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森鷗外「舞姫」(本文・口語訳・評論)25~我は免(ゆる)すべからぬ罪人なり

◇本文

 黒がねの(ぬか)はありとも、帰りてエリスに何とかいはん。「ホテル」を出でしときの我心の錯乱は、(たと)へんに物なかりき。余は道の東西をも分かず、思に沈みて行く程に、往きあふ馬車の馭丁に幾度か(しつ)せられ、驚きて飛びのきつ。暫くしてふとあたりを見れば、獣苑の(かたはら)に出でたり。倒るゝ如くに路の()(こしかけ)に倚りて、灼くが如く熱し、(つち)にて打たるゝ如く響く(かしら)榻背(たふはい)に持たせ、死したる如きさまにて幾時をか過しけん。劇しき寒さ骨に徹すと覚えて醒めし時は、夜に入りて雪は繁く降り、帽の(ひさし)、外套の肩には一寸 (ばかり)も積りたりき。

 最早(もはや)十一時をや過ぎけん、モハビツト、カルヽ街通ひの鉄道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルゲル門の(ほとり)瓦斯燈(ガスとう)は寂しき光を放ちたり。立ち上らんとするに足の凍えたれば、両手にて(さす)りて、漸やく歩み得る程にはなりぬ。

 足の運びの(はかど)らねば、クロステル街まで来しときは、半夜をや過ぎたりけん。こゝ迄来し道をばいかに歩みしか知らず。一月上旬の夜なれば、ウンテル、デン、リンデンの酒家、茶店は猶ほ人の出入盛りにて(にぎは)しかりしならめど、ふつに覚えず。我脳中には唯我は(ゆる)すべからぬ罪人なりと思ふ心のみ満ち/\たりき。

 四階の屋根裏には、エリスはまだ()ねずと(おぼ)しく、烱然(けいぜん)たる一星の火、暗き空にすかせば、明かに見ゆるが、降りしきる鷺の如き雪片に、(たちま)ち掩はれ、乍ちまた顕れて、風に(もてあそば)るゝに似たり。戸口に入りしより疲を覚えて、身の節の痛み堪へ難ければ、()ふ如くに梯を登りつ。庖厨(はうちゆう)を過ぎ、室の戸を開きて入りしに、机に倚りて襁褓(むつき)縫ひたりしエリスは振り返へりて、「あ」と叫びぬ。「いかにかし玉ひし。おん身の姿は。」

 驚きしも(うべ)なりけり、蒼然として死人に等しき我面色、帽をばいつの間にか失ひ、髪は(おど)ろと乱れて、幾度か道にて(つまづ)き倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪によごれ、処々は裂けたれば。

 余は答へんとすれど声出でず、膝の(しき)りに戦(をのゝ)かれて立つに堪へねば、椅子を(つか)まんとせしまでは覚えしが、その儘(まゝ)に地に倒れぬ。 (青空文庫より)


◇口語訳

 いかに鉄面皮であったとしても、帰ってエリスに何と言おうか。ホテルを出た時の私の心の錯乱は、たとえようがなかった。私は道の東西も認識できず、思いに沈んで歩くうちに、通りかかった馬車の御者に何度か怒鳴られ、驚いて飛び避けた。しばらくしてふとあたりを見ると、動物園のそばに出た。倒れるように道端のベンチに寄りかかり、焼けるように熱く、ハンマーで叩かれるように響く頭をベンチの背にもたせかけ、死んだような状態でどれほどの時間が経過しただろう。 厳しい寒さに体の芯まで凍えたのを感じて目覚めた時は、夜になり雪が激しく降っており、帽子のひさしやコートの肩には3cmほども雪が積もっていた。

 もう夜の11時を過ぎただろうか、モハビットとカルル街を結ぶ鉄道馬車の軌道も雪に(うず)もれ、ブランデンブルゲル門のそばのガス灯は寂しい光を放っていた。立ち上がろうとするが足が凍えていたので、両手でさすり、ようやく歩くことができるくらいにはなった。

