてきたように、勉学に努力するというシステムが身についているからだ。「検束」とは、行動を制限・抑制する意味で、自制心をもって勉学に励み努めることを続ければ必ず成功すると、若い太田は確信している。なぜなら彼には、これまでの人生における成功体験が積み重なっているからだ。父を早くに亡くした以外は、これまでの太田に失敗や後悔はない。すべてがうまくいっているのだ。

 これは逆に言うと、初めての失敗が彼に重くのしかかるということにもなる。エラーに対処する方法を、これまで彼は学んで来ていない。だからそれに遭遇すると、慌てふためき、取り乱すことになる。


 当時のドイツは、ヨーロッパでも最も進んだ国だった。その「中央」に立ったならば、太田でなくとも、心拍数は上がっただろう。鮮やかな色彩と強い光、整備された街を行く美しく立派な男女。それらがこの後、事細かに説明される。セイゴンの港に停泊する船室で、5年前の記憶が今、太田の脳裏に鮮やかによみがえっているのだ。自分の目を射、心を迷わした異国の風景のきらびやかな様にめまいを感じた当時を、改めて思い返している太田。強烈な視覚的刺激が、彼の目を刺し、心まで到達し、迷わせる。街と人とに強く惹き付けられる太田。


 森鷗外の身長を検索したのだが、確かな資料がなかった。一説には、160㎝ほどとあり、もしそれだとすると、ドイツの「胸張り肩 (そび)えたる士官」は、まさに「聳え」て見えただろう。ちなみに、当時の日本人男性の平均身長も、160cm程度だった。

 

「ウンテル・デン・リンデン」は、ドイツの首都ベルリンにある大通り。

なお、都市空間における「舞姫」の考察は、前田愛『都市空間のなかの文学』の「BERLIN 1888」に詳しい。


(かほよ)少女(をとめ)巴里(パリー)まねびの(よそほ)ひしたる」

 これについて検索していたら、国立国会図書館のホームページに、次のようなものがあった。同じ時期の日本でも、女性の間ではパリ風の衣装や化粧が好まれたようだ。


「女性のフランス・ファッションへの憧れ」

 明治21(1888)年6月22日の朝日新聞(大阪)の記事には、「数年前日本の貴婦令嬢は服装を始め百時競て巴黎の風を模し唯時流に晩れんことを是恐れ終に身体をも挙げて巴黎風に化造せんことを願んとするものゝ如く幾んど狂するが如き有様なりし」とあり、日本でパリへの熱狂的な憧れがあったことがうかがえる。

 川上音二郎(1864-1911)・貞奴(1871-1946)夫妻は、明治33(1900)年にパリ万博での公演、同40(1907)年に劇場視察と女優養成学校研究のために渡仏している。帰国後、2人はパリの流行を雑誌などで紹介した。貞奴は、「巴里の贅澤競べ」(『流行』1908-07【雑50-3イ】)で、パリで流行の宝石や美容とともに、仕立屋で見たマヌカン(ファッション・モデル)について「見本は活きた美人」、「見本の美人は雇人」と驚きをもって述べている。ちなみにモデルは、オートクチュールの創始者シャルル・ウォルト(1825-1895)が19世紀半ば頃に妻マリー(1825-?)に自分の作品を着せたのが始まりとされる。」

(2. ファッション | 近代日本とフランス―憧れ、出会い、交流 (ndl.go.jp))

(近代日本とフランス―憧れ、出会い、交流 (ndl.go.jp)より)


「車道の土瀝青(チヤン)の上を音もせで走るいろ/\の馬車」

 1910(明治43)年に発表された森鷗外の「普請中」には、次のような描写がある。


「渡辺参事官は歌舞伎座の前で電車を降りた。

 雨あがりの道の、ところどころに残っている水たまりを避けて、木挽町(こびきちょう)河岸(かし)を、逓信省の方へ行きながら、たしかこの辺の曲がり角に看板のあるのを見たはずだがと思いながら行く。

