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森鷗外「舞姫」と「カルネアデスの板」

「カルネアデスの板」とは

 「1枚の板に2人乗ると沈んでしまうため、後から来た者を突き落として生き延びた男の罪を問えるか」という話は、古代ギリシアの哲学者が提示した「カルネアデスの板(またはカルネアデスの舟板)」と呼ばれる思考実験(寓話)です。

 船が難破し、海に投げ出された男が1枚の板を見つけてしがみつく。そこにもう1人の男がすがりつこうとしますが、2人乗ると板が沈んで両者とも溺れてしまう。先につかまっていた男は、自分が生き残るために後から来た男を突き飛ばして溺死させるという設定で、この男を殺人の罪に問うことができるか、という問いです。


緊急避難の考え方

 現代の刑法学では、このお話は「緊急避難」の典型例として非常によく知られています。日本の刑法(第37条)を例に挙げると、他人の生命を犠牲にして自分の生命を守る行為について、避難行為がやむを得ない限度を超えていないと判断されれば、犯罪としては処罰されない可能性があります。その際には、違法性が阻却される・責任が免除されるからです。


極限状態における人間の行為を、法律や道徳はどう裁くか?

1、法律上は処罰できない

 先ほども述べたとおり、現代の法律ではこの行為を「緊急避難」として認め、処罰しないとする傾向が強いです。人間には「生きたい」という強烈な本能(自己保存の本能)があり、「自分が死んででも相手に板を譲れ」と法律が強制することはできない(期待可能性がない)という判断です。

2、 道徳・倫理上は悪である

 宗教や道徳、哲学の視点では、自分の命のために他人を犠牲にする行為は「悪」とみなされることがあります。すべての人間の命の価値は平等であるべきであり、自分が生き残るために他人の命を奪う権利は誰にもないとし、たとえ緊急事態であっても許されないという考えです。

※功利主義の立場では善悪を問わない

 「最大多数の最大幸福」を重視する功利主義の立場では、2人とも溺れて死ぬよりは、1人だけでも生き残った方が「社会全体の損失が少ない」と機械的に計算します。そのため、突き落とした行為自体の善悪は問いません。


 このように、「法律としては責められないが、道徳としては美しくない」という矛盾が生じるため、現在も議論が続いています。法律上の無罪と道徳的な罪悪感の相反です。


森鷗外「舞姫」との関連

 ここで突然ですが、森鷗外の小説「舞姫」の主人公・太田豊太郎が、妊娠したエリスを残して帰国した選択は、まさに「カルネアデスの板」と非常によく似た構造を持っています。豊太郎にとっての「板」とは、日本での「社会的地位」や「官僚としての前途」でした。

 エリスとの愛を選べば、豊太郎は社会的に破滅(溺死)します。逆に、日本へ帰国して出世の道(板)を掴むためには、エリスを切り捨てる(突き落とす)しかないと彼は判断したのです。


〇類似点(極限の二者択一)

・自己保存の選択……豊太郎は、自分の社会的生命・位置を守るため、弱い立場にあるエリスを犠牲にしました。

・人間の弱さの露呈……どちらのケースも、理想の道徳(エリスを愛し抜くこと・他人の命を救うこと)よりも、自己の生存や利益を優先してしまう人間のエゴイズムを描いています。


〇決定的に異なる点

 この二つの状況には決定的な違いが存在します。

・命の危険と社会的地位……カルネアデスの板は「命」の奪い合いですが、豊太郎の危機は「社会的地位や名誉」を失うことです。

・騙しと裏切り……カルネアデスの板の男は生きるために正面から抵抗しますが、豊太郎は真実を隠し続けてエリスを欺き、最終的には相沢から帰国の事実を告げられたエリスを精神崩壊(狂気)へと追いやるという裏切りを行いました。

・第三者の介入……豊太郎の背後には、彼を日本に連れ戻そうと画策した友人・相沢謙吉の存在(板へ乗るよう促す存在)がありました。


 このように、カルネアデスの板は、生きるためにやむを得なかったと法的に免責される余地がありますが、豊太郎の選択は、自分の出世のために愛する女性を犠牲にし、しかもそのやり方が非常に汚いという身勝手さが際立つため、多くの読者から批判を浴び続けているのです。


 昔の論評では、当時のエリートが置かれた状況を考えると、「彼もまた社会の犠牲者であり、仕方がなかった」という受け止めが多いです。これに対し、それは言い訳にもならないという意見も多いです。これが豊太郎が今なお激しく批判され続ける理由です。