 足の運びがはかどらないので、クロステル街まで来た時は、真夜中を過ぎただろうか。ここまで来た道をどう歩いたかわからない。一月上旬の夜なので、ウンテルデンリンデンの飲み屋や喫茶店はまだ人の出入りが盛んでにぎわっていたようだが、まったく覚えていない。私の頭の中にはただ「自分は許すことのできない罪人だ」と思う気持ちだけでいっぱいだった。

 エリスはまだ起きているようで、4階の屋根裏部屋には、光り輝く一つの星のような火が、暗い空に透かすとはっきりと見えるが、降りしきる鷺の羽のような雪片に、隠れたかと思うとすぐに現れ、風にもてあそばれるようだった。建物の中に入ってから疲労を覚え、体の節々の痛みが堪え難かったので、()うように階段を上った。台所を通り、部屋のドアを開けて中に入ると、机に寄りかかって産着を縫っていたエリスは振り返って「あっ」と叫んだ。「(いったい)どうなさったの! あなたの(そのひどい)姿は!」

 (エリスが)驚いたのも無理はない。死人と同じほど青ざめた顔色、いつの間にか帽子を失くし、髪はひどく乱れ、何度か道でつまづき倒れたので、服は泥交じりの雪で汚れ、所々が裂けていたので。

 私は答えようとしたが声が出ず、膝がしきりにふるえて立つことができないので、椅子をつかもうとしたところまでは覚えているが、そのまま床に倒れてしまった。


◇評論

 共に帰国する意思はないかという天方伯の勧誘に対し、とっさに太田が、「承り侍り」と承諾してしまった後の場面。

 この場面で太田は、エリスに何の相談もなく天方伯たちと日本へ帰ることを承諾してしまったことに対して、良心の呵責を感じている。

 その時の自分の心情は錯乱状態で、自分が今どこにいるのかもはっきりと認識することができない。前後不覚となった太田は危うく馬車に引かれそうになったり、いつのまにか動物園のそばまで歩いてきていることに気づいたりする。体に力が入らず、道端にあったベンチに倒れるように寄りかかる。彼の頭は高熱を発し、ひどい頭痛に襲われる。心からも体からも力が奪われてしまった状態だ。まるで死んだ人のようにしばらく意識が遠のいていたが、あまりの寒さに意識が戻った彼の体には、3cmほどの雪が積もっていた。

 この場面の太田の、自身に対する表現は、良心の呵責により自分の心と体から力が奪われてしまったのだということを言いたいのだ。つまり自分は自分の良心によってこれほどまでに辛く厳しく責められたことは事実であり、それによって前後不覚の状態になってしまった。さらに、自分の体はヨーロッパの冬の厳しさによって、激しく痛めつけられたということを言いたいのだ。

 太田は、自分の心と体がヨーロッパの冬の厳しさによって厳しく責め立てられ、痛めつけられ、それらよって処罰された状態に近いということを言いたいのだろう。 しかしそれはエリスにとっては何の問題の解決にもなっていない。自分には何の説明も相談もなく、太田がひとりで勝手に帰国を決めてしまったということに変わりはない。従ってこの後太田が取るべき態度は、それまでの事実・出来事を素直にそのままエリスに告げることだった。自分の気持ちを正直に伝えることによってエリスとコミュニケーションを図り、ふたりの今後を話し合うべきだった。しかし、これもまた運命のいたずらとでも太田は言いたいのかもしれないが 、家にたどり着いた太田はそのまま倒れて意識を失ってしまう。


 「我は(ゆる)すべからぬ罪人なり」という自己批判、懺悔の心情が、具体的な形となって表れることはなかった。凍てつくドイツの冬の寒さにわざと自分の身体を投げ出した太田だが、それによってエリスが救われるわけではないし、何の罪滅ぼしにもなっていない。自分で自分を痛めつけることで少しでも太田の罪が軽くなれば別だが、しょせん自己満足に終わってしまっている。この部分を読み、「そうだよね、あなたも悩み苦しんだんだね」と太田に同情を寄せる人はいない。とても言い訳がましい自虐でしかない。