 人通りはあまりない。役所帰りらしい洋服の男五六人のがやがや話しながら行くのにあった。それから半衿(はんえり)のかかった着物を着た、お茶屋のねえさんらしいのが、なにか近所へ用たしにでも出たのか、小走りにすれ違った。まだ(ほろ)をかけたままの人力車が一台あとから駈け抜けて行った。

 果して精養軒ホテルと横に書いた、わりに小さい看板が見つかった。

 河岸通りに向いた方は板囲いになっていて、横町に向いた寂しい側面に、左右から横に登るようにできている階段がある。階段はさきを切った三角形になっていて、そのさきを切ったところに戸口が二つある。渡辺はどれからはいるのかと迷いながら、階段を登ってみると、左の方の戸口に入口と書いてある。

 靴がだいぶ泥になっているので、丁寧に掃除をして、硝子(ガラス)戸をあけてはいった。中は広い廊下のような板敷で、ここには外にあるのと同じような、棕櫚(しゅろ)の靴ぬぐいのそばに雑巾(ぞうきん)がひろげておいてある。渡辺は、おれのようなきたない靴をはいて来る人がほかにもあるとみえると思いながら、また靴を掃除した。」 (青空文庫より)


 この文章から、当時の銀座の様子が伺われる。「洋服の男」がいる一方で、「半衿(はんえり)のかかった着物を着た、お茶屋のねえさんらしいの」もいる。「人力車」が走っている。「精養軒ホテル」の看板は小さい。「靴がだいぶ泥になっている」。「丁寧に掃除をして、硝子(ガラス)戸をあけてはい」ると、「棕櫚(しゅろ)の靴ぬぐいのそばに雑巾(ぞうきん)がひろげておいてある。渡辺は、おれのようなきたない靴をはいて来る人がほかにもあるとみえると思いながら、また靴を掃除した」。

 銀座であっても雨が降ると靴が泥で汚れてしまう。日本の西洋化は進んでいるが、万事中途半端なのだ。「渡辺参事官」が言うとおり、「日本はまだ普請中」なのだ。

 従って、ウンテル・デン・リンデンの「車道」がアスファルトで舗装されており、その「上を音もせで走るいろ/\の馬車」を見た日本人は、驚いただろう。日本と西洋は、こんなにも進歩の程度が隔絶しているのかと。


 「欧羅巴(ヨオロツパ)の新大都の中央」にある「ウンテル・デン・リンデン」に立つ太田を、さまざまな「外物」が「襲う」。「隊々の士女」、「(かほよ)少女(をとめ)巴里(パリー)まねびの(よそほ)ひしたる」、「車道の土瀝青(チヤン)の上を音もせで走るいろ/\の馬車」、「雲に聳ゆる楼閣」、「夕立の音を聞かせて(みなぎ)り落つる噴井(ふきゐ)の水」、「ブランデンブルク門」、「半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像」。「この許多(あまた)の景物」にめまいを感じる方が普通だろう。それらを一つずつ確認しながら眺めることは、とても不可能だ。

 「検束に慣れた」太田は、これらの「あだなる美観」に、決して心を動かされるまいと誓っていた。だから彼は、「つねに我を襲ふ外物を(さへぎ)り留め」たのだった。

 「まだ「普請中」の日本からやって来た小さな存在であっても、やがては一等国に発展し、ドイツとも肩を並べる時が来る。その時まで自分は決して浮つくことなく自制して、近代国家建国の礎とならなければならない。自分の目と心を惑わすきらびやかな風物に、心を動かされている場合ではない。」

 そのように太田は思っていたのだろう。日本を代表して来ているのだという自負を胸に、西洋の風に押し倒されまいと両足を踏ん張って立っている太田の姿が見える。先にも述べたように、太田はおそらく近代憲法を作るためにドイツに来ている。だから、さまざまな誘惑に溺れるわけにはいかない。太田の胸には、国の背骨を作るという気概があるのだ。

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