「言い訳にもならない」という立場での考察

 「社会の犠牲者」という言葉は、彼が犯した裏切りの罪を薄めるためのすり替えや言い訳にしかすぎません。彼には、カルネアデスの板のような物理的な強制力はなく、自分の意志で選択する機会が何度もあったからです。豊太郎の行動が「仕方がなかった」では済まされない理由は、主に3つあります。

1、 責任からの逃亡

 彼はエリスとの生活を選んだはずなのに、いざ免官されると、それまでの自分のアイデンティティであったエリートとしてのプライドを捨てきれずにいました。結局は、主体的な生き方を選ぶ覚悟が持てず、エリスを愛する責任から逃げ出したのです。この結果から逃れることは、彼にはできません。

2、誠実さの欠如

 彼はエリスを安心させるような甘い言葉をかけ続け、帰国が決まった後も真実を伝えることを先延ばしにしました。この不誠実な引き延ばし・欺瞞が、彼女を精神崩壊(狂気)へと追い詰める決定打となりました。

3、相沢への依存(他責思考)

 彼は友人・相沢謙吉に帰国すると約束させられた時も、エリスの病床で涙を流す時も、常に流される存在として自分を被害者・犠牲者のように位置づけます。自分の意志で決断することを放棄し、エリスを傷つけた責任を友情のせいにしている点が最も卑怯で身勝手・狡猾です。


 物語の結末部で豊太郎は、「されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり」と結んでいます。この「憎むこゝろ」という言葉こそ、彼が最後まで自分の罪を認めず、他人のせいにしている(言い訳をしている)証拠です。


「人知らぬ(うらみ)」から「彼を憎むこゝろ」へ

 「人知らぬ恨」から「憎むこゝろ(憎悪)」への変化は、豊太郎の心理が明確に、より醜く尖っていったことを示しています。この二つの感情の関係性は次のように解釈できます。

〇冒頭の「恨み」=対象が曖昧なモヤモヤ

 この時点での「恨み」は、エリスを失った悲しみ、出世コースから一度外された理不尽さ、ドイツでの過酷な運命など、自分を取り巻く状況全体に向けられた、漠然とした割り切れない未練や不満です。

〇結末の「憎むこゝろ」=特定の個人への責任転嫁

 ベルリンでの出来事を手記に書き進め、記憶を整理していく中で、豊太郎の曖昧だった不満が相沢謙吉という特定の個人への具体的な憎しみへと結晶化して終わります。


 このように、表現は「恨み」から「憎むこゝろ」へと変わっていますが、その根底にある言い訳の心理・論理の本質は同じであり、むしろ悪化していると言えます。豊太郎は、旅を振り返る文章を書く(=自己を正当化する)プロセスを通じて、「エリスを狂わせたのは、自分の優柔不断さではなく、すべては相沢が自分を連れ戻しに来たせいだ」と、自分の罪を相沢に完全にすり替えてしまいました。恩人であり親友である相沢を「憎む」ことでしか、自分のプライドと精神のバランスを保てない豊太郎のパーソナリティが、この結末の言葉選びに凝縮されています。

 だから、言い訳の手記を書くことで自己を正当化していく豊太郎の心性を敏感に感じとり、それへの嫌悪を感じる読者が多いのでしょう。


相沢謙吉への「憎むこゝろ」の正体

 豊太郎が相沢を憎むのは、相沢が、「お前を日本に連れ戻す」という「板(出世の機会)」を持ってきた張本人だからです。豊太郎はその板に、我知らずとも自分の意志で飛びついたにもかかわらず、飛びついた醜い自分を見せたくないため、「相沢が俺を板に乗せたのだ」と思い込もうとし、またそのように表現しています。つまり、相沢を憎むこと自体が、豊太郎の主体性のなさ(他責思考)の極み・証拠となります。相沢を、自身のエゴイズムを誘発した張本人とし、またそれを隠蔽するための隠れ蓑(言い訳の装置)として「憎むこゝろ」と再定義したのです。


おわりに

 過去を振り返り、それを言葉として手帳に書きつける作業をすることにより(これを研究者の田中実は、「認識の光を当てる」と表現しました)、豊太郎は、そうするしかなかったのだと、何よりも自分に言い聞かせているかのようです。エリスを裏切るだけでなく、彼は、自分さえも裏切っているのです。

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