 「罪」を認めた者は、相手への説明と謝罪が必要だ。そうして、その賠償・償いの責任を果たさなければならない。太田にはそれが全くない。従って太田は、自分は罪人であると本当には思っていないということになる。


 「烱然(けいぜん)たる一星の火、暗き空にすかせば、明かに見ゆるが、降りしきる鷺の如き雪片に、(たちま)ち掩はれ、乍ちまた顕れて、風に(もてあそば)るゝに似たり」

 この部分は、運命に翻弄されるエリスを喩えた表現。太田に出会うことで父親の葬儀を無事に執り行うことはできたが、お腹の赤子とともに捨て去られようとしているエリス。

 テキスト論の立場では、この手記を書いている太田がこのように表現する意図を探ることになるが、それはエリスにとって残酷でしかない。エリスにしてみれば、愛した人から捨てられただけでなく、帰路の船上で自分がまさかこのように喩えられて筆記されるとは夢にも思わないだろう。太田によって、二度殺されたようなものだ。


「蒼然として死人に等しき我面色、帽をばいつの間にか失ひ、髪は(おど)ろと乱れて、幾度か道にて(つまづ)き倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪によごれ、処々は裂けたれば」

 この姿をエリスに見せることで、太田は自分が少しでも許してもらえる・罪滅ぼしになると考えたのだろうか。それはありえないだろう。


 ところで、この場面の時系列と地理を確認しておく。

 太田がホテルカイゼルホオフに宿る天方伯を訪ねたのは「夕暮れ」だった。帰国を承諾してホテルを出、自宅へ向かうのだが、太田は、「ホテル」→「獣苑の傍ら」→「ブランデンブルゲル門のほとり」(「もはや11時を過ぎけん」)→「ウンテルデンリンデン」→「クロステル街」(「半夜をや過ぎたりけん」)→自宅という経路をたどる。つまり、「道の東西をも分かず」の言葉通り、彼は自分がどこをどう歩いているのかはっきりとは自覚していない状態で移動している。地図で見ると、はじめエリスの待つ自宅とは逆方向に向かっている。これは、まっすぐ帰ることを無意識のうちに避けた形の行程だ。いったん自宅とは反対方向に向かい、動物園でUターンして自宅を目指している。「雪はしげく」降っている夜中の約2㎞の道を、数時間かけて苦悩のうちにひとり歩く太田。「足の運び」が「はかどら」ないのは、寒さのせいばかりではない。帰りにくいのだ。「帰りてエリスに何とか言はん」という状態だったからだ。


「驚きしも(うべ)なりけり、蒼然として死人に等しき我面色、帽をばいつの間にか失ひ、髪は(おど)ろと乱れて、幾度か道にて(つまづ)き倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪によごれ、処々は裂けたれば」

 太田はちゃんとわかっている。この時の自分が、どのような状態だったのかを。「我面色」は、「蒼然として死人に等しき」状態だ。「帽をばいつの間にか失ひ、髪は(おど)ろと乱れて、幾度か道にて(つまづ)き倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪によごれ、処々は裂け」ていることを。もちろんこれらの描写は、後日この時の自分はこうだったのだろうと推測して描いているのだが、この時彼は、罪の意識に痛めつけられている自分の姿を客観的に見る目を持っていたのではないか。文学的な表現であると同時に、そのようなことも感じさせる部分だ。本当に前後不覚な状態であれば、このように自分を冷静に見ることはできないだろうし、「ふつに覚えず」だっただろう。


 「一月上旬の夜」の厳しい寒さで自らに鞭打つ太田だが、それは、問題の解決にも、エリスへの謝罪にもなりえない。空しい自虐だ。 

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