森鷗外「舞姫」(本文・口語訳・評論)3
◇本文
余は幼き比より厳しき庭の訓を受けし甲斐に、父をば早く喪ひつれど、学問の荒み衰ふることなく、旧藩の学館にありし日も、東京に出でゝ予備黌に通ひしときも、大学法学部に入りし後も、太田 豊太郎といふ名はいつも一級の首にしるされたりしに、一人子の我を力になして世を渡る母の心は慰みけらし。十九の歳には学士の称を受けて、大学の立ちてよりその頃までにまたなき名誉なりと人にも言はれ、某省に出仕して、故郷なる母を都に呼び迎へ、楽しき年を送ること三とせばかり、官長の覚え殊なりしかば、洋行して一課の事務を取り調べよとの命を受け、我名を成さむも、我家を興さむも、今ぞとおもふ心の勇み立ちて、五十を踰えし母に別るゝをもさまで悲しとは思はず、遙々と家を離れてベルリンの都に来ぬ。
(青空文庫より)
◇口語訳
私は幼いころから厳しい家庭教育を受けたおかげで、父を早くに失ったが、学問が荒み衰えることもなく、藩校で学んだ日も、東京に出て東京大学予備門に通った時も、東京大学法学部に入学した後も、太田豊太郎という名は、いつも首席に記されたので、一人っ子の自分を頼りとして世間を渡る母の心は慰められただろう。十九歳の時には学士の称号を受けて卒業し、大学創立以来の比類ない名誉だと人からも称賛され、某省に出仕し、故郷にいた母を東京に呼び迎え、楽しい年月を過ごして三年ほど経ち、官長の信頼が格別だったので、「洋行して一課の事務を取り調べよ」という命令を受け、「有名になるのも、我が家を再興するのも、今だ」と思う心が勇み立って、五十歳を越えた母と別れるのもそれほど悲しいとは思わずに、はるばると家を離れてベルリンの都に来た。
◇評論
「余は幼き比より」からは、「余」の手記の部分になる。前段末で、「その概略を文につづりてみん」と述べた「余」が、ここから「恨」の説明を始めるのだ。それまで一文字も書かれなかったノートに、文字が書き連ねられる。この後を読むと、一度書き始めたら、心の中の思いが次から次へと言葉となってノートの上に表象されたように感じられる。また、一文字一文字を書き記す作業は、自分の過去を一つ一つ確認する作業となる。
「余」はまず、自分の生い立ちから書き始める。そこから説明しないと、聞き手・読み手に、自分の思いや境遇が理解してもらえないと考えたからだ。
「余は幼き比」から、「厳しき庭の訓を受け」た。その「甲斐」あって、父を「早く喪」ったが、「学問」が「荒み衰ふること」はなく、「旧藩の学館」でも、「予備黌に通ひしときも」、「大学法学部」でも、首席の座を譲ることはなかった秀才だった。
早くに父が亡くなるというハプニング・ハンデも乗り越え、家庭教育が厳しかったおかげで、常に学年トップを守り続けた太田豊太郎。父亡き後は、母親がその教育に励んだことが分かる。母親は、夫亡き後の家の再興を考えている。幸い息子はとても優秀だ。エリートコースをひた走る息子に対し、母親は、自分の夢がかなうことを信じただろう。「立身出世」という言葉そのままの太田豊太郎だった。地方から東京に留学させることには、だいぶ費用もかかっただろう。その点でも母親の奮闘がしのばれる。
夏目漱石「こころ」のお嬢さんも、太田と同じように早くに父を亡くしたが、その母親はやはり、自分の娘をできるだけ前途有望な男性と結婚させたいと思っただろう。そのために娘を女学校へ通わせ、琴や華道の稽古もさせた。東京大学の学生を下宿に受け入れたのも、その意図があったと言ってもいいだろう。軍人の夫を戦争で亡くした奥さんが、娘の結婚による我が家の再興を夢見てもおかしくない。その意味では、縁者のない先生は、最適な人物だった。
ところで、太田は、地方の狭い地域ばかりでなく、東京大学でも首席であり、日本国における有能な人材として、西洋諸国に並ぶ近代国家建設の礎となることが期待された。その自負は、豊太郎とその母にもあった。母の期待に応え、国の期待に応えることが、豊太郎には求められた。
「十九の歳には学士の称を受けて」
学校系統図:文部科学省 (mext.go.jp)には、「入学資格、修業年限がまちまちで図示し得ないが、専門学校として東京外国語学校・青森専門学校・金沢専門学校等があった。大学は医学部が5年、法・文・理学部が4年であった。」とあり、17歳入学・21歳卒業が通常であったようだ。従って、「十九の歳には学士の称を受けて」大学を卒業した太田は、その優秀さから、飛び級や飛び入学で、2年も早く大学を卒業したことになる。
大学卒業後、太田は、「某省に出仕」する。中央官庁のエリートとして、日本近代国家建設に実際に携わることになる。彼は、「故郷」にいる母を「都に呼び迎へ」、3年間、「楽しき年を送る」。まさに順風満帆な人生を歩む太田の様子だ。東京に呼び寄せられた母親は、自分の息子の立派な姿に、これまでの自分の教育に間違いはなかった。息子は自分の期待に応えてくれたと満足しただろう。おまけに留学まで認められた息子に、国際社会で活躍する姿を想像する。しかしこの母親の期待、達成感、満足は、後に無残にも打ち砕かれることになる。
この頃日本は、世界の一等国となるために、近代国家建設を進めていた。太田は東京大学の法学部を卒業しており、ドイツへの留学を命じられたところからすると、明治22(1889)年2月11日に公布され、翌年11月29日に施行された、大日本帝国憲法の作成・制定に関わったと考えるのが自然だろう。大日本帝国憲法は、プロイセン憲法を参考に作られたからだ。また、先にも述べたように、この物語唯一の年号表記は、「明治21年の冬は来にけり」だった。従って、「一課の事務」とは、憲法作成・制定のための調査・研究ということになる。
「五十歳を越えた母」
明治時代の平均寿命は、明治24年~31年の平均で、男42.8歳、女44.3歳となっている。従って、「五十歳を越えた母」は、既に平均寿命を超えていることになり、その母をたったひとり後に残して洋行するということは、よほどの決断が、母にも息子にもあっただろう。それが、今生の別れになるかもしれないからだ。実際に太田は5年後に帰国しており、また母は、豊太郎帰国前に亡くなっている。豊太郎は「五十を踰えし母に別るゝをもさまで悲しとは思はず」と言っているが、母の方はもう会えない可能性を十分に認識したうえで、息子を見送っている。せっかく息子に東京に呼びよせてもらい、ふたり仲良く「楽しき年を送ること三とせばかり」という状態だったからだ。母は息子の成功を心から願っている。しかし太田はそれを裏切ることになる。
豊太郎の洋行の高揚は、「遙々と家を離れてベルリンの都に来ぬ」という表現にも表れる。日本のため、近代国家建設のためなら、母も自分との別れをさほど苦にはしないだろう。むしろ、喜んで送り出してくれたのだろう、という意気軒昂な若者らしさがうかがわれる場面だ。これまで学んだ知識が、いよいよ実社会で応用できるという気持ち。
19歳で大学を卒業した太田は、その3年後の22歳でドイツへと旅立つ。